第十七章 王の白き剣
王都の城門前、二つの軍が向かい合った時、空はまだ朝の光を残していた。
反乱軍は陣形を整えて待っていた。先頭にダンテさん、本隊中央に俺とアドニスがいた。後方支援組はフィン・イグナティアの指揮で、補給と負傷者対応を担う。動員可能な人数は百二十人。
王朝軍はそれより少なかった。動員が間に合わなかった、というルシアン経由の情報通りだった。レイヴンが率いるのは八十人ほど。だが、その先頭にレイヴンがいた。
白銀の鎧。
手には宝剣。
遠目でも、その姿は変わらなかった。何度も見た姿。だが、何度見ても、変わらないものがあった。
「アッシュ」
アドニスが俺の隣で言った。
「今日、終わらせます」
「ああ」
「あなたと私で、終わらせます」
俺は頷いた。
アドニスはフードを脱いでいた。銀髪が朝陽に晒されていた。腰には貴族の家伝の剣。背中の弓は持っていなかった。今日は近接で戦う。
* * *
ダンテさんが手を上げた。
手を下ろした瞬間、両軍が動いた。
俺たちは走った。
最初の衝突が起きた。剣戟の音、叫び、砂埃。前衛の兵士たちが、それぞれの相手を見つけて斬り合った。エルクとノルベルトが俺の両側にいた。だが俺の目は、戦場の中央にいる白銀だけを追っていた。
レイヴンが宝剣を振った。
反乱軍兵士が三人、続けて崩れた。剣戟の様子は見えなかった。ただ、振られた一閃で、三人が地に伏した。
あいつ、まだ強い。
コーデリアの祈りはもうない。それでも、まだ強い。
俺は走った。
アドニスが俺の隣を走っていた。
* * *
レイヴンの前に、俺たちは出た。
左右に並んで。
レイヴンは俺たちを見た。
灰色の目が、二人に向いた。
「お前たち二人で来たか」
声は、いつもと同じ低さだった。
「来た」
俺は答えた。
アドニスは黙っていた。剣を構えていた。レイヴンに正面から立つアドニスを、俺はこの戦争で初めて見た。
「私が、お前を倒します」
アドニスは静かに言った。
「お前」
「アドニス・イグナティアです」
レイヴンは少し目を細めた。
「貴族の出だな」
「はい」
「父を殺したのか」
「はい」
レイヴンは宝剣を構え直した。
「お前の覚悟、見せてもらおう」
* * *
最初に動いたのはアドニスだった。
貴族の流派の剣戟。動きが洗練されていた。十五年止めていた、と言っていたが、体は完全に覚えていた。レイヴンの宝剣と、アドニスの剣が交わった。
高い音が鳴った。
俺は左から踏み込んだ。
レイヴンの右側面を狙った。レイヴンはアドニスの剣を弾きながら、俺の剣も同時に受けた。両手で。利き腕に前回受けた矢の傷がまだ残っていたはずだったが、動きは鈍くなかった。
二人がかりだった。
二人がかりで、押せなかった。
レイヴンの宝剣は、俺たちの両方を捌いていた。完全には捌けていない。だが、俺たちの致命の一撃を許さなかった。
俺は思った。
あいつ、本当にコーデリアの祈りがないのか。
あるいは、祈りがなくても、これだけ強いのか。
たぶん、後者だった。
あいつは、規格外を失ってもなお、強かった。
* * *
長い剣戟が続いた。
時間で言えば、何分か。だが感覚としては、もっと長かった。
俺もアドニスも、何度も斬りかかった。何度も受け流された。何度か、レイヴンに掠った。脇腹、肩、腕。だが致命傷は与えられなかった。
逆に、俺たちも傷を負った。
俺の左腕に、宝剣の刃が触れた。深くはない。だが血が滴った。
アドニスの右肩に、レイヴンの一撃が当たった。アドニスは膝をついた。
俺は反射的にアドニスの方に動こうとした。
動こうとした瞬間、レイヴンの宝剣が俺の正面に来た。
「動くな」
レイヴンの声がした。
俺は止まった。
* * *
地に伏したアドニスが、俺の方を見ていた。
目が、何かを訴えていた。
訴えていることが、俺には完全には伝わらなかった。
* * *
アッシュ、私は。
アドニスは肩の痛みの中で思った。
立ち上がらねばならない。お前を一人で戦わせるわけにはいかない。お前にレイヴン殿を仕留めさせる、その瞬間まで、私はお前の隣にいなければならない。
まだ間に合う。
まだ間に合うはずだ。
アドニスは剣を支えに、立ち上がろうとした。
* * *
俺は単独でレイヴンに対峙していた。
アドニスは地に伏している。立ち上がろうとしている、それは見えていた。だが今、俺の目の前にはレイヴンしかいなかった。
レイヴンが俺を見ていた。
灰色の目。揺れていない目だった。
前回揺らいでいた目は、今日は揺らいでいなかった。彼は、決めて、ここに来ていた。
「アッシュ」
「ああ」
「お前は、また来た」
「来た」
「俺は今日、お前を殺せるかもしれん」
あの「ん」を、俺は覚えていた。
彼が一度だけ漏らした砕けた語尾。あれと同じ砕けが、今、出ていた。
「来い」
俺は剣を構え直した。
* * *
レイヴンの一撃が来た。
受けた。
二撃目。受けた。
三撃目。受けきれず、刃が俺の腹に届いた。鎧の上を滑って、肋骨の下に入り込んだ。深くはなかった。だが浅くもなかった。
俺は膝をついた。
血が腹から滴った。
レイヴンが宝剣を振り上げた。
止めの一撃。
俺はそれを受け止める力が、もうなかった。
目を閉じた。
閉じた瞬間、剣戟の音がした。
目を開けた。
アドニスがレイヴンの宝剣を、自分の剣で受けていた。
立ち上がっていた。
* * *
「アッシュ」
アドニスが叫んだ。
「立ってください!」
俺は立ち上がった。
腹の傷を片手で押さえながら、剣を握り直した。
アドニスの右肩は、まだ動かなかった。動かない肩で、剣を支えていた。
「二人で行きます」
「ああ」
俺たちは再びレイヴンに挑んだ。
* * *
今度は、俺たちの動きが噛み合った。
アドニスが正面から斬り込み、俺が側面から踏み込む。レイヴンが俺たちの剣を捌くたびに、わずかに体が傾いた。利き腕の傷が、彼の動きを少しずつ削っていた。
アドニスの剣が、レイヴンの脇腹に届いた。
深い傷だった。
血が宝剣を伝って滴った。
レイヴンは膝をつかなかった。だが、わずかに体勢を崩した。
その崩れの瞬間に、俺は前に出た。
俺の剣が、レイヴンの胸を打った。
胸甲の上から、宝剣を弾く形で。
レイヴンが、初めて、後ろに下がった。
膝をついた。
宝剣を支えにして。
* * *
あいつが、膝をついた。
俺はそれを見て、初めて、勝てるかもしれないと思った。
いや、勝てるかもしれない、ではない。
勝つ、と思った。
俺は剣を構え直した。アドニスも俺の隣で構えた。レイヴンは膝をついたまま、宝剣を支えに立ち上がろうとしていた。
俺たちは、止めを刺すために前に出ようとした。
* * *
その時、横から槍が来た。
反乱軍の兵士の一人だった。名前は知らない。第二領で合流した志願兵の中の誰か、だと思う。彼は走り込んできて、レイヴンの太腿に槍を突き入れた。
深く。
骨に達するほど深く。
レイヴンが呻いた。
呻いたが、宝剣を取り落とさなかった。
兵士は槍を引き抜いて、もう一度突こうとした。レイヴンが宝剣を一閃した。兵士の体が宙に飛んだ。即死だった。
だが、レイヴンの太腿の傷は、戦闘続行を許さない深さだった。
俺はそれを見た。
見て、止まった。
止めを刺せなかった。
刺せなかった、というより、刺すべき瞬間を、横槍が奪っていた。
* * *
レイヴンは宝剣を支えに立ち上がった。
立ち上がったが、太腿から血が止まらなかった。彼は片足で立っていた。傷ついた方の脚は、地面に着けるだけで、踏み込めなかった。
戦闘続行は不可能だった。
彼にも、それは分かったはずだった。
レイヴンは俺を見た。
灰色の目が、俺を見ていた。
その目に、敗北の色はなかった。あるのは、別の何かだった。
「アッシュ」
レイヴンが言った。
「俺は、ここでは死なない」
「白銀」
「俺は、行く場所がある」
レイヴンは宝剣を鞘に収めた。
収めた動作は、片手で、流れるようだった。
彼は片足で、ゆっくりと後退した。
近衛騎士の生き残りが、馬を引いてきた。
レイヴンは馬に乗った。乗る動作も、片手だけで完結していた。
彼は馬上から、俺を見た。
「お前たちは、強くなった」
それだけ言って、彼は馬を走らせた。
王城の方角に。
* * *
俺はレイヴンの後ろ姿を見ていた。
追えなかった。
追える状態ではなかった。腹の傷から血が止まらず、両足に力が入らなかった。アドニスも肩の傷を抱えて、俺の隣で膝をついていた。
追える、追えないの問題ではなかった。
あいつは、追わせなかった。
戦場で勝負がついたわけではなかった。あいつは負けて逃げたのではない。あいつは、自分が行く場所を選んで、そこに向かった。
その場所がどこか、俺には分かった気がした。
「アドニス」
「はい」
「あいつ、王城に向かった」
「はい」
「ゼファーのところだ」
「はい」
アドニスはそれだけ言って、立ち上がろうとした。立ち上がろうとして、肩の傷で動けなかった。
* * *
俺は地面に剣を支えにして立ち上がった。
立ち上がって、ダンテさんを呼んだ。
ダンテさんが駆け寄ってきた。
「アッシュ、生きてるか」
「生きてる」
「腹の傷、見せろ」
「後にしてくれ」
俺は息を整えた。
「あいつ、王城に向かった。俺たちも行く」
「お前たちは負傷してる」
「行く」
ダンテさんは俺の目を見て、しばらく黙った。
「分かった。俺も行く」
ダンテさんは反乱軍に号令をかけた。
王朝軍の生き残りは、レイヴンの後を追うように撤退していた。反乱軍はそれを追わなかった。代わりに、王都の城門に向かった。
城門は開いていた。
王朝軍が撤退する時、閉める余裕がなかったのか、それとも、誰かが内側から開けたのか。どちらか分からない。だが俺は、後者だと思った。
ルシアンか、それに通じた誰かが、開けた。
* * *
俺たちは王都に踏み込んだ。
市街地は静かだった。住民は屋内に隠れていた。戦闘の音を遠くに聞いて、家から出ない判断をしていた。
反乱軍は王城に向かって走った。
俺は腹を片手で押さえて走った。アドニスは肩の傷を抱えて、俺の隣を走った。エルクとノルベルトが俺たちの両側についた。負傷していない兵士が、負傷者を支える形で、隊列を組んでいた。
王城の正門が見えた。
正門には、近衛兵が並んでいた。
その先頭に、ヘリオスがいた。
* * *
ヘリオスは剣を抜いていた。
磨き上げられた剣だった。鎧も磨き上げられていた。蜂蜜色の短髪が、王城の朝陽に染まっていた。
彼の両側には、近衛兵が二十人ほど。だが、彼らの動きは鈍かった。戦意が乏しかった。
ヘリオスだけが、剣を構えていた。
構えていたが、その構えにも、何かが欠けていた。
俺はそれを見て、思った。
あいつ、戦う気がない。
あるいは、戦う気があるのに、体が追いつかない。
どちらかだった。
* * *
「お止まりください」
ヘリオスが声を出した。
「ここから先は、王城でございます。お通しするわけには参りません」
「どけ」
俺は短く言った。
「お止まりください」
「どけ、ヘリオス」
ヘリオスが俺を見た。
「私の名を、ご存じでしたか」
「ルシアン経由で聞いてる」
「そうですか」
ヘリオスは少し笑った。
笑いではなかった。
「アッシュ殿、と申し上げてよろしいですか」
「呼べばいい」
「アッシュ殿、私は、ここで戦わねばなりません」
「分かってる」
「私の覇気は、もう、ございません。レイヴン様が前線に出られた今、私の役割は、王城をお守りすることでした。ですが、私は、レイヴン様がお戻りになるのを、ここで待ちたい」
「あいつなら、もう王城にいる」
俺はそう言った。
ヘリオスの目が、わずかに動いた。
動いて、止まった。
「いらっしゃるのですね」
「いる。あんたが俺を通せば、あいつに会えるかもしれん」
「私は、お通しできません」
「なんで」
「私の役割が、それです」
ヘリオスは剣を構え直した。
* * *
ヘリオスとの剣戟は、長くなかった。
彼の剣の技術は確かだった。だが、剣筋に迷いがあった。攻めの瞬間を逃した。守りも甘かった。
俺は何度か剣を交えて、彼の剣の癖を読んだ。
彼は、本気で守る気がなかった。
いや、守る気がない、というより、守ることに迷っていた。彼の中で、何かが、彼の手を鈍くしていた。
俺はそれを察して、踏み込んだ。
彼の剣を弾いて、胸を貫いた。
深く。
ヘリオスは膝をついた。
剣を取り落とした。
* * *
ヘリオスは膝をついたまま、しばらく動かなかった。
息が荒かった。胸からの血が、磨き上げた鎧を汚していた。
彼は片手を、自分の懐に動かした。
動かして、何かを取り出した。
小さな、布で包まれた箱だった。
手のひらに収まる大きさ。
彼はその箱を、丁寧に布から出した。
木製の、簡素な箱。蓋に銀の留め金が付いていた。
彼は箱を、自分の足元の地面に、そっと置いた。
置く時、わずかに、何かが鳴りかけた。彼は咄嗟に、蓋を抑えなかった。鳴らすことを、彼は望んだのかもしれない。だが、鳴らなかった。彼の手の力が、もう、足りなかった。
箱は、鳴らないまま、地面に置かれた。
* * *
ヘリオスは顔を上げた。
俺の方ではなく、王城の方を見ていた。
その先に、レイヴンがいるはずだった。
彼の唇が、何かを形にしようとしていた。
声は、ほとんど出なかった。だが、彼の唇の動きから、その言葉は読めた。
レイヴン様、もう一度、お会いしたかった。
彼はそれだけ言って、地に伏した。
磨き上げた鎧と、地面に置かれた箱が、並んでいた。
俺は、その箱が何か、分からなかった。
ヘリオスが大切にしていた何か、ということだけが、分かった。
* * *
アドニスが、俺の隣に来ていた。
ヘリオスの遺体を見ていた。
その目が、わずかに動いた。
動いた瞬間、彼は地面の小さな箱を見ていた。見て、何かを察した顔をしていた。
察した、と言っても、確信はしていない。だが、何か、推測していた。
アドニスは、何も言わなかった。
俺も何も訊かなかった。
* * *
ダンテさんが正門から踏み込んできた。
「アッシュ、行くぞ。玉座の間だ」
俺は頷いた。
ヘリオスの遺体を、ノルベルトに任せた。地面の箱は、そのまま置いた。誰も触らないように、と一言だけ言った。
俺とアドニスは、王城の中に入った。
王城の廊下は、長かった。誰もいなかった。近衛兵も、宮廷人も、全員が逃げたか、隠れていた。俺たちの足音だけが響いた。
階段を上った。
二階の奥に、玉座の間の扉があった。
大きな両開きの扉。彫刻が施されている。
扉の前で、俺たちは立ち止まった。
* * *
「アッシュ」
アドニスが言った。
「最後だ」
「ああ」
「行きましょう」
俺は扉に手を伸ばした。
手を伸ばす前に、扉の向こうから、何も音がしないことに気づいた。
誰かがいる気配はあった。だが、声も、足音も、何もしなかった。
静かすぎた。
俺は息を吸って、扉に手をかけた。




