来年という橋を、俺なんかが渡っていいのか
湘南商店街夏まつりまで、あと四日。
夕方の光は、商店街の古い看板を少しだけ優しく見せた。昼間には錆びているだけだった鉄板の端も、剥がれかけたポスターの紙も、閉じたシャッターの細かな傷も、西日の中では、長く生きてきたものだけが持つ鈍い光を帯びていた。
凪斗と美波は、砂原家の玄関を出て、商店街へ続く細い道を歩いていた。
美波のカメラには、応急で補強された代替ストラップがついている。修司がその場で糸を締め直し、ほつれた端を丁寧に押さえ、金具のゆるみを確かめた。完全ではない。けれど、今日明日を歩くぶんには大丈夫だと、あの無口な父は言った。
そして、潮見春樹が昔修理に出した本来の革ストラップは、作業部屋に残っている。
革が乾いている。金具も今のカメラに合わせて見直した方がいい。だから一晩、預からせてくれ。修司はそう言った。
預かっていたものを、もう一度預かる。
その言葉の流れが、凪斗の中でまだ静かに揺れていた。
美波はカメラを胸の前で抱えるように持っている。いつもなら肩から下げて軽く歩くのに、今日は少し違う。壊れそうなものを持っているというより、急に重さを知ってしまったものをどう扱えばいいのか、まだ体がどう反応していいか考えているみたいだった。
住宅街には、夕飯の匂いが満ちていた。焼き魚の煙、味噌汁の湯気、どこかの家のカレー、洗濯物に残った柔軟剤の甘さ。海の町なのに、夕方になるとちゃんと生活の匂いが勝つ。その匂いの中に、さっきまで作業部屋にあった革と接着剤の匂いが、凪斗の鼻の奥でまだ少しだけ残っていた。
「凪斗のお父さん、すごいね」
美波が言った。
声は小さいけど…。でもさ、ちゃんと前へって置かれた言葉だった。
「まあ、靴と革だけはガチだからな」
「だけって言い方」
「会話はだいたい省エネだけど」
「でも、優しい人だと思った」
凪斗はすぐに返せなかった。
父を優しいと言われると、どう反応していいかわからない。修司は優しいのかもしれない。けれど、その優しさは、コンビニの明るいレジ袋みたいに誰にでも見えるものではない。閉じた引き出しの奥で、古い預かり表と一緒に静かに残っているようなものだ。
「預かってたからな、って」
美波は続けた。
「あれ、なんか……ずるかった」
「ずるい?」
「うん。優しいって言わないのに、優しい感じするから」
凪斗は足元を見た。
黒いビーサンが、夕方のアスファルトを踏んでいる。昼の熱がまだ少し残り、底越しにじんわりと温度が伝わってくる。親指の間で鼻緒が擦れた。その感触が、今ここにいる自分をなんとか地面につなぎ止めていた。
美波の黄色いビーサンは、凪斗の少し前を歩いている。
昨日までなら、凪斗はその距離を何も考えずに歩けた。近すぎず、遠すぎず、幼なじみとして自然な距離。けれど、今は違う。潮見春樹の預かり表。父が受け取りに来なかった革ストラップ。美波が「消えたくない十秒」と言った声。そういうものが、二人の間の空気に混ざっている。
近いのに、踏み込むのが怖い。
美波の中にある傷の輪郭が、少しずつ見えてきたからこそ、軽々しく隣へ並ぶのが怖くなる。
商店街を抜けると、海へ続く坂道に出た。
坂の下には、夕暮れの海が広がっている。空はオレンジから紫へ変わりかけ、遠くの雲が焼けた綿菓子みたいにほどけていた。防波堤の向こうから波音が聞こえる。昼間より少し低く、深い音だった。
美波は坂の途中で立ち止まった。
スマホを取り出し、夕暮れの商店街を撮る。閉じかけた八百屋、提灯を直す銀次郎、遠くで屋台の鉄板を拭く竜二、風に揺れる祭りの旗。十秒に満たない短い映像が、次々とスマホの中へ入っていく。
凪斗はその横で、黙っていた。
撮られることにも、撮られないことにも、少しずつ慣れ始めている。美波が何を撮り、何を撮らないのか。その選び方には、彼女の心の温度がある。全部を残そうとしているようで、実はちゃんと残すものを選んでいる。
美波はふいに、カメラを下ろした。
「ねえ、凪斗」
「なんだよ」
「来年も、ここ来たいね」
その言葉は、夕暮れの坂道に何気なく置かれた。
でも凪斗には、橋みたいに見えた。
来年。
その二文字は、思っていたより遠かった。夏休みの宿題みたいにすぐそこにあるものではなく、海の向こうにかかった、まだ渡ったことのない橋だった。
来年も、この商店街があるのか。
来年も、美波はここで笑っているのか。
来年も、自分はその隣にいていいのか。
考えが一気に押し寄せてきて、凪斗の中の言葉が渋滞した。
美波は、ただ自然に言ったのだと思う。何かを迫ったわけではない。約束を取りつけたわけでもない。けれど凪斗にとっては、その自然さこそが怖かった。
美波の未来の中に、自分が当たり前みたいに置かれた気がした。
嬉しい。
嬉しいはずなのに、その嬉しさが大きすぎて、凪斗は受け取り方を間違えた。
「俺なんかと?」
言ってから、しまったと思った。
美波が振り向く。
その表情は、怒ってはいなかった。けれど、ほんの少しだけ傷ついた顔だった。紙の端が水を吸って、静かにふやけるような変化だった。
「なんで、そうなるの」
声は責めていない。
だから余計に、凪斗の胸に刺さった。
「いや、別に」
「別にじゃないでしょ」
美波はカメラを胸の前で持ったまま、凪斗を見た。
夕方の光が、彼女の髪の端を細く光らせている。目元には涙はない。でも、そこにはミスター涙目が見たらきっと何か言いそうな潮位があった。
「凪斗ってさ、自分のこと変って言うじゃん。みんなも言うし、私も言うけど」
「言ってんじゃねぇか」
「言うよ。だって変だもん」
「そこは否定しろよ」
「でも、嫌な変じゃない」
美波の声が、少しだけ揺れた。
「落ちてるビーサンを拾うところも、足元の向きを気にするところも、言葉に困った時に変な理屈へ逃げるところも。知ってるよ。知ってて、来年も凪斗と来たいって言ってる」
凪斗は何も言えなかった。
足元を見る。
黒いビーサンのつま先は、また少し外側を向いている。逃げる時の角度だった。波田マダムが見たら、きっと「ほれ、曲がった」と言うだろう。ミスター涙目なら「目元は平気な顔をしておりますが、心は大雨でございます」と言うに違いない。
凪斗は、その二人の声を思い浮かべて、少しだけ情けなくなった。
自分でもわかっている。
美波がかけてくれた言葉を、そのまま受け取ればよかったのだ。来年も来たいね。うん、来よう。たったそれだけでよかった。けれど凪斗は、嬉しさを受け取る前に、自分がそこにいていいのかを疑ってしまう。
俺なんか。
その言葉は、便利だった。
自分から一歩引くための言い訳にもなるし、傷つく前に逃げるための傘にもなる。けれどその傘は、時々、差し出された誰かの手まで遮ってしまう。
凪斗は、喉の奥に何かが詰まるのを感じた。何か言わなければと思う。けれど、何を言えばいいのかわからない。今、うまく言えないことを、またビーサンの話に逃がしたら、美波をもっと傷つける気がした。
それでも口から出たのは、情けない言葉だった。
「俺、そういうの下手なんだよ」
「知ってる」
「じゃあ許せよ」
「許すけど、慣れたくはない」
美波はそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔は、いつものように全部を許す笑顔ではなかった。少し怒っていて、少し寂しくて、それでも凪斗を完全には手放さない笑顔だった。
凪斗は、それがありがたかった。
ありがたいのに、苦しかった。
坂道を下りきると、砂浜へ出た。
夕方の砂は、昼間の熱を失いかけている。裸足で踏めばまだ温かいけれど、表面には夜の冷たさが薄く降り始めていた。海風は湿っていて、髪とシャツの隙間に入り込む。凪斗のアロハの裾が揺れ、美波のカメラのストラップが小さく音を立てた。
二人は波打ち際まで歩いた。
足あとが並ぶ。
美波の黄色いビーサンの跡は、比較的まっすぐだった。凪斗の黒いビーサンの跡は、少し外側へ逃げている。凪斗はそれに気づいて、思わず自分の足を直した。
遅かった。
美波も見ていた。
「今、直した」
「見んなよ」
「足元、正直だね」
「マダムみたいなこと言うな」
「恋は足元に出る、だっけ」
美波が少しだけ茶化すように言った。
その声に、さっきまでの痛みが少し薄まっているのを感じて、凪斗はほっとした。けれど同時に、完全に消えたわけではないともわかった。傷は、笑ったからといってすぐに消えるものではない。ただ、笑いながら持てる重さになる時があるだけだ。
その時、背後から砂を踏む音がした。
「足元は、嘘をつかん」
振り向かなくても、誰かわかった。
波田マダムだった。
紫のパラソルは持っていない。代わりに、貝殻のついた小さなバッグを肩にかけている。夕暮れの砂浜に立つその姿は、占い師というより、海がうっかり人間の形を取ったようだった。
その隣には、白いスーツの男。
ミスター涙目。
青いハンカチで目元を押さえながら、今日も泣いていない顔をしている。
「泣いておりません。夕日が、目元にログインしているだけでございます」
「ログインって言葉、使うんだ」
凪斗が思わず言うと、ミスター涙目はうなずいた。
「私もアップデートしております」
美波が小さく笑った。
波田マダムは、二人の足あとを見た。
「また曲がっておるな、少年」
「いちいち足あと監視すんなよ」
「監視ではない。診断じゃ」
ミスター涙目は凪斗の目元を見た。
「あなたは、未来を喜ぶ前に、自分を未来から追い出そうとする癖があります」
凪斗は言い返せなかった。
美波も黙っている。
波音が、足元を洗う。寄せた波が二人の足あとを薄くし、また引いていく。消される前の足あとは、なぜか普段よりはっきり見えた。
波田マダムは美波に視線を移した。
「娘よ。誰かを誘う時、相手がすぐ橋を渡れるとは限らん。怖がって欄干にしがみつく者もおる」
「俺のことじゃねえよな?」
「おぬしのことじゃ、アロハ欄干」
「新しいあだ名増やすな」
ミスター涙目は、美波へ青いティッシュを一枚差し出そうとして、やめた。代わりに凪斗へ差し出した。
「未来で泣くのは、彼女とは限りません。あなたかもしれません」
「縁起でもねぇな……。」
「涙は不吉ではございません。心の氷を溶かし水へと戻るだけでございます。」
凪斗はティッシュを受け取りたくなかった。
けれど、完全に拒むこともできなかった。
ミスター涙目は、ティッシュを凪斗のアロハの胸ポケットに勝手に差し込んだ。
「持っておきなさい。未来のあなたは、今のあなたより少し正直かもしれません。」
波田マダムとミスター涙目は、それだけ言うと、波打ち際を離れていった。
去り際、マダムはにぃと笑い、バッグから小さな貝殻を一つ出して、手渡す仕草をした。
美波は貝殻を受け取り、軽く会釈して礼を言った。
「また領収書、増えた」
そう言って、凪斗の方を向いて少しだけ笑った。
凪斗は、その笑顔に救われた気がした。
けれど、救われたからといって、言うべきことが消えるわけではない。
夕日が、海に沈みかけている。
世界全体がオレンジ色に染まり、波の先だけが白く光る。遠くでカモメが鳴いた。潮の匂いが濃くなる。砂が冷え始め、ビーサンの底から夜が近づいてくる。
凪斗は、息を吸った。
「美波」
「うん」
「さっきの、俺なんかってやつ」
美波は何も言わずに待った。
待たれると、逃げたくなる。逃げたくなるのに、今回は足が動かなかった。黒いビーサンが、砂の上でまっすぐ前を向いている。
「悪かった」
それだけだった。
たった四文字。
来年も一緒にいたい、とはまだ言えない。美波の隣にいたい、とも言えない。自分の中にある大きすぎる感情には、まだ名前をつけられない。
でも、傷つけたことだけは、ちゃんと認める。
美波はしばらく黙っていた。
それから、小さくうなずいた。
「うん」
その「うん」は、全部を許す魔法ではなかった。
ただ、受け取ったという合図だった。
それで十分だった。
二人は、しばらく黙って海を見ていた。
やがて美波がスマホを取り出した。
「撮っていい?」
「何を」
「足あと」
「俺の曲がり足あと、晒す気かよ」
「違う。今日のぶん」
美波は、波に消えかけた二人の足あとを撮った。十秒。波が来て、足あとが少し消えて、けれど全部は消えず、砂の上に薄く残る。
録画を止めたあと、美波は画面を見つめた。
「これ、タイトルつけるなら何かな」
凪斗は少し考えた。
「アロハ男、反省する」
「却下」
「じゃあ、来年という橋」
美波は、意外そうに凪斗を見た。
その瞬間、凪斗は自分でも驚いた。まともなことを言ってしまった。しかも少し恥ずかしい。アロハの胸元に差し込まれた青いティッシュが、やけに気になる。
美波はスマホに目を戻し、そっとタイトル欄へ文字を打った。
**来年という橋**
その時、通知が鳴った。
美波のスマホに、メルからメッセージが届いていた。
**未投稿フォルダ整理してたら、変なの見つけた。**
**昨日の夜、商店街PR用の古い共有端末に残ってた動画を見つけた。**
**凪斗くんのお父さんの店の。ちょっと見て欲しい。**
**潮見春樹って名前が出てる。**
美波の指が止まった。
凪斗も画面を見た。
夕暮れの波音が、急に遠くなる。
来年の話をしていたはずだった。
なのに、過去がまた、砂の下から足首をつかんできた。
美波のスマホ画面に、小さなサムネイルが表示されている。
そこには、若い頃の砂原修司らしき男と、カメラを持った潮見春樹らしき男が、閉じる前の靴修理店の 前で並んで映っていた。
凪斗は、言葉を失った。
父と父は、ただすれ違っていただけではなかった。
どうやら、昔から知り合いだったらしい。
波が足元まで来て、二人の足あとをまた少し消した。
けれど今度は、消えた部分より、残った部分の方が気になった。




