第十六章 オルゴール
夜が更けても、王城の灯りは消えなかった。
ゼファー・アルジャール十三世は玉座の間で、机の前に立っていた。
反乱軍は外周防衛線を半ば突破し、王都中心部までの距離を一日に縮めていた。明朝、彼らは王城に向けて最終突撃を開始する。レイヴンが先頭で迎え撃つ。それが王朝側の最後の戦闘になる。
ゼファーの机には、地方領からの嘆願書がまだ積まれていた。彼は読み続けてきた。読み続けても応えられない、ということを認めながら、それでも読んでいた。
扉が叩かれた。
「陛下」
レイヴンの声だった。
「入れ」
レイヴンが入ってきた。
白銀の鎧、宝剣、腰の短剣、懐の魔石。明日の出陣に向けて、装備を整えていた。
彼の腰の短剣に、ゼファーの目が一瞬だけ動いた。
動いて、すぐに、彼の顔に戻った。
* * *
「陛下、明日の出陣のご報告に参りました」
レイヴンは膝をついた。
「動員可能な兵を率いて、王都外縁で迎え撃ちます。ヘリオスは王城警護として残します」
「それでよい」
ゼファーは静かに答えた。
しばらく沈黙があった。
ゼファーが先に口を開いた。
「レイヴン」
「はい」
「お前の腰の短剣、よく似合っている」
「陛下」
「あれを、お前に返したのは、正しかったか」
レイヴンは頭を上げた。
ゼファーの目を見た。
ゼファーの目は、いつもの穏やかさだった。穏やかな声の下に、深いものがあった。レイヴンは知っていた。
「陛下、これは私が打ったものです」
「そうだ」
「陛下にお守りとしてお持ちいただくべきでした」
「私は、もう守られる必要がない」
ゼファーは少し笑った。
笑ったが、笑いではなかった。
「お前が、明日、戦場に出る。私は、ここで待つ。それぞれの場所で、それぞれの役割を全うする。私には、もう、お守りはいらない」
「陛下」
「お前が、それを腰に下げて戦場に出るのを、私は見たかった。それで、返した」
ゼファーはそれだけ言って、机から離れた。
玉座の方へ歩いた。
歩いて、玉座には座らなかった。玉座の前で立ち止まって、振り返った。
レイヴンを見た。
「レイヴン」
「はい」
「明日、お前は、生きて戻ってこい」
「陛下」
「これは命令だ」
ゼファーの声に、初めて、揺らぎがあった。
レイヴンは何も言わなかった。
応えるべき言葉がなかった。
* * *
ゼファーが歩み寄った。
レイヴンの肩に、手を置いた。
短い接触だった。だが、二十年近く、二人の間で、こういう接触はなかった。剣を捧げる時の作法はあった。負傷した時に支える時はあった。だが、こういう、何の必然もない接触は、なかった。
「お前を、私は」
ゼファーは言いかけて、止めた。
止めて、息を吐いた。
息を吐いてから、別の言葉に変えた。
「お前を、頼りすぎた」
「陛下、それは光栄でございます」
「光栄、と言うな」
「はい」
「私は、お前に酷なことを命じてきた。お前の重剣を、私の理念のために使わせた。お前の宝剣を、私の理念を裏切る形で使わせた。お前のすべてを、私は使った」
「陛下、私は、お役に立てて、嬉しゅうございました」
「嬉しゅう、と言うな」
ゼファーは少し笑った。
今度は、笑いだった。淡い、薄い、消えそうな笑い。
「分かった」
ゼファーは肩から手を引いた。
「行け、レイヴン」
「はい」
「明日、戦場でお前らしくあれ」
「私の全てを、捧げます」
レイヴンは深く頭を下げて、玉座の間を退室した。
* * *
扉が閉まる音が、玉座の間に響いた。
ゼファーは、扉を見ていた。
レイヴンの足音が、廊下を遠ざかっていった。足音が完全に消えてから、ゼファーは机の前に戻った。
戻って、しばらく動かなかった。
彼は、知っていた。
明日、レイヴンが戦場で死ぬ可能性。死なずに戻ってくる可能性。死なずに戻ってきて、玉座の前に膝をつく可能性。それらのすべてを、彼は想定していた。
どれであっても、彼の選択は決まっていた。
彼は、玉座から動かない。
動かないまま、レイヴンを迎える。レイヴンが死んでいれば、彼自身もここで終える。レイヴンが生きていれば、彼の前で、彼自身が終える。
決まっていた。
決まっていることが、彼を支えていた。
彼は机に戻って、嘆願書を一枚、読み始めた。
読みながら、夜が更けた。
* * *
その頃、王城の別棟、ヘリオス・ローズベルの居室では、ヘリオスが鎧を磨いていた。
明日の出陣はない。ヘリオスは王城警護として残る。それでも、彼は鎧を磨いた。万一の時のために。万一、王城内で戦闘が起きる場合のために。
磨きながら、彼の頭の中には、レイヴンのことがあった。
レイヴン様は、明日、戦場に出る。私はここに残る。それぞれの場所で、それぞれの役割を全うする。陛下も、レイヴン様も、私も。
ヘリオスは鎧を磨き終えて、架台に戻した。
戻してから、机の引き出しを開けた。
中に、布で包まれた小さな箱があった。手のひらに収まる大きさ。木製の、簡素な箱。蓋に銀の留め金が付いていた。
彼は箱を取り出して、布から出した。
箱を、机の上に置いた。
しばらく、箱を見ていた。
長い時間、見ていた。
* * *
彼は、箱の蓋を開けた。
中には、小さな機構があった。金属の歯車、回転する筒、突起が並んだ表面。動かすと、旋律が漏れる仕組み。
オルゴールだった。
彼が、レイヴン様にお渡ししたかったもの。
半年前、王都の職人街を歩いていて、見つけた。装飾品を扱う店ではない、楽器の修理を専門とする小さな工房だった。店の奥で、店主が古いオルゴールを修理していた。修理が終わった瞬間、その小さな機構が、控えめな旋律を奏でた。
その音を、彼はその場で聴いた。
聴いた瞬間、なぜか、これだ、と思った。
その時は、自分でも分からなかった。なぜこれが、レイヴン様にお渡ししたいものなのか。理由を、彼は説明できなかった。
だが、ヘリオスはその場で店主に注文した。
半月後、新しいオルゴールが届いた。装飾は控えめで、騎士道の文脈で違和感のないもの。曲は、店主が選んでくれた。彼自身は、曲の名を知らない。知らないまま、受け取った。
半年が経った今、彼は、少しずつ分かる。
レイヴン様は、強い方だった。武具を贈っても、彼の強さの足しにはならない。足しになるような物を贈ること自体が、彼の強さへの侮辱になる気がした。守りたい、と思っても、守れる相手ではなかった。逆に、いつも守られてきた側だった。
自分自身を渡す系統も、違った。彼は騎士として、レイヴン様の傍に控える側にいる。前に出る側ではない。控える者から差し出される自分自身、というものは、レイヴン様の重みに釣り合わない。
装飾品は違った。指輪、ハンカチ、組紐。それらは、もっと別の関係性で交わされるべきものだった。彼とレイヴン様の間に、そういう関係性は、なかった。あってはならなかった。
なら、何が残るか。
戦場ではない場所で、レイヴン様が一人になられる時間。執務室を出て、寝台に座って、剣を脇に置いて、ただ夜を過ごされる時間。そういう時間を、レイヴン様がお持ちになっていることを、彼は知っていた。
その時間に、何かが、寄り添えばいい。
強さではなく、忠義でもなく、感情でもなく、ただ、その時間を温めるだけのもの。
オルゴールは、そういうものだった。
彼の強さに関わらない、ただ彼が安らかであってほしい、という願いだけが、その小さな機構の中に収まっていた。
それを伝えるための言葉を、ヘリオスは持っていなかった。だから、オルゴールを贈ろうとした。言葉の代わりに。
言葉の代わりも、半年、渡せなかった。
渡そうとしたことは、何度もあった。レイヴン様が王城に戻られた時、レイヴン様の鍛錬が終わった時、レイヴン様が王城を出る前夜。何度も、懐に入れて、近くまで行った。
近くまで行って、いつも止まった。
止まった理由を、彼は自分で分かっていた。
* * *
渡せば、何かが終わる。
彼の中で、レイヴン様への感情を、形にしてしまう。形にしてしまえば、その形を、レイヴン様が受け取るか、受け取らないかを、彼は知ることになる。
知りたくなかった。
受け取られても、受け取られなくても、知った瞬間、彼の中の何かが、変質する。
変質を、彼は望まなかった。
形にしないまま、抱えていることが、彼にとっての、形だった。
その形を、彼は守りたかった。
守ることが、彼の感情の最も純度の高いあり方だった。
オルゴールは、渡せないまま、引き出しの中で半年を過ごした。
今夜が、半年目の夜だった。
* * *
ヘリオスは、オルゴールの蓋を閉じた。
閉じる時、わずかに、音が漏れかけた。彼は咄嗟に蓋を抑えて、音を止めた。
ここで、音を出してはいけなかった。
もし出すなら、レイヴン様の前で出さねばならない。それ以外の場所で出すことは、彼自身が許さなかった。
彼は箱を、布で包み直した。
包んで、机の上に置いた。
それから、寝台に座って、しばらく箱を見ていた。
明日、レイヴン様が戦場に出る。
戦場から戻ってくれば、私はお会いできる。戻ってこなければ、お会いできない。
戻ってこなければ、このオルゴールは、誰にも届かない。
誰にも届かないまま、私と共に、終わる。
ヘリオスは、それを覚悟していた。
覚悟していて、それでも、オルゴールを懐に納めようと思った。
明日、王城警護に立つ時、これを懐に持っていく。万一、レイヴン様が戦場で重傷を負って戻られた時、お渡しできるかもしれない。万一、王城内で何かが起きて、私が戦うことになった時、これを最後まで懐に持っている。
いずれの場合でも、これは私と共にある。
彼は箱を、布のまま懐に納めた。
懐の中で、箱が、彼の心臓の近くに収まった。
彼は寝台に横になった。
目を閉じても、すぐに眠れなかった。
だが、いつかは、眠れるはずだった。
明日のために、眠らなければならなかった。
* * *
夜が更けて、王城の灯りが少しずつ消えていった。
ゼファーは玉座の間で、嘆願書を読み続けていた。
ヘリオスは寝台で、懐のオルゴールを抱えたまま、目を閉じていた。
レイヴンは自分の私室で、白銀の鎧を脱いで、寝台の縁に座っていた。腰には短剣が下げられていた。懐には魔石。明日、宝剣を持って戦場に出る。
三人とも、それぞれの場所で、明日を待っていた。
夜明けが来た時、王朝軍が出陣した。
レイヴンが先頭に立った。白銀の鎧、宝剣、腰の短剣、懐の魔石。彼の姿が、城門の朝陽に染まった。
王城の警護は、ヘリオスが指揮した。彼は懐にオルゴールを納めて、近衛兵たちの先頭に立った。
ゼファーは、玉座の間に残った。
彼は玉座に座らなかった。机の前で立っていた。
窓の外で、王朝軍の出陣の音が聞こえた。
彼は、その音を聞きながら、机の上の嘆願書を一枚、また読んだ。
読み終わって、もう一枚、読んだ。
読み続けることが、彼が今、できる唯一のことだった。
* * *
王都の城門前、二つの軍が向かい合った。
反乱軍の先頭にダンテ、本隊中央にアッシュとアドニス。
王朝軍の先頭にレイヴン。
朝陽が、両軍の間の砂漠を、薄い赤で染めていた。




