メルのバズと美波の沈黙
美波はカメラを胸に抱え、凪斗の方にくるりと向き直って前方を指さした。
「落とし物思い出相談所ってこっちの道?」
凪斗はうなずいた。会議が終わった後、善は急げと代表して3人で、落とし物思い出相談所の棚を探す役目を預かったのだ。
「ああ。まずは、泣きそうな棚からだな」
「棚の名前、だいぶメンタル弱そう」
メルが言った。
それでも三人は、湘南座の前から歩き出した。
「行こう、落とし物思い出相談の棚を探しに」
美波が言った。
凪斗はうなずいた。
「ああ」
そして、言えなかった言葉を飲み込んだ。
また、飲み込んでしまった。
けれど、その苦さは、もう前よりはっきり分かっていた。苦いと分かるなら、いつか吐き出せるかもしれない。そう思いたかった。思うしかなかった。
――涙の安全な場所は、落とし物が眠る棚にございます。
湘南座の鍵。
閉じた映画館を開けるための鍵。
美波の“撮れなかったと思っていた十秒”が、町の奥に眠っているものの場所を指していた。そのことが、美波にはまだ少し信じられないようだった。彼女はスマホを何度も見返すわけではない。ただ、歩きながら時々、胸元に下げたカメラへ指を触れた。修司が応急で補強した代替ストラップは、少し硬く、肩に当たるたびに小さな存在感を返してくる。
凪斗は、その横顔を見ていた。
彼の足元では、黒いビーサンが朝の砂を踏んでいる。まだ熱を持たない砂は冷たく、鼻緒の隙間から細かい粒が入り込んだ。その感触が、現実を一粒ずつ足の裏へ押しつけてくる。
春樹の声は、今日も消えない。
――もし俺が取りに来なかったら、それ、捨ててくれ。
拾おうとしている美波の隣で、捨ててくれ、という声を凪斗だけが知っている。
それは、心の中に隠した濡れた紙のようだった。隠しているうちに乾くかと思ったのに、むしろ胸の奥で少しずつ重くなっていく。言わなければならない。そう思うたび、今言ったら美波の足元を崩してしまうのではないか、という恐怖が喉を塞いだ。
「凪斗」
美波が不意に言った。
「私、昨日、なにも撮れてないと思ってた」
彼女の声は、朝の風に少しだけかすれた。
「でも、撮れてた。変なの。自分で見てないところを、カメラが見てた」
「カメラの方が働き者なんじゃねぇの」
「私より?」
「少なくとも俺よりは働いてる」
美波は小さく笑った。その笑いは、昨日より少しだけ呼吸が楽そうだった。
凪斗は救われた気がして、同時に苦しくなった。
笑っている人に、重い言葉を渡すのは難しい。
落とし物思い出相談所は、商店街の端にある元駄菓子屋だった。古い木枠のガラス戸には、手書きの紙が貼られている。
**落とし物思い出相談所**
**物は探します。思い出は、本人の許可がないと開けません。**
凪斗はその紙を見て、朝からすでに濃いな、と思った。
戸を開けると、甘いような、古い紙のような、少し湿った木のような匂いがした。棚には、片方だけの手袋、色の抜けたキーホルダー、壊れたサングラス、子ども用の赤い帽子、古い切符、名前の消えた水筒、なぜか片方だけの拍子木まで並んでいる。どれも、ただの忘れ物というより、誰かの一日からはぐれた小さな生き物みたいだった。
奥のカウンターで、年老いた小波田拾吉の父が起きているのか、眠っているのかわからない顔でちょこんと座っていた。完全に銀髪となった髪は、無造作に束ねられていた。
胸には「思い出相談係長」という、正式なのか自称なのか判断に困る名札。彼は二人を見ると、静かにうなずいた。
「こんにちは。今日も迷子になった思い出が、騒がしい日ですね」
「物騒な目覚ましみたいに言わんとってくださいよ」
凪斗が言うと、小波田の父は、真顔のままどこかからか古びた台帳を持ってきて開いた。
「よかった、台帳あった。」
思わずメルが声に出した。
「これらは落とし物は物ではありません。迷子になった思い出です。とくに鍵は厄介です。開けるものより、閉じ込めているものの方が多い場合がありますので」
美波は棚を見つめながら、ゆっくりカメラを構えた。シャッター音は小さく、相談所の空気を傷つけないように鳴った。
小波田の父が管理する台帳は、普通の分類ではなかった。
「傘」「財布」「鍵」ではなく、
「忘れたい棚」
「待っている棚」
「泣きそうな棚」
「たぶん恋だった棚」
「返す勇気がなかった棚」
などと書かれている。
凪斗は台帳をのぞき込み、眉をひそめた。
「行政が見たら怒る棚割りだろ」
「役所ではなく、思い出ですので」
「便利な言葉ですね、それ」
美波は、彼に「涙の安全な場所」という言葉を伝え、彼は深くうなずいた。
「涙に関する保管なら、まずは泣きそうな棚です。ただし、涙目さんは比喩の中で暮らしている方ですので、棚が物理的な棚とは限りません」
「もう最悪じゃねぇか」
その時、外から頭をもたげるような木桶を叩く音が聞こえた。
いや、実際に木桶が頭を垂れるわけはない。けれどその気配は確かに怒っていた。
相談所の前に、浅漬けリュウがなんとも言えない顔で立っていた。
麦わら帽子に白い前掛け。両手には青い琺瑯の冷やしきゅうり桶。肩には短冊の束。
小波田の父は、古びた台帳をめくりながら、指先で一行をなぞった。
「あ、ありました。湘南座関連小物。第1回十秒映画祭後、映写室補助鍵、青三棚札、古い上映札、まとめて一時保管」
「一時保管って、どこに?」
メルが聞く。
小波田の父は、さらに台帳をめくった。
「備品整理時、屋台備品箱へ移動」
「屋台備品箱?」
凪斗が眉を寄せる。
「冷やしきゅうり屋台、浅漬けリュウ様管理、とあります」
その瞬間、相談所の空気が少しだけ凍った。
凪斗たちの視線が、リュウに集まり、リュウは眉間に深いしわを寄せた。
彼は相談所の前に桶を置くなり、筆でさらさらと書いた。
**鍵探し 木桶の下に 気配あり**
「言っておく」
リュウは低く言った。
「きゅうり桶に、鍵など入れぬ」
「そりゃそうだよな」
凪斗は即座にうなずいた。
「むしろ入ってたら、この商店街いよいよ終わりだと思ってた」
リュウは桶を静かに下ろし、その下に置かれていた古い木製の台座を指さした。青い琺瑯桶を乗せるための、年季の入った木箱だった。角は丸く削れ、側面には薄く「湘南座備品」と読める焼き印が残っている。
「桶ではない。台座だ。昔、備品整理で余った木箱を、桶の台にした。中身は空だと聞いていた」
小波田の父が台帳を見ながら、申し訳なさそうにうなずいた。
「たぶん、その時に湘南座関連の小物が混ざったままになっていますね」
「ふぅ…たぶんで映画館の備品箱を漬け物屋に流すなよ」
凪斗が言うと、メルが小声で返した。
「でも、商店街クオリティとしては妙に納得感ある」
「納得したくねぇ」
リュウはしゃがみ込み、台座の底板を揺らした。木桶に、カンと当たる乾いた音がする。
彼は前掛けのポケットから小さな金具を取り出し、古い底板の隙間へ差し込んだ。ぎし、と木が鳴る。湿った木の匂いと、冷やしきゅうりの塩気を含んだ匂いが、朝の空気に混ざった。
底板が外れた。
中から出てきたのは、油紙に包まれた小さな金属ケースだった。
鍵についている小さなタグには、かすれた文字でこう書かれている。
**湘南座映写室**
美波は息を止めた。
凪斗も、思わず言葉を失った。
湘南座の鍵。
閉じた映写室の扉を開くかもしれないもの。
父の十秒が流れたかもしれない場所への、冷えた金属の入り口。
美波は息を止めた。
リュウは金属ケースを見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「鍵とはな」
「来るよ…」
メルが身構える。
「冷えすぎた 鍵の記憶に 塩が効く」
「効かねぇよ。ちゃんと管理しろ」
凪斗の声が、相談所の古い棚に跳ね返った。
美波は金属ケースから取り出された古い補助鍵を見つめていた。食べ物の桶の中ではない。けれど、夏の冷たさを支える台座の底で、誰にも気づかれずに眠っていた鍵。
それは、隠されていたというより、町の雑な優しさと曖昧な記憶の間に、長い間はさまっていたものだった。




