湘南商店街実行委員会、だいたい揉める
湘南商店街夏まつりまで、あと二日。
朝の商店街は、妙に浮き足立っていた。昨日までより人の声が多い。八百屋の前では、メルの動画を見たらしい大学生たちが「ここ、ビーサン奉行のとこじゃね?」とスマホを片手に笑っていたし、金物屋の親父は新聞を読むふりをしながら、店先の古びた風鈴をいつもより目立つ場所へ吊るしていた。湿った潮風には、焼きとうもろこしの甘い匂いと、開店前のタコ焼きサンライズから漏れるたこ焼きソースの匂いが混ざり、アーケードの古い天井は、祭り前のざわめきを低く反響させていた。
凪斗は、そのざわめきの真ん中を歩きながら、昨夜の音声を胸の奥にしまい込んでいた。
――もし俺が取りに来なかったら、それ、捨ててくれ。
潮見春樹の声。
ノイズの海から、そこだけ浮かび上がった声。
メルが拾い上げた音は、凪斗の中でまだ生々しかった。捨てないでくれ、ではなかった。捨ててくれ。未受け取りの革ストラップに向けられた言葉なのか、映像なのか、商店街なのか、それとも美波へ残してしまう何か全部なのか、凪斗にはわからない。ただ、捨ててくれ、と言った人のものを、美波は今、知らずに探している。
言うべきか。
言わない方がいいのか。
その問いは、黒いビーサンの鼻緒みたいに、親指の間でじりじり擦れた。
商店街会議室は、中央広場の奥にある古い二階建ての建物だった。畳は少し湿気を吸い、座布団は夏の匂いをため込み、壁の扇風機は首を振るたびに、きい、と小さく鳴った。入口には、銀次郎の太い字で書かれた紙が貼られている。
**第38回 湘南商店街夏まつり 最終実行委員会**
最終、という言葉の割に、部屋の中はすでに終わっていた。最終という言葉は最後に確認のみを行うニュアンスを持っているが、室内は相変わらずの顔すだった。
銀次郎はアロハシャツにサングラスという会議向きではない格好でホワイトボードの前に立ち、それはまだいいが、竜二はタコ焼きの試作品を勝手に並べ、波田マダムは貝殻バッグから占い用の砂を出し、ミスター涙目は白いスーツで正座しながら青いハンカチを握っている。浜風ジャッジ吾郎はメジャーと安全導線図を広げ、小波田拾吉は落とし物台帳を抱え、メルはスマホ二台で会議の空気まで撮ろうとしていた。
美波は、部屋の隅でカメラを膝に置いて座っていた。
修司に応急補修された代替ストラップは、まだ少し硬い。
銀次郎が両手を広げた。
「諸君、祭りとは波である!」
凪斗は座布団に腰を下ろしながら、低くつぶやいた。
「始まって三秒で嫌な予感しかしねぇ」
「波は待つものではない。作るものだ。そして、作った波には、責任を持って乗る!」
「だったらまず議題に乗れよ」
銀次郎のホワイトボードには、文字がびっしり書かれていた。ビーサン飛ばし選手権、青のり爆風たこ焼きグランプリ、恋の足元VS目元占い頂上決戦、青春10秒動画コンテスト、夕暮れ影絵フォトコンテスト、冷やしきゅうり俳句チャレンジ、落とし物思い出相談所。その他諸々。黒板の文字は、情報の津波だった。
メルがスマホを掲げた。
「まず公式SNS、伸びてます。『ビーサン奉行見たい』『青のり爆風やばそう』『クセ強商店街、現地行って参加したい』ってコメント増えてる。これ、普通にバズみある」
会議室が少し沸いた。
銀次郎は「波だ!」と叫び、竜二は「たこ焼き多めに仕込む!」と拳を握った。浅漬けリュウは、どこから持ち込んだのか冷やしきゅうりの桶を抱え、深刻な顔で詠んだ。
「人増えりゃ、きゅうりの桶も、喜ぶよ」
凪斗は思わず言った。
「それ俳句っていうか、きゅうり桶はペットかなにかかよ」
笑いが起きた。けれど吾郎だけは、静かに導線図を指で押さえていた。
「来場者が増えるなら、安全線を広げます。ビーサン飛ばしは、距離の安全確保も大事ですが、拾いに行く場所が大事です」
その言葉に、凪斗は少しだけ顔を上げた。
飛ばすことより、拾いに行く場所。
吾郎は、前にも同じようなことを言った。飛ばしたビーサンは失われるわけではない。拾いに行けばいい。
けれど昨夜の春樹の声は、それを少しだけ暗く塗り替えていた。
捨ててくれ、と頼まれたものを、拾いに行ってもいいのだろうか。
銀次郎はその重さを知らない顔で、ホワイトボードへ大きく書いた。
**魂の飛距離賞**を別枠で設けるか?
「いりません」
吾郎が即座に言った。
「魂は測れねぇだろ」
凪斗も言った。
「いや、測れないからこそ賞にするのだ!」
「測れないもんを賞にすんな。揉める未来しかねぇ」
次の議題は、青のり爆風たこ焼きグランプリだった。
竜二が試作品のふたを開けた瞬間、青のりの匂いが会議室を制圧した。磯の香りと言えば聞こえはいいが、量が多いとほぼ海が土足で入ってきたようなものだった。ミスター涙目が青いハンカチで目元を押さえる。
「泣いておりません。目元を海藻が制圧しております」
メルが冷静に言った。
「爆風ってワードは強いけど、物理で爆風すると炎上する。SNS的にも、掃除的にも詰む」
竜二は腕を組んだ。
「控えめな青春なんかあるかよ」
「ある。安全な青春も必要だろ」
凪斗が返すと、竜二はしばらく考え、ようやくうなずいた。
「じゃあ、手動ふりかけ制だ。風は心で読む」
「読まなくていい。普通にかけろ」
会議は、進んでいるのか散らかっているのかわからなかった。
波田マダムとミスター涙目の占いブース配置でも揉めた。マダムは入口を主張し、「人は最初に足で迷う」と言い、涙目も入口を主張し、「人は最初に目元で答え合わせをするのでございます」と譲らなかった。銀次郎は二人の言い争いを見つめ、やがて満面の笑みで言った。
「これ、対決企画にしよう」
凪斗は畳に手をついた。
「揉め事を公式化すんな」
メルはスマホにメモを打っている。
「恋の足元VS目元占い頂上決戦。タイトル強い。サムネも強い」
「若者の判断基準、だいたい強い弱いって重要じゃねぇか?盛り上がるしな」
美波が少し笑った。
その笑いを見て、凪斗は安心しかけた。けれど、安心した瞬間、昨夜の音声がまた胸の奥で鳴った。捨ててくれ。美波の父がそう言ったことを、自分だけが知っている。そのことが、畳の下に隠した石みたいに、座っているだけで痛かった。
青春10秒動画コンテストの議題になると、部屋の空気は少し変わった。
銀次郎は中央広場の大型モニターで上映しようと言ったが、吾郎は「昼間は光で見えにくい」と指摘し、メルは「雑に流したら秒でスルーされる。見せ方、マジ大事」と言った。小波田拾吉は古い資料をめくりながら、ぽつりとつぶやいた。
「昔は、湘南座で十秒映画祭を上映していました」
その一言で、美波の指がカメラのボディをぎゅっと握りしめた。
湘南座。
古いチラシ。
波田マダムのテーブルに置かれていた、第1回十秒映画祭の紙。
潮見春樹が撮った『片方だけの夏』。
あの十秒も、そこで流れたのかもしれない。
閉じた映画館の中に、まだ父の光が残っているかもしれない。
凪斗にも、それがわかった。
けれど銀次郎は腕を組んだ。
「湘南座は今、倉庫状態だ。客を入れるにはこのままじゃ厳しいぜ。片づけなきゃよ」
その時、メルのスマホが鳴った。
彼女は天気予報の画面を見て、少し眉を寄せた。
「南の方、台風の卵っぽいの出てる。進路次第で、祭り前後ちょい荒れるかも」
会議室に、扇風機の音だけが残った。
外では晴れている。窓の向こうには、白く光る昼の空がある。それなのに、遠い海の底から見えない手が伸びてきたような不安が、畳の上へ静かに広がった。
銀次郎は強く笑った。
「波は乗るものだ!」
吾郎は静かに言った。
「波が高すぎる時は、近づかないものです」
竜二は「雨でもたこ焼きは焼ける」と言い、リュウは「雨の日の、きゅうりは意外と、冷えすぎる」と詠んだ。誰かが笑った。けれどその笑いは、少しだけ薄かった。
休憩になり、凪斗は廊下の自販機前で、美波と二人になった。
自販機の機械音が低く唸っている。古い床は少しべたつき、窓から入る風は湿っていた。凪斗はラムネを二本買い、一本を美波に渡した。缶は思ったほど冷えていなくて、指先にぬるい水滴がついた。
「ありがと」
美波は受け取った。
凪斗は、今なら言えるかもしれないと思った。
昨日、メルが音を拾った。
春樹さんの声が聞こえた。
あの人は、捨ててくれって言ってた。
けれど、その言葉は喉の奥で止まった。
美波は今、湘南座のことを考えている。自分の十秒をどこで流すのか、父の映像にどう向き合うのか、それだけでも十分に重い。そこへさらに「捨ててくれ」を投げたら、美波の足元が崩れてしまう気がした。
凪斗は缶のプルタブに指をかけたまま、結局何も言わなかった。
「凪斗?」
「いや。なんでもねぇ」
その瞬間、横からメルの声がした。
「なんでもねぇ、の顔じゃないけど」
メルは廊下の壁にもたれ、スマホを片手にこちらを見ていた。美波が会議室へ戻ったあと、メルは凪斗へ近づいて、小さく言った。
「伝えない優しさって、たまに、逆に傷つけるからね」
凪斗は顔をしかめた。
「急に刺してくんな」
「刺さる場所に立ってる方が悪い」
メルの声は軽かった。けれど、容赦はない。
凪斗は言い返せなかった。「俺なんか」と言ったこと。父に母のことを聞けなかったこと。そして今、美波に春樹の声を言えないこと。全部が、同じ場所で錆び始めている気がした。
会議室に戻ると、議題はさらに散らかっていた。
二時間以上話し合った結果、決まったことは少ない。青のりは手動ふりかけ制。ビーサン飛ばしは拾う導線を確保。恋の足元VS目元占い頂上決戦は、なぜか公式枠。台風情報は継続確認。動画コンテストの上映場所は、まだ未定。それだけだ。
銀次郎はホワイトボードの前で胸を張った。
「保留とは、未来への波待ちだ!」
「ただ決まってねぇだけだろ!」
凪斗のツッコミに、全員が疲れたように笑った。
その時、波田マダムが静かに貝殻バッグを開いた。
中から出てきたのは、古い封筒だった。紙は黄ばんでおり、端は潮風にやられたように少し波打っている。マダムはそれを机の上へ置いた。
「湘南座の話なら、これを見るがよい」
中には、第1回十秒映画祭の上映計画書が入っていた。
雨天時代替会場、湘南座。
上映順。椅子の数。映写係。音響確認。
そして余白に、誰かの手書きで短い言葉が残っていた。
**雨の日ほど、十秒はよく見える。**
美波は、その文字をじっと見た。
父の時代の祭りも、雨を恐れていた。中止を怖がり、それでも映像を届ける場所を探していた。今、自分たちが悩んでいることは、初めてではなかったのだ。過去はただ邪魔をするだけではない。時々、未来の足元に古い板を渡してくる。
銀次郎が身を乗り出した。
「湘南座は、たまに開錠して掃除しておる。でも肝心の映写室の鍵がない。誰が持って行ったのやら。」
波田マダムは、ふふん、と鼻を鳴らした。
「鍵のありかなら、涙目が知っておる」
全員の視線が、ミスター涙目へ集まった。
白いスーツの男は、青いハンカチで目元を押さえ、ゆっくり首を上げた。
「泣いておりません。記憶の湿度が、目元に上がってきただけでございます」
「いや、どうでもいいから。で、鍵は?」
凪斗が言う。
「誤解なきよう。湘南座の現在の管理鍵ではございません。入口を開ける鍵は、会長側で管理されております」
銀次郎が胸を張った。
「そこは波のように管理している」
「波は管理に向いてねぇだろ」
凪斗が突っ込むと、吾郎が淡々と続けた。
「問題は、閉館前に使われていた映写室まわりの古い補助鍵です」
美波が、少しだけ顔を上げた。
「補助鍵……」
ミスター涙目は、青いハンカチを畳んだ。
「第1回十秒映画祭のあと、その補助鍵を落とし物思い出相談所へ預けた記憶がございます。
「たしか、落とし物管理の“泣きそうな棚”だったはずでございます」
拾吉が後ろで小さく手を挙げた。
「うちの棚ですね。台帳はあります。たぶん。昔にみた記憶があります。」
会議室はまた揉め始めた。
現在の管理鍵と古い補助鍵の違いを説明する吾郎。
「波のように探そう」と言う銀次郎。
「波で探したら流れる」と返すメル。
そして、湘南座の奥へ続く道が、感動的な一本道ではなく、泣きそうな棚と雑な台帳の向こうにあ
ると知って、嫌な予感しかしなかった。
商店街は、だいたい変だ。
でも、その変な人たちはみんな、消えそうなものをどうにか残そうとしている。青のりで揉めながら、占いで揉めながら、鍵の場所で揉めながら、それでも誰かの十秒を守るために、本気で騒いでいる。
凪斗は、美波を見た。
美波は古い上映計画書の文字を見つめている。
雨の日ほど、十秒はよく見える。
その言葉の向こうに、捨ててくれ、という春樹の声が重なった。
捨てたい人がいて、残したい人がいる。
その間で、何かがまだ決まらないまま揺れている。
凪斗はアロハの胸ポケットに差し込まれた青いティッシュに指を触れた。ミスター涙目が第8章で勝手に入れた未来の涙だ。紙の感触は頼りなく、けれどそこにあることだけは確かだった。
言わなければならないことがある。
でも、今はまだ言えない。
会議室の扇風機が、きい、と鳴った。
まるで古い映画館の扉が、遠くで少しだけ開きかけたような音だった。




