↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/19

来年という橋を、俺なんかが渡っていいのか

 湘南商店街夏まつりまで、あと四日。


 夕方の光は、商店街の古い看板を少しだけ優しく見せた。昼間には錆びているだけだった鉄板の端も、剥がれかけたポスターの紙も、閉じたシャッターの細かな傷も、西日の中では、長く生きてきたものだけが持つ鈍い光を帯びていた。


 凪斗と美波は、砂原家の玄関を出て、商店街へ続く細い道を歩いていた。


 美波のカメラには、応急で補強された代替ストラップがついている。修司がその場で糸を締め直し、ほつれた端を丁寧に押さえ、金具のゆるみを確かめた。完全ではない。けれど、今日明日を歩くぶんには大丈夫だと、あの無口な父は言った。


 そして、潮見春樹が昔修理に出した本来の革ストラップは、作業部屋に残っている。


 革が乾いている。金具も今のカメラに合わせて見直した方がいい。だから一晩、預からせてくれ。修司はそう言った。


 預かっていたものを、もう一度預かる。


 その言葉の流れが、凪斗の中でまだ静かに揺れていた。


 美波はカメラを胸の前で抱えるように持っている。いつもなら肩から下げて軽く歩くのに、今日は少し違う。壊れそうなものを持っているというより、急に重さを知ってしまったものをどう扱えばいいのか、まだ体がどう反応していいか考えているみたいだった。


 住宅街には、夕飯の匂いが満ちていた。焼き魚の煙、味噌汁の湯気、どこかの家のカレー、洗濯物に残った柔軟剤の甘さ。海の町なのに、夕方になるとちゃんと生活の匂いが勝つ。その匂いの中に、さっきまで作業部屋にあった革と接着剤の匂いが、凪斗の鼻の奥でまだ少しだけ残っていた。


「凪斗のお父さん、すごいね」


 美波が言った。


 声は小さいけど…。でもさ、ちゃんと前へって置かれた言葉だった。


「まあ、靴と革だけはガチだからな」


「だけって言い方」


「会話はだいたい省エネだけど」


「でも、優しい人だと思った」


 凪斗はすぐに返せなかった。


 父を優しいと言われると、どう反応していいかわからない。修司は優しいのかもしれない。けれど、その優しさは、コンビニの明るいレジ袋みたいに誰にでも見えるものではない。閉じた引き出しの奥で、古い預かり表と一緒に静かに残っているようなものだ。


「預かってたからな、って」


 美波は続けた。


「あれ、なんか……ずるかった」


「ずるい?」


「うん。優しいって言わないのに、優しい感じするから」


 凪斗は足元を見た。


 黒いビーサンが、夕方のアスファルトを踏んでいる。昼の熱がまだ少し残り、底越しにじんわりと温度が伝わってくる。親指の間で鼻緒が擦れた。その感触が、今ここにいる自分をなんとか地面につなぎ止めていた。


 美波の黄色いビーサンは、凪斗の少し前を歩いている。


 昨日までなら、凪斗はその距離を何も考えずに歩けた。近すぎず、遠すぎず、幼なじみとして自然な距離。けれど、今は違う。潮見春樹の預かり表。父が受け取りに来なかった革ストラップ。美波が「消えたくない十秒」と言った声。そういうものが、二人の間の空気に混ざっている。


 近いのに、踏み込むのが怖い。


 美波の中にある傷の輪郭が、少しずつ見えてきたからこそ、軽々しく隣へ並ぶのが怖くなる。


 商店街を抜けると、海へ続く坂道に出た。


 坂の下には、夕暮れの海が広がっている。空はオレンジから紫へ変わりかけ、遠くの雲が焼けた綿菓子みたいにほどけていた。防波堤の向こうから波音が聞こえる。昼間より少し低く、深い音だった。


 美波は坂の途中で立ち止まった。


 スマホを取り出し、夕暮れの商店街を撮る。閉じかけた八百屋、提灯を直す銀次郎、遠くで屋台の鉄板を拭く竜二、風に揺れる祭りの旗。十秒に満たない短い映像が、次々とスマホの中へ入っていく。


 凪斗はその横で、黙っていた。


 撮られることにも、撮られないことにも、少しずつ慣れ始めている。美波が何を撮り、何を撮らないのか。その選び方には、彼女の心の温度がある。全部を残そうとしているようで、実はちゃんと残すものを選んでいる。


 美波はふいに、カメラを下ろした。


「ねえ、凪斗」


「なんだよ」


「来年も、ここ来たいね」


 その言葉は、夕暮れの坂道に何気なく置かれた。


 でも凪斗には、橋みたいに見えた。


 来年。


 その二文字は、思っていたより遠かった。夏休みの宿題みたいにすぐそこにあるものではなく、海の向こうにかかった、まだ渡ったことのない橋だった。


 来年も、この商店街があるのか。

 来年も、美波はここで笑っているのか。

 来年も、自分はその隣にいていいのか。


 考えが一気に押し寄せてきて、凪斗の中の言葉が渋滞した。


 美波は、ただ自然に言ったのだと思う。何かを迫ったわけではない。約束を取りつけたわけでもない。けれど凪斗にとっては、その自然さこそが怖かった。


 美波の未来の中に、自分が当たり前みたいに置かれた気がした。


 嬉しい。

 嬉しいはずなのに、その嬉しさが大きすぎて、凪斗は受け取り方を間違えた。


「俺なんかと?」


 言ってから、しまったと思った。


 美波が振り向く。


 その表情は、怒ってはいなかった。けれど、ほんの少しだけ傷ついた顔だった。紙の端が水を吸って、静かにふやけるような変化だった。


「なんで、そうなるの」


 声は責めていない。


 だから余計に、凪斗の胸に刺さった。


「いや、別に」


「別にじゃないでしょ」


 美波はカメラを胸の前で持ったまま、凪斗を見た。


 夕方の光が、彼女の髪の端を細く光らせている。目元には涙はない。でも、そこにはミスター涙目が見たらきっと何か言いそうな潮位があった。


「凪斗ってさ、自分のこと変って言うじゃん。みんなも言うし、私も言うけど」


「言ってんじゃねぇか」


「言うよ。だって変だもん」


「そこは否定しろよ」


「でも、嫌な変じゃない」


 美波の声が、少しだけ揺れた。


「落ちてるビーサンを拾うところも、足元の向きを気にするところも、言葉に困った時に変な理屈へ逃げるところも。知ってるよ。知ってて、来年も凪斗と来たいって言ってる」


 凪斗は何も言えなかった。


 足元を見る。


 黒いビーサンのつま先は、また少し外側を向いている。逃げる時の角度だった。波田マダムが見たら、きっと「ほれ、曲がった」と言うだろう。ミスター涙目なら「目元は平気な顔をしておりますが、心は大雨でございます」と言うに違いない。


 凪斗は、その二人の声を思い浮かべて、少しだけ情けなくなった。


 自分でもわかっている。


 美波がかけてくれた言葉を、そのまま受け取ればよかったのだ。来年も来たいね。うん、来よう。たったそれだけでよかった。けれど凪斗は、嬉しさを受け取る前に、自分がそこにいていいのかを疑ってしまう。


 俺なんか。


 その言葉は、便利だった。


 自分から一歩引くための言い訳にもなるし、傷つく前に逃げるための傘にもなる。けれどその傘は、時々、差し出された誰かの手まで遮ってしまう。


 凪斗は、喉の奥に何かが詰まるのを感じた。何か言わなければと思う。けれど、何を言えばいいのかわからない。今、うまく言えないことを、またビーサンの話に逃がしたら、美波をもっと傷つける気がした。


 それでも口から出たのは、情けない言葉だった。


「俺、そういうの下手なんだよ」


「知ってる」


「じゃあ許せよ」


「許すけど、慣れたくはない」


 美波はそう言って、少しだけ笑った。


 その笑顔は、いつものように全部を許す笑顔ではなかった。少し怒っていて、少し寂しくて、それでも凪斗を完全には手放さない笑顔だった。


 凪斗は、それがありがたかった。


 ありがたいのに、苦しかった。


 坂道を下りきると、砂浜へ出た。


 夕方の砂は、昼間の熱を失いかけている。裸足で踏めばまだ温かいけれど、表面には夜の冷たさが薄く降り始めていた。海風は湿っていて、髪とシャツの隙間に入り込む。凪斗のアロハの裾が揺れ、美波のカメラのストラップが小さく音を立てた。


 二人は波打ち際まで歩いた。


 足あとが並ぶ。


 美波の黄色いビーサンの跡は、比較的まっすぐだった。凪斗の黒いビーサンの跡は、少し外側へ逃げている。凪斗はそれに気づいて、思わず自分の足を直した。


 遅かった。


 美波も見ていた。


「今、直した」


「見んなよ」


「足元、正直だね」


「マダムみたいなこと言うな」


「恋は足元に出る、だっけ」


 美波が少しだけ茶化すように言った。


 その声に、さっきまでの痛みが少し薄まっているのを感じて、凪斗はほっとした。けれど同時に、完全に消えたわけではないともわかった。傷は、笑ったからといってすぐに消えるものではない。ただ、笑いながら持てる重さになる時があるだけだ。


 その時、背後から砂を踏む音がした。


「足元は、嘘をつかん」


 振り向かなくても、誰かわかった。


 波田マダムだった。


 紫のパラソルは持っていない。代わりに、貝殻のついた小さなバッグを肩にかけている。夕暮れの砂浜に立つその姿は、占い師というより、海がうっかり人間の形を取ったようだった。


 その隣には、白いスーツの男。


 ミスター涙目。


 青いハンカチで目元を押さえながら、今日も泣いていない顔をしている。


「泣いておりません。夕日が、目元にログインしているだけでございます」


「ログインって言葉、使うんだ」


 凪斗が思わず言うと、ミスター涙目はうなずいた。


「私もアップデートしております」


 美波が小さく笑った。


 波田マダムは、二人の足あとを見た。


「また曲がっておるな、少年」


「いちいち足あと監視すんなよ」


「監視ではない。診断じゃ」


 ミスター涙目は凪斗の目元を見た。


「あなたは、未来を喜ぶ前に、自分を未来から追い出そうとする癖があります」


 凪斗は言い返せなかった。


 美波も黙っている。


 波音が、足元を洗う。寄せた波が二人の足あとを薄くし、また引いていく。消される前の足あとは、なぜか普段よりはっきり見えた。


 波田マダムは美波に視線を移した。


「娘よ。誰かを誘う時、相手がすぐ橋を渡れるとは限らん。怖がって欄干にしがみつく者もおる」


「俺のことじゃねえよな?」


「おぬしのことじゃ、アロハ欄干」


「新しいあだ名増やすな」


 ミスター涙目は、美波へ青いティッシュを一枚差し出そうとして、やめた。代わりに凪斗へ差し出した。


「未来で泣くのは、彼女とは限りません。あなたかもしれません」


「縁起でもねぇな……。」


「涙は不吉ではございません。心の氷を溶かし水へと戻るだけでございます。」


 凪斗はティッシュを受け取りたくなかった。


 けれど、完全に拒むこともできなかった。


 ミスター涙目は、ティッシュを凪斗のアロハの胸ポケットに勝手に差し込んだ。


「持っておきなさい。未来のあなたは、今のあなたより少し正直かもしれません。」


 波田マダムとミスター涙目は、それだけ言うと、波打ち際を離れていった。


 去り際、マダムはにぃと笑い、バッグから小さな貝殻を一つ出して、手渡す仕草をした。


 美波は貝殻を受け取り、軽く会釈して礼を言った。


「また領収書、増えた」


 そう言って、凪斗の方を向いて少しだけ笑った。


 凪斗は、その笑顔に救われた気がした。


 けれど、救われたからといって、言うべきことが消えるわけではない。


 夕日が、海に沈みかけている。


 世界全体がオレンジ色に染まり、波の先だけが白く光る。遠くでカモメが鳴いた。潮の匂いが濃くなる。砂が冷え始め、ビーサンの底から夜が近づいてくる。


 凪斗は、息を吸った。


「美波」


「うん」


「さっきの、俺なんかってやつ」


 美波は何も言わずに待った。


 待たれると、逃げたくなる。逃げたくなるのに、今回は足が動かなかった。黒いビーサンが、砂の上でまっすぐ前を向いている。


「悪かった」


 それだけだった。


 たった四文字。


 来年も一緒にいたい、とはまだ言えない。美波の隣にいたい、とも言えない。自分の中にある大きすぎる感情には、まだ名前をつけられない。


 でも、傷つけたことだけは、ちゃんと認める。


 美波はしばらく黙っていた。


 それから、小さくうなずいた。


「うん」


 その「うん」は、全部を許す魔法ではなかった。


 ただ、受け取ったという合図だった。


 それで十分だった。


 二人は、しばらく黙って海を見ていた。


 やがて美波がスマホを取り出した。


「撮っていい?」


「何を」


「足あと」


「俺の曲がり足あと、晒す気かよ」


「違う。今日のぶん」


 美波は、波に消えかけた二人の足あとを撮った。十秒。波が来て、足あとが少し消えて、けれど全部は消えず、砂の上に薄く残る。


 録画を止めたあと、美波は画面を見つめた。


「これ、タイトルつけるなら何かな」


 凪斗は少し考えた。


「アロハ男、反省する」


「却下」


「じゃあ、来年という橋」


 美波は、意外そうに凪斗を見た。


 その瞬間、凪斗は自分でも驚いた。まともなことを言ってしまった。しかも少し恥ずかしい。アロハの胸元に差し込まれた青いティッシュが、やけに気になる。


 美波はスマホに目を戻し、そっとタイトル欄へ文字を打った。


 **来年という橋**


 その時、通知が鳴った。


 美波のスマホに、メルからメッセージが届いていた。


 **未投稿フォルダ整理してたら、変なの見つけた。**

 **昨日の夜、商店街PR用の古い共有端末に残ってた動画を見つけた。**

 **凪斗くんのお父さんの店の。ちょっと見て欲しい。**

 **潮見春樹って名前が出てる。**


 美波の指が止まった。


 凪斗も画面を見た。


 夕暮れの波音が、急に遠くなる。


 来年の話をしていたはずだった。


 なのに、過去がまた、砂の下から足首をつかんできた。


 美波のスマホ画面に、小さなサムネイルが表示されている。


 そこには、若い頃の砂原修司らしき男と、カメラを持った潮見春樹らしき男が、閉じる前の靴修理店の 前で並んで映っていた。


 凪斗は、言葉を失った。


 父と父は、ただすれ違っていただけではなかった。


 どうやら、昔から知り合いだったらしい。


 波が足元まで来て、二人の足あとをまた少し消した。


 けれど今度は、消えた部分より、残った部分の方が気になった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。