第十五章 並ぶ
外周防衛線の土壁に、夕闇が降りていた。
反乱軍は土壁の内側に布陣していた。明朝、ここから王都中心部に向けて最終突撃する。距離は半日。
ダンテさんが土壁の上の広場に全軍を集めた。
兵士たちは無言で集まった。誰も口を開かなかった。明日が何かを、全員が分かっていた。
「明日、王朝が終わる」
ダンテさんの声は低かった。
「我々の戦いは、ここまで長かった。三ヶ月前、第一領で腐敗貴族を倒した時から、ここまで来た。途中で多くの仲間を失った。今日もまた、五人を失った」
ダンテさんは間を置いた。
「明日、王城に踏み込む。レイヴン・アルドリックを倒す。ゼファー王と対峙する。王朝を、終わらせる」
兵士たちは黙って聞いていた。
「我々の犠牲は無駄にはしない。明日、勝つ。それだけだ」
短い訓示だった。
ダンテさんは兵士たちに散開を命じた。各自、装備の点検と、休息を取れ、と。
兵士たちは無言で持ち場に戻った。
* * *
俺はアドニスの天幕に向かった。
天幕の前で声をかける前に、中から音がした。金属を布で擦る音。剣の手入れの音だった。
「アドニス」
「どうぞ」
中に入った。
アドニスは寝床の縁に座って、剣を磨いていた。弓ではなかった。剣だった。鞘から抜かれた刃が、蝋燭の光を反射していた。
貴族の家伝の剣、と言っていた。第一領で家を出た時、これだけは持ってきた、と。普段は天幕の奥に置いて、使わなかった。
「お前、剣を持つのか」
「持ちます」
アドニスは手を止めずに答えた。
「明日は近接になります。弓は届きません。城内に入ったら、剣の方がいい」
「お前、剣も使えるんだったな」
「貴族の流派を学びました。父から、家庭教師から。十五年ほど前に止めましたが、体は覚えています」
アドニスは刃を布で拭った。動きに迷いはなかった。
俺はアドニスの隣に座った。少し離れて。
二人で、しばらく剣の手入れの音を聞いていた。
* * *
「アドニス」
「はい」
「明日、お前が前に出るのか」
「出ます」
「俺が前に出るよ」
「いいえ、私が出ます」
アドニスは初めて手を止めた。
「アッシュ」
「ああ」
「明日、私はあなたの前に立ちます」
「お前」
「私が立ちます」
アドニスの声は静かだった。
静かだが、揺るがない声だった。
「お前、何でだよ」
「ルシアンが、王城のどこかにいます」
アドニスは剣を寝床に置いた。
「彼が、私たちが王城に入る時間を稼ぐために、何をしているか、私には分かりません。分からないが、彼は何かをしている。彼が稼いでくれた時間で、私たちは王城に踏み込む」
「うん」
「踏み込んだ後、彼を見つけられるかどうか。生きているか、死んでいるか。何も分からない。何も分からないが、私は王城に入って、確かめなければならない」
「だから、お前が前に出るのか」
「はい」
アドニスは俺を見た。
目が、いつもとは違っていた。決断した男の目、ではなかった。決断したことを引き受けている男の目だった。
「私は、彼を利用しました。利用した結果、彼が王城で何をしているか、私には分からない。それを、私が確かめなければならない。あなたにそれをさせることは、できない」
俺は何も言わなかった。
言うべき言葉が、なかった。
* * *
「アドニス」
「はい」
「俺も前に出る」
「アッシュ」
「お前一人で前に出させない」
「あなたは、レイヴン殿を相手にしてください」
「レイヴンも、お前も、両方やる」
「無理です」
「無理だろうな」
俺は笑った。
笑ったが、笑いではなかった。
「無理だが、両方やる。お前の隣で剣を振る。レイヴンも、ルシアンを確かめるのも、両方一緒にやる」
アドニスはしばらく俺を見ていた。
見ていたが、何も言わなかった。
何も言わずに、剣を鞘に収めた。
「分かりました」
アドニスは静かに言った。
「明日、二人で行きましょう」
俺は頷いた。
* * *
夜が深まった頃、アドニスが立ち上がった。
「アッシュ」
「ああ」
「外に出ませんか」
俺たちは天幕を出た。
野営地の外れ、土壁の縁に出た。土壁の向こうは砂漠で、その先は王都の城壁だった。城壁の上に、王城の灯りが遠く見えた。
二人で、土壁の縁に立った。
肩が触れない距離で、横に並んだ。
星空が出ていた。
砂漠の星空。何度も見たはずだった。野営地で、進軍中の夜営で、岩陰で。何度も見たはずだったが、今夜の星空は、いつもより深く見えた。
深く見えるのは、明日があるからだ、と思った。
明日がない夜の星空は、いつもの星空だ。明日がある夜の星空は、深い。
今夜の星空は、深かった。
「アッシュ」
「ああ」
「明日、私が倒れたら」
「倒れない」
「倒れたら、と仮定して聞いてください」
「聞かない」
「アッシュ」
アドニスは小さく笑った。
「分かりました。倒れません」
「倒れるなよ」
「倒れません」
俺たちは、もう少し近くに立った。
肩が、わずかに触れた。
触れたまま、二人で星を見ていた。
アドニスは何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
言うべき言葉が、お互いに、もうなかった。
* * *
しばらくして、アドニスが小さく口を開いた。
「アッシュ」
「ああ」
「あなたが反乱軍に来て、よかった」
「前にも、それ言ったな」
「言いました。屋敷の屋上で」
「覚えてる」
「あれから、いろいろなことがあった」
「あったな」
「いろいろなことがあって、それでも、あなたが私の隣にいる」
「いる」
「明日も、いる」
「いる」
アドニスは星を見ていた。
俺も星を見ていた。
肩が触れていた。触れたままだった。
アドニスが、何かを言いかけた。
言いかけて、止めた。
止めて、息を吐いた。
吐いた息は、白かった。砂漠の夜は冷たかった。
俺は、止めた言葉が何だったか、訊かなかった。
訊かないことが、今夜の俺にできる、唯一のことだった。
* * *
夜明けが近くなった頃、二人で天幕に戻った。
アドニスは自分の天幕、俺は自分の天幕。それぞれに別れる前、土壁の下で立ち止まった。
「アッシュ」
「ああ」
「お休み」
「ああ。お休み」
短い別れだった。
アドニスは天幕に戻っていった。
俺は自分の天幕に戻る前、もう一度、星を見上げた。
星はもう、薄れ始めていた。
夜明けが近かった。
* * *
俺は天幕に入って、剣を寝床の脇に置いた。
寝ようとして、寝られなかった。
寝られないのは、緊張していたからではなかった。緊張は、もうなかった。あるべきものは、もう全部、頭の中で整理されていた。
明日、レイヴンに会う。
明日、王城に入る。
明日、ルシアンを確かめる。
明日、王朝を倒す。
その全部を、明日やる。
寝床に横になった。横になっても、目は開いていた。
目を閉じても、目を開けても、頭の中の景色は変わらなかった。
白銀の鎧。灰色の目。揺れていた目。
銀色の髪。冷たい目。明日、隣で剣を振る男。
薄紫の目。儚い少年めいた美貌。王城のどこかにいる男。
その全部の顔を、俺は明日、見る。
見るために、明日に向かう。
俺は目を閉じた。
目を閉じると、不思議に、眠れた。
* * *
翌朝、夜明けの光が天幕を照らした時、外で足音がした。
アドニスだった。
「アッシュ、出陣だ」
俺は起き上がった。
「ああ、行こう」
剣を腰に下げて、天幕を出た。
夜明けの光が、土壁の向こうの砂漠を、薄い赤で染めていた。砂漠の彼方に、王都の城壁が見えた。城壁の上に、王城の影が見えた。
反乱軍の兵士たちが、すでに集結していた。
ダンテさんが先頭に立っていた。
俺はアドニスと並んで、本隊の中央に立った。
ダンテさんが手を上げた。
「行くぞ」
手を下ろした。
俺たちは動いた。




