もやもやとした悩みには、たこ焼きが効く
湘南商店街の午後は、潮の匂いとソースの匂いと、誰かが焦っている匂いでできていた。
タコ焼きサンライズの鉄板はじゅうじゅう鳴り、冷やしきゅうり屋の桶では氷が小さく割れ、アーケードの古いスピーカーからは、DJ波のり坊主の試運転の声が時々ひび割れて流れてくる。夏まつり本番はまだ先なのに、商店街はもう祭りの前日みたいな顔をしていた。旗はまだ完全には張られておらず、提灯のコードは床に蛇みたいに伸び、銀次郎会長は「人生は波待ちだ」と言いながら、なぜか脚立の上で波を待っていた。
俺は湘南座の前に立って、足元を見ていた。
正確には、人の足元と、自分の足元を交互に見ていた。
黒いビーサンのつま先は、少し内側を向いている。直そうと思えば直せる。でも直すと、今度は右の角度が気になって、右を直すと左が気になって、そのうち世界の傾きまで自分のビーサンで調整しようとするから、今日は一度だけ見ることにした。足元を整えるのは悪いことではない。でも、整えるふりをして逃げるのは、たぶんあまりよくない。
そう思ったのは、昨日、メルに言われたからだ。
伝えない優しさって、たまにただのサボりだからね。
その言葉は、まだ胸の奥に刺さっていた。
俺は知っている。
美波の父親、潮見春樹の古い映像から聞こえた声。
もし俺が取りに来なかったら、それ、捨ててくれ。
メルと一緒に、商店街PR共有端末に残っていた古い動画の音声を整えた時、確かに聞いた。聞いてしまった。けれど、俺はまだ美波に言えていない。言えば、美波の肩に何か重いものを乗せる気がした。言わなければ守れる気がした。でも、守るという言葉は、時々、自分が怖いだけの気持ちにきれいな布をかぶせる。
湘南座の古い扉の前で、美波はカメラを構えていた。
父親のカメラ。古い黒いボディ。以前修司に応急補修してもらった代替ストラップは、まだ少し頼りなさそうに彼女の肩にかかっている。美波はそのストラップを指で押さえながら、閉館した映画館の看板、剥がれかけたポスター、風に揺れる祭り旗を撮っていた。
彼女の背中は、こちらを向いている。
その背中を見ているだけで、俺の胸の奥にある言えない言葉が、少しずつ錆びていく音がした。
そこへ、メルがスマホを二台持って現れた。
片方のスマホには、商店街の祭り告知用動画の編集画面。もう片方には、下書きの投稿文が開かれている。メルの指は速い。画面の上で迷いなく踊り、十秒動画を切り取り、テロップを入れ、音を整える。彼女の手元だけ見ると、祭りの空気は全部、投稿できる形に変換されていくみたいだった。
「これ、伸びる」
メルが言った。
その声には、興奮と戸惑いが半分ずつ混ざっていた。
「何が」
俺が聞くと、メルは画面をこちらに向けた。
そこには、湘南座の古い看板が映っていた。閉館した映画館。第1回湘南商店街十秒映画祭の古いチラシ。グランプリ『片方だけの夏』。撮影、潮見春樹。そして、その前で父のカメラを持って立つ美波の横顔。
画面だけなら、確かに強い。
閉館映画館。未公開かもしれない十秒映画。父の古いカメラを持った娘。商店街の変人たち。潮の匂いのするローカルな夏。タグだけ並べれば、エモの具材全部入りだった。
メルは下書きの投稿文を読み上げた。
「閉館した映画館に眠る、父の十秒映画。娘は父のカメラを手に、その夏を探し始める——」
「それ、ちょっとテレビ番組の予告みたいじゃね?」
「分かってる。だから今、自分でエモって思ってる」
メルは画面を見つめたまま、口元を綻ばせた。
「でもさ」
そのまま、メルは、真剣な顔つきになり言った。
「父娘再会! みたいな安い話にしたいわけじゃないんだよ。てか、再会するかどうかも分かんないし。そもそも美波にとって、それが泣ける話かどうか、こっちが決めることじゃないし」
美波は少し離れたところで、湘南座の軒下に落ちている古いチケット半券を撮っていた。風で半分めくれた紙。誰かが捨てたのか、忘れたのかも分からない。美波はそれを、まるで小さな骨を拾うみたいに丁寧に画面へ入れている。
メルは声を落とした。
「絶対、これ、バズる。閉館映画館、未公開十秒映画、父のカメラを持った娘。タグだけ見たらエモの詰め合わせ。でも、それって美波の感情や痛みみたいに引っ掛かっている何かを勝手に編集するってことなんだよね…」
俺は何も言えなかった。
メルの言葉は、俺の胸にも刺さった。
勝手に編集する。
それは投稿だけの話ではない。俺が春樹の声を聞いたのに黙っていることも、美波の痛みを俺なりに編集していることなのかもしれない。今は言わない方がいいって勝手に守てる気になってる。そうやって、美波の受け取る順番を、俺が決めている。
「投稿すんのか」
俺が聞くと、メルは画面を見たまま首を横に振った。
「しない。少なくとも、この形では」
「珍しいな。バズの匂いがしたら全力で網投げるタイプだと思ってた」
「失礼すぎだな。キミ。でも否定できないのがダルいけど。」
メルは下書きの言葉を消した。
画面から、父の十秒映画、娘、泣ける、という言葉が消えていく。指先ひとつで消える言葉なのに、それを消すまでには、けっこう長い沈黙が必要だった。
「押し付けることと、届けることは違うから」
メルが言った。
その言葉は、彼女自身に向けているようにも聞こえた。
美波がこちらを振り返った。
「何の話?」
メルはすぐに笑顔を作ったが、その笑顔はとてもぎこちなかった。
「祭り告知の下書き。湘南座のやつ、どう紹介するか迷ってた」
「紹介?」
「うん。でも、勝手にエモくしすぎるのはやめる。美波のこと、私が勝手にナレーションするの違うなって」
美波は一瞬、言葉を受け取れないような顔をした。
沈黙。
その言葉が、彼女の胸のどこかへ入っていくのが分かった。
美波はカメラを下ろし、湘南座の看板を見上げた。古い文字は雨と潮で少し滲み、閉じた扉の隙間からは、冷えた木の匂いがする。父の名前が載ったチラシを見つけてから、美波はずっと何かを探している。けれど、探しているものを周りが勝手に“感動の物語”に変換し始めると、彼女は途端に声を失う。
「私、分かんないんだよね」
美波は言った。
「何が」
俺が聞くと、美波はカメラのグリップを握った。
「お父さんの映像が残ってたとして、それを見たら私は泣くべきなのかな、とか。怒るべきなのかな、とか。感動するべきなのかな、とか。周りが先に決めてそうで、ちょっと怖い」
その声は静かだった。
静かすぎて、逆に痛かった。
「みんなが“エモい”って言った瞬間、私がどう感じるかの場所がなくなる気がする」
メルは黙っていた。
いつもの彼女なら、空気が重くなりすぎないように茶化す。けれど今日はしなかった。二台のスマホを胸の前で重ね、まるで自分の武器を一度しまうみたいに、画面を下へ向けていた。
俺は、何か言わなければと思った。
でも、何を言っても、自分が隠している声にぶつかる気がした。
捨ててくれ。
その言葉を知っているくせに、俺は美波の横に立っている。言えないまま。言わないことを、優しさっぽく飾ったまま。
美波は俺の方を見た。
「凪斗?」
「……いや」
喉の奥が詰まった。
言え。
今言え。
メルの言葉が頭の中で鳴る。
「伝えない優しさって、傷つけることと同じだからね。」
でも、言えなかった。
その時湘南座の前を、竜二がたこ焼きの生地が入った大きな缶を抱えて通り過ぎざまに言った。
「どうした? 三人とも、しょっぺぇ顔して。もやもやとした悩みごとには、たこ焼きが効くぞ!」
誰も頼んでいないのに、竜二は堂々と割り込んできた。
美波が少しだけ笑った。
「効くの?」
「効く。熱いものを口に入れると、人は一回、驚いて悩みを忘れる」
「それ、火傷の兆候なのでは?」
メルが言うと、竜二は真顔でうなずいた。
「人生には、火傷でしか思い出せない本音もある」
「なんじゃそりゃ?店の注意書きに絶対書くなよ」
凪斗が言うと、竜二は「書くならポエム欄だな」と言って去っていった。鉄板の匂いと青のりの海の匂いだけが残った。空気が少しだけほどける。湘南商店街では、誰かが深刻になりすぎると、必ず別の誰かが変な角度から入ってくる。そのせいで感情は時々こぼれるが、こぼれた分だけ息ができることもある。




