父の作業部屋には、古い革の匂いがする
湘南商店街夏まつりまで、あと三日。
来年の話をしたばかりだった。
来年も、ここへ来たいね、と美波が言い、凪斗が「俺なんかと」と余計なことを言い、足元を曲げ、謝り、波に足あとを少し消され、それでもまだ砂の上に残ったものを二人で見ていた。夕暮れは、そういう弱さまでオレンジ色に包んでくれるから、ずるい。
けれど、そのやわらかい時間に、メルからの通知が割り込んできた。
画面に表示された小さなサムネイル。
若い頃の砂原修司らしき男と、カメラを持った潮見春樹らしき男。場所は、昔にまだシャッターが開いていた砂原靴修理店の前。二人は親友のように肩を組んでいるわけではない。ただ、少し照れくさそうに同じ画面の中に立っていた。
それだけで、凪斗の中の足元がぐらついた。
二人は、ただ偶然すれ違ったわけではなかったのかもしれない。
砂浜から商店街へ戻る坂道は、さっきより少し長く感じた。アスファルトには昼の熱がまだ残っていて、黒いビーサンの底越しにじわりと伝わってくる。海風は背中から吹き、凪斗のアロハシャツの裾を押した。進め、と言われているみたいで、少し腹が立つ。
美波は隣で黙っていた。
肩から下げたカメラには、修司が応急で補強した代替ストラップがついている。縫い目はまだ新しく、補強された部分だけが少し硬い。父の本来の革ストラップは、今夜、修司の作業部屋で手入れされているはずだった。乾いた革に油を入れ、古い金具を確かめ、もう一度使えるようにするために。
預かっていたものを、もう一度預かる。
その言葉が、凪斗の胸にまだ残っている。
商店街の中央広場に着くと、受付ブースの蛍光灯だけがぼんやり点いていた。昼間は応募用紙とペンと銀次郎の大声でごちゃごちゃしていた場所が、夜になると少し頼りない。机の上には、風でめくれたチラシが一枚。遠くの屋台倉庫から、誰かが金具を片づける乾いた音が聞こえた。
メルはブースの椅子に座っていた。
緑メッシュの髪を片手でかき上げ、スマホを二台と、古いタブレット端末を机に並べている。昼間の配信中みたいな勢いはなく、画面の青白い光を顔に受けて、少しだけ眠そうに見えた。
「ごめん、早々に来てもらって」
メルは二人を見るなり言った。
「商店街PR用の古い共有端末を借りてみてたらさ。昔の祭り映像をデータ化したフォルダが残ってたっんよ。化石ファイル、発掘したって感じ。イェイ」
凪斗はタブレットを見た。
「イェイじゃねえよ。化石掘るなよ、勝手に」
「共有端末だし。あと、銀次郎さんに許可取った。そしたら『波が来ている! やっていいぞ』って言われた」
「あの人、個人情報より波を信じてるからな」
凪斗はそう言ったが、声にいつもの軽さはなかった。
メルもそれを察したのか、余計なツッコミは入れなかった。画面を操作し、問題の動画を開く。タブレットのスピーカーから、古いノイズがざらりと流れた。まるで、砂を手のひらでこすったような音だった。
映像は粗かった。
色は少し褪せ、画面の端はかすかに歪んでいる。それでも、映っている場所ははっきりわかった。営業していた頃の砂原靴修理店。シャッターは開き、入口には革靴が並び、木の看板には今より濃い文字で「砂原靴修理店」と書かれている。
若い修司が映っていた。
今より髪が黒く、肩も少し細い。けれど大きな手の形は同じだった。彼はカメラを向けられるのが苦手そうに、革靴を磨く手を止めず、顔だけそっぽを向いている。
その向こうで、カメラを構えた若い男が笑っていた。
潮見春樹。
美波の父。
美波は息を飲んだ。
画面の中の春樹は、凪斗が想像していた「離れて暮らす父親」という遠い影ではなかった。若くて、少し調子に乗っていて、レンズの向こうから誰かを笑わせようとしている。カメラを持つ手つきには迷いがなく、何かを撮ることが楽しくて仕方ない人の空気があった。
「お父さん、笑ってる」
美波の声は、とても小さかった。
その一言は、ただの感想ではなかった。
父にも青春があった。誰かと笑い合う時間があった。商店街の埃っぽい光の中で、カメラを持って走り回っていた日があった。そんな当たり前のことが、美波にとっては、痛いくらい新しかったのだと思う。
凪斗は何も言えなかった。
画面の中で、春樹が修司に何か話しかけている。修司は最初、面倒くさそうにしていたが、やがて小さくうなずいた。二人の距離は近すぎない。けれど、初対面ではない。互いの不器用さを少し知っている人間同士の距離だった。
肝心なところで音声が途切れた。
春樹の口元は動いているのに、聞こえるのはノイズばかり。メルが画面を止め、指で拡大する。美波はその口元をじっと見た。まるで、そこから父の不在の理由まで読み取ろうとしているみたいだった。
「音、ちょっといじれば拾えるかも」
メルが言った。
「私、こういうノイズ消すやつ、簡単なのならできる。動画編集ガチ勢じゃないけど、まあ、ワンチャン」
美波はうなずいた。
「お願い」
その声は、昼間メルとぶつかった時よりも、ずっと素直だった。
メルは一瞬、照れたように目をそらした。
「任せて。バズ以外も、たまには役立ちますぜぃ」
受付ブースを出ると、夜の商店街は少し湿っていた。昼の熱を吸ったアスファルトから、雨でもないのに土っぽい匂いがする。閉じた店のシャッターが並び、ネオンの切れかけた看板が、ところどころで小さく瞬いていた。
凪斗は、砂原靴修理店の前で足を止めた。
閉じたシャッターは、昼より黒く見える。鍵の近くには細かな傷があり、下の隙間には砂がたまっている。中に父の店の時間がまだ残っているようで、凪斗はそこへ耳を近づけたくなった。
もちろん、何も聞こえない。
けれど、革の匂いがした気がした。
昔の客の声。父が工具を置く音。春樹がカメラを構える気配。そういうものが、閉じた金属の奥でまだ薄く息をしているようだった。
「俺、おやじに聞く」
凪斗は言った。
美波が彼を見る。
「いいの?」
「わからんけど、聞かねぇとさ、ずっと足元曲がってる気がする」
美波は少しだけ笑った。
「マダムみたいなこと言ってる」
「やめろ。あの人に思想乗っ取られたくねぇ」
そう返したが、凪斗の足元の黒いビーサンは、今夜だけ少しまっすぐ前を向いていた。
家に戻ると、作業部屋の灯りがついていた。
扉の隙間から、革の匂いが漏れている。乾いた革に油を入れた匂い、接着剤の少し刺激のある匂い、古い金属の冷たい匂い。凪斗にはその匂いが、父の言葉の代わりみたいに感じられることがある。
部屋に入ると、修司は作業机の前に座っていた。
蛍光灯の白い光の下で、美波の今の代替ストラップと、春樹が修理に出した本来の革ストラップが並んでいる。代替ストラップのほつれた部分は、細い糸で補強されていた。一方、古い革ストラップには、布に染み込ませた油がゆっくりなじんでいるところだった。焦げ茶の革が、少しずつ深い色を取り戻している。
修司の大きな手は、相変わらず無駄に動かない。
壊れた場所を、愛おしむようにまだ使える場所を探す。そんな手だった。
「おやじ…。」
凪斗は入口で立ち止まった。
修司は顔を上げずに、「なんだ」と言った。
「潮見春樹って、どんな人だったんだよ」
唐突だが、ぶっきらぼうな父には、直球で聞いた方がいい気がしていた。
作業部屋の空気が、ほんの少しだけ硬くなった。
修司の手は止まらなかった。革に布を滑らせる音が、しゅ、しゅ、と小さく続く。外では原付が遠くを通り過ぎ、窓ガラスがかすかに震えた。
長い沈黙のあと、修司は言った。
「よくカメラで何か撮る人だった」
「それだけかよ」
凪斗の声には、思ったより苛立ちが混ざった。
修司は怒らなかった。ただ、革の端を指で確かめたあと、低く続けた。
「そうだな。それでな、人が目をそらすところを撮る人だった」
凪斗は黙った。
「閉まりかけた店とか、祭りの後のゴミとか、笑った後に急に黙る顔とか。みんなが見なかったことにするところへ、あの人はカメラを向けた」
美波と同じだ、と思った。
青のりが逃げた後の紙ナプキン。閉じた湘南座のシャッター。古い預かり表。足あとが波に消える瞬間。美波もまた、消える前のものへカメラを向ける。
それは父の真似なのか。血なのか。それとも、会えない時間を越えて似てしまった祈りなのか。
凪斗にはわからなかった。
彼はスマホを取り出し、一瞬だけ躊躇してメルから送られた古い映像を父に見せた。画面の中で、若い春樹が若い修司へカメラを向けている。
修司は一度だけ、眉を動かした。
懐かしむというより、しまっていた引き出しを勝手に開けられた人の顔だった。
「これ、何話してんだよ」
凪斗が、共有端末の画面の画像をスマホで見せると、修司はしばらく画面を見て、そして、言った。
「第1回の十秒映画祭の時だな。春樹さんは、商店街を撮って回ってた。うちにも来た」
「それで、ストラップ預けたのか?」
「ああ。金具が甘くなってた。革も傷んでた」
「なんで取りに来なかったんだよ」
その問いだけは、部屋の奥まで届いた気がした。
修司は答えるまでに時間をかけた。
革の表面を見て、布を置き、預かり表を指先で少しずらした。その紙には、簡素な文字だけが残っている。
**お名前:潮見 春樹 様**
**お預かり品:カメラ用革ストラップ**
**内容:金具交換・革補強**
**状態:修理済/未受け取り**
「知らん」
修司は言った。
けれど、凪斗はその「知らん」をそのまま受け取れなかった。
知らない、というより、知っているところまでしか言いたくない人の声だった。あるいは、知りたくなかったことまで覚えている人の声。
「ほんとかよ?」
凪斗は聞いた。
修司は凪斗を見た。
その目に、少しだけ疲れがあった。
「聞きたいことは、一度に聞くな」
「なんだよ、それ」
「言う方も、直す方も、急ぎすぎると革を破く」
凪斗は言い返せなかった。
変なたとえ話なのに、妙に合っている気がした。父は、話したくないことに対して完全に閉じているわけではない。ただ、どこから触れれば破れないかを探している。そういう沈黙もあるのだと、凪斗は初めて少しだけ思った。
修司は古い革ストラップを手に取り、乾いた部分へもう一度油をなじませた。
「靴も革も、壊れたから終わりじゃない」
その声は、作業部屋の木の机に静かに沈んだ。
「持ち主がまた歩きたいなら直せばいい」
凪斗は、その言葉を聞いた瞬間、美波のカメラを思い出した。
受け取りに来なかった春樹。預かり続けていた修司。父の名前を見つけるたびに、少しずつ遠くへ行く美波。来年という橋の前で、勝手に自分を追い出そうとした自分。
また歩きたいなら。
それは簡単な励ましではなかった。
歩きたいと思わなければ、直しても意味がないという厳しさも含んでいた。
凪斗は、勢いで別のことまで聞きそうになった。
なんで店を閉めたんだよ。
母さんが出ていった時、なんで止めなかったんだよ。
言わなかった言葉は、どこへ行くんだよ。
喉まで来た。
けれど、その夜はまだ言い出せなかった。
父の手元には、古い革ストラップがある。美波の代替ストラップもある。春樹のことも、母のことも、全部一気に机へ広げたら、何かが破れてしまいそうだった。
修司は何も言わなかった。
ただ、革を磨く手を止めなかった。
その音だけが、しばらく部屋に続いた。
作業部屋を出たあと、凪斗は自室へ戻った。
窓の外には、夜の商店街の灯りが少しだけ見える。遠くで海が鳴っている。昼間の波とは違う、暗くて大きくてゆっくりな呼吸のような音だった。
凪斗はベッドの横に座り、黒いビーサンを見つめた。
まだ飛ばしていないビーサン。
何度も砂浜を歩き、商店街を抜け、美波の隣に並び、逃げる時には少し外側を向いてきたビーサン。
凪斗は、自分が守っていたのは足元ではなく、変わらない距離だったのかもしれないと思った。
美波に「来年も」と言われた時、どうして「俺なんか」と言ってしまったのか。あの時、自分は未来を怖がったのではない。未来に美波が自分を入れてくれたことが、怖かったのだ。
誰かの大切なものを預かるのは、怖い。
美波の十秒も、言葉も、来年も。
自分が落としたらどうしようと思う。
だから、受け取る前に逃げる。
凪斗は黒いビーサンを手に取り、床へまっすぐ置き直した。
「……だせぇな、俺」
誰も聞いていない部屋で、小さくつぶやいた。
その時、スマホが震えた。
メルからだった。
**音、ちょっと拾えた。ノイズえぐいけど、最後だけ聞こえる。送る。**
添付された音声ファイルを、凪斗はイヤホンで再生した。
最初は、ざらざらしたノイズだけが聞こえた。砂嵐みたいな音。遠くの祭りの声。誰かの笑い声。革靴を置く小さな音。
そして、若い春樹の声が、かすかに浮かび上がった。
映像の中で、春樹は若い修司に向かって笑っていたはずだった。
けれど、その声は笑っていなかった。
細く、真剣で、何かを先に諦めた人の声だった。
――もし俺が取りに来なかったら、それ、捨ててくれ。
凪斗は固まった。
部屋の空気が、一瞬で冷えた気がした。
春樹は、受け取りに来られないかもしれないことを、最初から知っていたのか。
未受け取りは、偶然ではなかったのか。
修司はそれを聞いていたのか。
だから、ずっと預かっていたのか。
イヤホンの中で、ノイズがまた大きくなる。春樹の声はすぐに砂に埋もれた。続きは聞こえない。ただ、その一文だけが、凪斗の胸に残った。
捨ててくれ。
それはストラップのことだけだったのだろうか。
それとも、もっと別の何か。
カメラ。映像。美波。商店街。自分が撮った十秒。言えなかった言葉。帰ってこられなかった夏。
凪斗はスマホを握ったまま、窓の外を見た。
夜の海は見えない。
けれど、波の音だけがした。
拾いに行けばいい、と吾郎は言った。
でも、もし最初から誰かが、拾いに来られないことを知っていたら。
その時、残された人間は、何を拾えばいいのだろう。
黒いビーサンは、床の上でまっすぐ前を向いていた。




