言わなかった言葉は、心の奥で錆びる
雨は、夜になってから音を変えた。
昼間の雨は、まだ空が迷っているようだった。降るのか、やめるのか、祭りの準備を続ける人間たちの顔色をうかがうように、アーケードの屋根をぽつぽつと叩いていた。けれど今は違う。雨粒は粒ではなく、面になって落ちてくる。風に押され、斜めに走り、湘南商店街の看板や提灯や祭り旗を、容赦なく濡らしていた。
凪斗は、濡れたアロハシャツのまま家へ帰った。
赤いアロハは水を吸って重くなり、白い花柄が暗く沈んでいる。束ねていたドレッドヘアーの先からは、ぽたり、ぽたりと水が落ち、玄関のたたきに小さな黒い点を作った。足元の黒いビーサンには、商店街の砂と雨水が張りついている。歩くたび、ぺたり、と情けない音がした。
胸の奥では、二つの春樹の言葉がぶつかっていた。
**雨で祭りが流れても、十秒だけは流す。**
祭り旗の裏に残っていた、潮見春樹の手書きの言葉。
そして、メルが古い映像のノイズから拾い上げた、もう一つの声。
――もし俺が取りに来なかったら、それ、捨ててくれ。
残す。
捨てる。
同じ人間が、同じ夏の近くで残した言葉とは思えなかった。どちらが本当なのか、それともどちらも本当なのか、凪斗にはわからない。わからないまま、美波にはまだ言えていない。彼女は、母・佳奈が父・春樹へ贈ったというカメラ用革ストラップを受け取った。けれど、まだカメラにはつけなかった。
美波は言った。
まだ、持ってるだけにします。
その声を思い出すたび、凪斗の胸は水を含んだ布みたいに重くなった。
家の奥から、作業部屋の灯りが漏れていた。
廊下の床を、蛍光灯の白い光が細く照らしている。そこから革油の匂いがした。濡れた布の匂い、古い木の机が湿気を吸った匂い、金属工具の冷たい匂い。商店街の雨とは違う、父の仕事場の匂いだった。
凪斗が入口に立つと、修司は振り返らずに言った。
「濡れたまま立つな」
「第一声、それかよ」
「床が傷む」
「俺は?」
「風呂に入れば直る」
いつもの父だった。
その素っ気なさに、凪斗は少しだけ救われた。派手に心配されても困る。優しい言葉をかけられたら、それだけで胸の中にしまっていたものが崩れそうだった。
作業机の上には、潮見春樹のカメラ用革ストラップが入っていた空の保管箱が置かれていた。革ストラップそのものは、もう美波の手に渡っている。けれど箱の底には、長いあいだ革が眠っていた跡だけが残り、古い紙と油の匂いが薄くしみついていた。
その横には、預かり表の控えと、湘南座のタペストリーを補強した革紐の残りが並んでいる。細い革紐は、雨に濡れた町をどうにか結び止めようとした名残のように、机の上で静かに丸まっていた。
渡すべきもの渡された。
けれど、渡しきれていない言葉だけが、まだこの作業部屋に残っているようだった。
凪斗は古い椅子に腰を下ろした。アロハから水が落ちる。修司は何も言わなかったが、視線だけで「あとで拭け」と言っていた。凪斗はその視線を無視できず、近くの雑巾を引き寄せて足元に置いた。
「美波、まだつけなかった」
凪斗は机の上の空箱を見ながら言った。
「ストラップ。受け取ったけど、持ってるだけにするって」
修司は作業の手を止めなかった。湘南座のスクリーンに使った革紐の端を確認し、細い布で水気を拭っている。
「それでいい」
「いいのかよ」
「持つだけで精一杯のものもある」
雨音が、窓を叩いた。
凪斗はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。持つだけで精一杯のもの。それは美波の革ストラップだけではない気がした。凪斗自身も、春樹の音声を持っているだけで精一杯だった。渡さなければならないと思いながら、渡したあとの美波の顔を想像すると、指が動かなくなる。
修司の手元では、革紐が静かに整えられていく。
それなのに、自分の中の言葉だけが、湿ったまま暗くなっていく。
「おやじ」
凪斗は声を出した。
思ったよりも、かすれていた。
「春樹さんの音声、メルが拾ったんだ。昔の映像の、ノイズの奥から」
修司の手が、ほんの少しだけ止まった。
凪斗は続けた。
「もし俺が取りに来なかったら、それ、捨ててくれ、って言ってた」
作業部屋の空気が、少し重くなった。
外の雨音は変わらない。蛍光灯も同じように小さく鳴っている。けれど、机の上に置かれた空の保管箱だけが、急に別のものに見えた。誰かが捨ててくれと言ったものを、父は捨てなかった。その中身を、美波は今日、震えるような手で受け取った。
修司はしばらく何も言わなかった。
それから、低く言った。
「聞いた気はする」
「気はするって、なんだよ」
「昔のことだ」
「便利だな、昔って。都合悪いこと全部そこに置けんじゃん」
凪斗の声が少し荒くなった。
修司は怒らなかった。ただ、革紐を磨く布を机に置いた。その動きが静かだったから、凪斗の苛立ちだけが部屋に浮いてしまった。
「じゃあ、なんで捨てなかったんだよ」
凪斗は言った。
「春樹さんが捨ててくれって言ったなら、捨てればよかっただろ。なのに何年も預かって、今になって美波に渡して。おやじは、何を守ってたんだよ」
修司は、空の保管箱へ目を落とした。
箱の内側には、革が触れていた薄い跡が残っている。もう中身はないのに、そこに何かがあったことだけは消えていない。
「捨てられなかった」
「なんで」
「佳奈さんが贈ったものだと聞いていたからな」
その名前が出た瞬間、凪斗は黙った。
潮見佳奈。
美波の母。
春樹の妻だった人。
そして、あの革ストラップを春樹に贈った人。
修司はゆっくり続けた。
「春樹さんは、買い替えれば早いと言われても首を振った。これは替えがきかない、と言っていた。奥さんからもらったものだ、と」
凪斗は、今日の美波の顔を思い出した。
「なら余計に、捨ててくれって何なんだよ」
凪斗は吐き出すように言った。
「大事だったんだろ。替えがきかないんだろ。佳奈さんの思い出なんだろ。なのに、捨ててくれって。意味わかんねぇよ」
「わからないことを、わかった顔で言う方が危ない。間違える」
「またそれかよ」
「そうだ」
修司の声は、静かだった。
静かすぎて、凪斗は余計に苦しくなった。今すぐ誰かに答えを出してほしかった。春樹が何を捨ててほしかったのか。美波に伝えるべきなのか。自分が黙っているのは優しさなのか逃げなのか。全部、誰かに決めてほしかった。
けれど、父は決めてくれない。
そのことが腹立たしくて、同時に正しい気もした。
「美波、父親の痕跡をずっと拾ってんだよ。チラシも、ビーサンも、預かり表も、旗の裏のメモも。今度は母さんが贈ったストラップまで出てきた。なのに、その春樹さん本人が捨ててくれって言ってたなんて、どう言えばいいんだよ」
凪斗は、机の端をつかんだ。
「言ったら傷つくだろ。でも言わなかったら、俺が勝手に隠してることになる。どっち選んでも最悪じゃねぇか」
修司は、古い工具を一つ机の上へ置いた。
かつて靴底を押さえるために使っていた、小さく重い道具だった。金属の表面には細かな傷があり、ところどころに薄い錆が出ている。
「最悪じゃない方を選ぶんじゃない」
「じゃあ何を選ぶんだよ」
「どちらかを選ぶしかないなら、自分が納得できる方だ。」
凪斗は、父の手を見た。
大きくて、硬くて、爪の間に少し黒い汚れが残っている手。靴を直し、革を縫い、預かったものを捨てなかった手。けれど、その手でも直せなかったものがあるのだと、凪斗は知っている。
言葉が、勝手に出た。
「母さんが出てった時」
修司の表情が、ほとんど変わらないまま止まった。
凪斗は、もう戻れなかった。
「なんで止めなかったんだよ」
作業部屋の音が、遠くなった。
雨音も、蛍光灯の音も、工具が机に触れるかすかな音も、全部が薄い膜の向こうへ行った気がした。言ってしまった、と思った。第9章で喉まで来て、飲み込んだ言葉。ずっと聞けなかったこと。聞かないことで、何となく家が壊れずに済んでいる気がしていた言葉。
修司は、机の上の錆びた工具を見つめた。
長い沈黙のあと、低く言った。
「止めたかった」
凪斗は父を見た。
「言いたいことはあった。行くな、とも、残ってくれ、とも言いたかった」
「じゃあ言えよ」
「言えなかった」
「なんで」
「言えば、縛ることになると思った」
修司の声は低かった。
けれど、そこには言い訳の軽さはなかった。長い間、同じ言葉を胸の奥で何度も磨いて、磨きすぎて薄くしてしまった人の声だった。
「相手が出ていくと決めたなら、黙って見送るのが優しさだと思った。けど、今はわからん。優しさじゃなくて、逃げだったのかもしれない」
凪斗は何も言えなかった。
父は壁だと思っていた。
黙っていて、動かなくて、何を考えているかわからない壁。けれど今、その壁の奥に、雨漏りの跡みたいな傷が見えた。父も言えなかった人だった。相手を傷つけたくないという理由で、言葉を飲み込んだ人だった。そして、その沈黙の結果を、ずっと自分の中に置いてきた人だった。
「店を閉めたのも、それかよ」
凪斗は聞いた。
修司は少しだけ目を伏せた。
「それだけじゃない」
雨が強くなった。
窓の外で、風が何かを叩いている。商店街の旗か、隣の家の雨どいか、わからない。湿った空気が、作業部屋の革の匂いを少し重くした。
「靴を直すと、客は喜んだ。また歩ける、って言ってくれた。それは嬉しかった」
修司は、机の上の工具を指で押さえた。
「でも、自分の家族の歩き方は直せなかった。客の靴を直すたび、それを思い出した。そして怖くなった」
凪斗の胸の奥が、ゆっくり痛んだ。
店を捨てたのだと思っていた。
母が出ていき、父が疲れて、商店街の店を閉めたのだと、ずっと簡単に考えていた。けれど父は、捨てたのではなく、見続けられなくなったのかもしれない。直せるものと、直せないもの。その境目に立つのが怖くなったのかもしれない。
修司は、錆の浮いた工具を持ち上げた。
「言わなかった言葉は、自分の中で錆びるだけだ」
その言葉は、作業部屋の奥へ静かに沈んだ。
「最初は見えない。けど、時間が経つと、触れたものまで汚す。刃を鈍らせる。革に跡をつける。直せるものまで、直せなく見せる」
凪斗は、自分の胸の奥を見た気がした。
美波に言えない「捨ててくれ」。
海で言ってしまった「俺なんか」。
母のことを聞けなかった何年分もの沈黙。
どれも消えていない。むしろ、黙っている間に錆びていた。その錆が、美波への態度を曇らせ、父への言葉を尖らせ、自分自身を「俺なんか」という言葉の中へ押し込めていた。
凪斗は作業部屋を出て、自室へ入った。
濡れたアロハを脱ぎ、タオルで髪を拭く。窓の外では雨が激しくなり、ガラスに水の筋が何本も走っている。机の上に置いたスマホの画面が、白く光った。
美波へメッセージを打つ。
**話したいことがある。**
消す。
**春樹さんの音声のことで。**
消す。
**明日、会えるか。**
また消す。
送信ボタンの青が、やけに遠かった。言わなければ錆びるとわかったのに、わかっただけで急に強くなれるわけではない。凪斗はベッドの端に座り、黒いビーサンを見た。床の上で少し斜めになっている。その向きを直す気力すら、今はなかった。
その時、外で大きな音がした。
がたん、と金属が揺れる音。
修司が廊下を歩いてくる気配がした。凪斗が部屋を出ると、父はすでに工具箱を持って玄関へ向かっていた。
「店のシャッターだ」
雨の商店街は、昼間とは別の町のようだった。
アーケードの灯りは雨に滲み、床には提灯の赤や看板の黄色がぼんやり映っている。風が通り抜けるたび、祭り旗が遠くでばたばたと鳴った。凪斗の黒いビーサンは濡れた床で滑りやすく、歩くたびに足元へ意識を持っていかれた。
砂原靴修理店のシャッターは、風にあおられて大きく震えていた。
閉じた店。
けれど、まだ壊れてはいけない場所。
修司は黙って金具を確認し、凪斗に工具を渡した。雨で手が滑る。金具は冷たく、指先がすぐにかじかんだ。父と並んで何かを直すのは、ずいぶん久しぶりだった。昔はこの店の前で、凪斗はただ邪魔をし、父は「そこ踏むな」と短く言われた気がする。
「閉めたから終わりじゃない」
修司が小さく言った。
雨音に混ざれば消えそうな声だった。
凪斗は、シャッターを押さえながらうなずいた。
店内へ戻ると、作業部屋の机の上に、古い預かり表の控えが出されていた。
革ストラップ本体は、もう美波の手元にある。けれど預かり表だけは、修司の引き出しに残っていた。紙は古びて、端が少し丸まり、インクも薄くなっている。
**お名前:潮見 春樹 様**
**お預かり品:カメラ用革ストラップ**
**内容:革当て補修、金具交換、縫い直し**
**状態:修理済/未受け取り**
雨の湿気のせいなのか、預かり表の裏に貼りついていた薄い紙が、少し浮いていた。修司がそれをそっと剥がすと、裏側に鉛筆の文字が見えた。
凪斗は息を止めた。
それは、潮見春樹の筆跡だった。
薄く、しかし確かに書かれている。
**捨ててくれ。**
**佳奈の思い出が、あの子を縛るものになるなら。**
凪斗の胸が、一度強く鳴った。
「捨ててくれ」の下に、さらに続きがあった。
**でも、あの子が自分で探しに来たら、**
**その時は渡してほしい。**
雨音が遠のいた。
凪斗は、文字を何度も読んだ。
捨ててくれ。
そこだけを聞いた時、その言葉は拒絶に見えた。いらない、残すな、忘れろ、そう言っているように聞こえた。けれど、続きがあった。佳奈の思い出が、あの子を縛るものになるなら。でも、あの子が自分で探しに来たら、その時は渡してほしい。
春樹は、消したかったのではないのかもしれない。
美波を、母の死や父の不在に縛りたくなかったのかもしれない。けれど、美波自身が探しに来るなら、その時は受け取っていいと、選ぶ余地だけを残したのかもしれない。
音声で拾えたのは、前半だけだった。
言葉は、途中で切れると刃物になる。
続きがあるだけで、同じ言葉が違う手触りになる。
修司は、預かり表の裏を見つめていた。
「俺も、見てなかったな。裏に鉛筆で薄く書かれていたとはな」
その声は、かすかに苦かった。
「預かっていたのに、読んでいなかった」
凪斗はスマホを取り出した。
今度は、指が止まらなかった。うまく言える自信はない。美波がどう受け取るかもわからない。でも、前半だけを自分の中に置いておくことは、もうできなかった。錆びた言葉を、これ以上胸の奥で増やしたくなかった。
修司が言った。
「言葉が人を傷つけることもある。言うなら、手触りを考えろ」
「……難しすぎんだろ」
「簡単なら、誰も錆びさせない」
凪斗は息を吸った。
雨の匂い、革の匂い、古い紙の匂いが胸に入ってくる。アロハはまだ少し湿っている。黒いビーサンは、机の下でまっすぐ前を向いていた。
凪斗は、美波へメッセージを打った。
**明日、ちょっと話したいことがある。**
今度は消さなかった。
送信する。
画面に、送信済みの文字が小さく光った。
たったそれだけなのに、凪斗は少し息がしやすくなった。全部が解決したわけではない。むしろ、明日言わなければならないことができた。怖さは増えた。けれど、その怖さは逃げ道ではなく、前へ出るためのものだった。
外では雨が降り続いている。
祭り前夜の町を叩き、旗を揺らし、湘南座の白布スクリーンを濡らし、まだ開いていない明日の扉を濡らしている。
言わなかった言葉は錆びる。
でも、錆びた場所からでも、もう一度磨き始めることはできるのかもしれない。
凪斗は、父の作業机の上に置かれた春樹の文字を見つめた。
捨ててくれ。
佳奈の思い出が、あの子を縛るものになるなら。
でも、あの子が自分で探しに来たら、その時は渡してほしい。
その言葉は、雨の夜の中で、ようやく刃物ではなく、手紙の形を取り戻し始めていた。




