台風前日、祭りの旗が泣いている
湘南商店街夏まつり前日。
朝から空は、誰かが言いかけた言葉を飲み込んだあとの顔をしていた。晴れている、と言えば晴れている。けれど青は薄く、雲の縁は湿った灰色を帯び、海の方角だけが妙に重い。潮の匂いもいつもより濃く、塩というより、海そのものが近づいてきているみたいだった。要するにはっきりしないような重い空気感だ。
メルのスマホに、台風接近の通知が出た。
昨日まで「台風の卵」と呼ばれていた低気圧は、もう卵ではなくなっていた。名前を持ち、進路を持ち、速度を持ち、ニュースの中で渦を巻いている。小さな画面の中の台風は、指で拡大すればするほど、町の上へ近づいてくるように見えた。
中央広場では、銀次郎が腕を組んで空を見上げていた。アロハシャツの柄は、今日もやたら波が多い。けれどその波模様すら、今朝ばかりは少し弱気に見える。
「波は乗るものだ。荒れてる波には乗れない。」
銀次郎は言った。
浜風ジャッジ吾郎は、安全確認表を手にしたまま、静かに首を横に振った。
「波が高すぎる時は、近づかないものです」
その一言で、商店街の空気が少し沈んだ。
祭りは明日だ。第38回湘南商店街夏まつり。夏の日の青春賛歌スペシャル。ビーサン飛ばし選手権、青春10秒動画コンテスト、青のり爆風たこ焼きグランプリ、恋の足元VS目元占い頂上決戦、夕暮れ影絵フォトコンテスト。ふざけた名前の企画ばかりなのに、どれも誰かが本気で準備してきたものだった。
凪斗は、黒いビーサンで中央広場の端に立っていた。
今日のアロハは、濃い赤に白い花が散っている。風が吹くたび裾が暴れ、束ねたドレッドヘアーの先が頬に当たる。その感触が、朝から妙に落ち着かなかった。足元の砂も、いつもより湿っている。ビーサンの底が地面に吸いつくようで、歩くたびに小さく音を立てた。
商店街の旗が、風にあおられて鳴っていた。
ばた、ばた、ばた。
その音は、祭りを待ちきれずに騒いでいるようにも聞こえたし、遠くで誰かが泣いているようにも聞こえた。旗には「第38回 湘南商店街夏まつり」と赤い文字が刷られている。昨日まではただの飾りだったはずなのに、今日は町の感情そのものみたいに揺れている。
美波は、その旗を撮ろうとしていた。
父の古いカメラを構え、ピントを合わせようとする。けれど風が強く、旗は一瞬も同じ形でいてくれない。布がねじれ、文字が裏返り、赤い色が白い空へ溶ける。美波の指はシャッターボタンの上でためらい、また少し戻った。
「旗まで情緒不安定じゃねぇか」
凪斗が言うと、美波はカメラから目を離さず、少し笑った。
「凪斗みたい」
「俺は旗ほどバタついてねぇよ」
言ってから、自分で嘘だと思った。
胸の中では、昨夜からずっと同じ声が鳴っている。
――もし俺が取りに来なかったら、それ、捨ててくれ。
潮見春樹の声。
ノイズの奥から、メルが拾い上げた声。
捨ててくれ。
その一言が、凪斗の中で何度も形を変える。
春樹は本当に、革ストラップを捨ててほしかったのか。父としての未練を捨てたかったのか。残した映像を、町ごと、記憶ごと、誰かの未来から消してほしかったのか。それとも、捨てるという言葉の奥に、別の意味があったのか。
凪斗は、美波にまだ言えていない。
言わないことが優しさなのか、逃げなのか。メルの言葉が胸で重く錆びている。
伝えない優しさって、たまに人を傷つけるからね。
その通りかもしれない。
でも、正しい言葉でも、渡すタイミングを間違えたら人を傷つける。凪斗には、そのタイミングがわからなかった。
午前中、湘南座の前では、日除け布を、もう一度スクリーンとして戻す準備が始まった。
使っていないスクリーンをきゅうり屋が、これはよいと勝手に、自分の店の日よけとして使っていたものだ。
冷やしきゅうり屋台から外されたその布は、長い間、夏の日差しを受け止めてきたせいで、真っ白ではなかった。ところどころに薄い黄ばみがあり、端には潮風で硬くなった部分もある。手で触れると、布の目は少しごわつき、塩と日差しと、きゅうりの青い匂いがかすかに残っていた。
「なんか、年輪と言うか、味がでちゃってるね、これ」
メルがスマホを片手に言った。
「エモいとかじゃなくて、ちゃんと生きてる感じある」
凪斗は布を見上げた。
湘南座から外され、捨てられるはずだったスクリーン。けれど浅漬けリュウの屋台で日除けになり、冷やしきゅうりを守り、町の夏を受け止め続けていた布。捨てられたのではなく、役割を変えて残っていたもの。
そのことが、春樹の「捨ててくれ」とぶつかって、凪斗の胸の中で音を立てた。
捨てるとは、消すことなのか。
それとも、別の形で生かすことなのか。
そこへ、砂原修司がやって来た。
片手には古い道具箱。もう片方には、丁寧に布で包まれた革ストラップと、何本もの革紐、金具、補強用の当て革が入った袋。いつものように口数は少ないが、歩く速度は少しだけ早かった。
美波が、修司の手元を見た。
布を開くと、潮見春樹が昔修理に出し、受け取りに来なかったカメラ用の革ストラップが現れた。深い焦げ茶色。油を吸い、乾いていた革にしなやかさが戻っている。古いのに、弱くない。むしろ長く時間をかけて待っていたものだけが持つ、静かな強さがあった。
美波はすぐに手を伸ばさなかった。
修司はそれを急がせなかった。
「今つけるかは、君が決めればいい」
声は低く、簡単だった。
けれど、その簡単さの中に、待つ人間の優しさがあった。渡すことは、押しつけることではない。預かっていたものを相手の前に置き、相手が触れられる速度を待つことなのだと、凪斗は父の横顔を見ながら思った。
美波は革ストラップを両手で受け取った。
けれど、カメラにはつけなかった。
「まだ、持ってるだけにします」
そう言った声は、小さかったが、どこか凛としていた。父が受け取りに来なかったものを、自分がすぐ身につけることには、まだ抵抗があるのだろう。受け取れば、父の不在まで全部背負ってしまう気がするのかもしれない。
凪斗は何も言わなかった。
何も言えなかった。
美波のカメラには、今も応急補修された代替ストラップがついている。修司が直したから、しばらくは大丈夫だ。けれど、風が強まるたび、その金具が小さく鳴った。頼りないわけではないのに、凪斗の耳には不安な音として残った。
昼すぎ、商店街会議室では、開催か中止かで大人たちが揉めていた。
畳の匂いは湿気を吸って濃くなり、窓ガラスには風で飛ばされた細かな砂が当たって、ぱちぱちと鳴っている。ホワイトボードには、屋外企画、屋内代替、湘南座使用、雨天判断、避難導線という文字が並び、昨日までのカオスとは違う、本気の緊張が部屋を満たしていた。
銀次郎は開催したい。
吾郎は安全を最優先したい。
竜二は「たこ焼きは、風があっても屋根があれば焼ける」と言い、リュウは「雨の日の、きゅうりは客足、冷えすぎる」と詠んだ。波田マダムは「足元が滑る祭りは、恋も転ぶ」と言い、ミスター涙目は「涙と雨は似ておりますが、雨は滑ります。だから…」と説明し始めて、凪斗に「長ぇ」と止められた。
誰も悪くなかった。
だからこそ決まらない。
祭りをやりたいのは、無責任だからではない。商店街を少しでも元気にしたいからだ。中止や縮小を考えるのも、弱気だからではない。誰かが怪我をしたら、せっかくの夏が苦いものになるからだ。
守りたいものが多いほど、決めることは難しくなる。
凪斗は会議室の隅で、美波を見た。
彼女は膝の上にカメラを置き、春樹の革ストラップを小さな布包みに戻して持っている。視線は会議に向いているようで、どこか別の場所を見ているようでもあった。
休憩中、凪斗と美波は廊下の自販機前に出た。
窓の隙間から、雨の匂いが入ってきている。まだ降ってはいない。けれど空気の中には、降る前の雨独特の気配があった。自販機の唸る音が、二人の沈黙を薄く支えている。
美波は布包みを指で撫でた。
「お父さんのストラップ、付けた方がいいのかな」
凪斗の喉が、かすかに硬くなった。
今だ、と思った。
言うなら、今かもしれない。
春樹さんは、捨ててくれって言ってた。
だから受け取るな、という意味ではない。
でも、美波は知っていた方がいい。
そう思ったのに、言葉は出なかった。
美波が革ストラップを見つめている。そこには、父へ近づきたい気持ちと、近づくのが怖い気持ちが同時にあった。その真ん中へ「捨ててくれ」を置くことが、凪斗には刃物を差し出すように感じられた。
結局、彼は言った。
「無理すんな」
美波は少しだけ笑った。
「凪斗、そればっかり」
「便利なんだよ」
「便利な言葉って、何も言ってないのと同じだよ」
凪斗は返せなかった。
その言葉は、責めるためというより、自分自身にも言っているようだった。それでも、凪斗の胸には刺さった。便利な沈黙。便利な優しさ。便利な「無理すんな」。どれも、今の凪斗が使っている逃げ道だった。
夕方、風は急に強くなった。
湘南座前で仮止めして飾ってあった湘南祭り用のタペストリーが突然大きくめくれ上がった。広告自身が悲鳴みたいな音を立て、布の端が空へ逃げようとする。風にあおられたタペストリーが、商店街の空中で暴れた。
何人かは大急ぎで会館の外に出た。
「押さえて!」
吾郎の声が飛ぶ。
凪斗は反射的に走った。アロハの裾がめくれ、ドレッドの束がほどけ、黒いビーサンが湿った地面を滑りかける。布へ手を伸ばした瞬間、美波のカメラも風に引かれ、肩からずれた。
凪斗の目に、代替ストラップの金具がきらりと光った。
布。
受け取ったストラップ
どちらも飛ばされかけている。
凪斗は片手で布をつかみ、もう片方の手を美波のストラップへ伸ばした。指先が金具に触れる。金属の冷たさと、革の硬さと、美波の手の温度が、一瞬だけ混ざった。
「美波、ストラップとカメラ!気を付けて」
「わかってる!」
美波は両方をを胸へ抱え込んだ。
修司と吾郎が布の反対側を押さえ、竜二が「俺の体重を使え!」とよくわからない宣言をしながら端へしがみついた。リュウはきゅうり桶を守りつつ、短冊に何かを書いている。今それどころではないのに、彼の筆は妙に冷静だった。
雨が、ぽつ、と落ちた。
次の瞬間、もう一粒。
それから、細い雨が商店街の空気を斜めに濡らし始めた。
湘南座の軒下へ避難しながら、美波はカメラをタオルで包んだ。表面が少し濡れている。美波の顔が青ざめていた。
凪斗はタオルを差し出した。
「大丈夫か」
「うん」
返事は短かった。
でも、完全な大丈夫ではなかった。
修司は、黙ってタペストリーの端を見ていた。風で引かれた部分が少し弱っている。普通なら穴を増やして紐で縛れば早い。けれど、それでは古い布部分が破れるかもしれない。
修司は道具箱を開けた。
革紐、金具、当て革。彼の大きな手が、濡れた長机の上で静かに動き始める。古い布の端に直接力がかからないように、革を当て、金具を通し、力が逃げるように結ぶ。専門的な説明はほとんどない。ただ、その手つきを見ていれば、何を大事にしているのかはわかった。
守るとは、動かさないことではない。
風が来ることを前提に、破れない形へ結び直すことだ。
凪斗も手伝おうとして紐を結んだが、修司は黙ってほどき、もう一度結び直した。
「雑にするなら、最初からやめとけ」
修司は布の端を押さえながら言った。
「守ることは、縛ることじゃない。破れないように、逃げ道を作ることだ」
凪斗は、父の横顔を見た。
その言葉は、布のことだけではなかった。
美波を守りたいと思う。けれど、彼女を傷つけないようにと黙ることは、もしかすると彼女の逃げ道まで塞いでいるのかもしれない。言葉を縛るのではなく、破れない形で渡す方法を探さなければならないのだと、凪斗は雨の匂いの中で思った。
メルは、その一部始終を撮っていた。
強風でタペストリーが飛ばされかけた瞬間。美波がカメラを抱えて青ざめた顔。凪斗が布とカメラの間で手を伸ばした一瞬。修司が革紐で白布を補強する手元。全部、投稿すれば絶対に伸びる。ドラマがあり、危機があり、エモがあり、商店街らしい変な必死さがある。
けれど、メルは投稿しなかった。
受付ブースに戻ると、彼女はその動画を未投稿フォルダへ入れた。フォルダ名は変わっていない。
**消したくないやつ**
代わりに投稿したのは、短い告知だった。
**明日の夏まつりは、天候により一部企画を変更する可能性があります。安全第一で、最新情報をお知らせします。**
閲覧数が伸びる言葉ではない。
でも、信頼を落とさない言葉だった。
メルは画面を見つめ、少し悔しそうに、でもどこか誇らしそうに笑った。
「バズらない投稿、ガチで心臓に悪い」
凪斗は横から画面をのぞいた。
「でも、ちゃんとしてんじゃねぇの」
「褒め方、地味」
「派手に褒めたら変な投稿されそうで怖ぇ」
メルは笑った。
その笑いは、前より少しだけ大人びていた。
夜になっても、雨は強くなったり弱くなったりを繰り返した。風は祭り旗をあおり、アーケードの端でばたばたとタペストリーの音が鳴り続けている。濡れた提灯は色を濃くし、床には看板の赤や黄色がぼんやり映っていた。
同じく外にかけてあった祭り旗はいったん外して、会議室の長机の上で修繕することになった。
強風にあおられて破れかけている。
古い旗だった。何年も使われ、何度も畳まれ、潮風と日差しと雨を吸って、布は少し硬くなっている。表には、第38回ではなく、もっと昔の回数が薄く残っていた。どうやら新しい旗の下に、古い旗を補強布として縫い合わせて使っていたらしい。
波田マダムが、旗の裏を見て目を細めた。
「待って、これ」
全員の手が止まった。
旗の裏側、縫い目の近くに、小さい薄い文字があった。雨でにじみ、経年で薄くなっているが、まだ読める。美波がスマホ画面で撮って拡大し、凪斗が顔を近づけた。
そこには、手書きの文字が残っていた。
**雨で祭りが流れても、十秒だけは流す。**
その下に、小さく名前。
**潮見春樹**
美波は息を止めた。
凪斗の胸の奥で、昨夜の声が強く鳴った。
捨ててくれ。
雨で祭りが流れても、十秒だけは流す。
凪斗は、なぜか矛盾している…ように感じた。
捨てたい人の言葉と、続けたい人の言葉が、同じ名前から出てきている。春樹は、何を捨てたかったのか。何を続けたかったのか。消したかったのか、届けたかったのか。凪斗には、ますますわからなくなった。
美波は、カメラでもう一度春樹のメモを撮った。
シャッター音は、雨音の中で小さく鳴った。彼女は何も言わない。ただ、父の名前を画面の中に入れた。その横顔は静かで、静かすぎて、凪斗には怖かった。
旗は、ずっと伝えようとしていたのかもしれない。
風に鳴り、雨に濡れ、何年も畳まれ、補強布として使われながら、それでも裏側に春樹の言葉を隠して。残っているものは、ただ残っているわけではない。届くタイミングを待っていることがある。
会議室の蛍光灯が、じじ、と鳴った。
濡れた旗から、埃と潮の匂いがした。布の湿り気が、机の上へじわりと広がっている。凪斗はその匂いを吸い込みながら、自分の胸の奥にも、言わなかった言葉が湿って重くなっているのを感じた。
春樹の「捨ててくれ」を、まだ美波に言えていない。
言葉は、言わなければ消えるのだと思っていた。
でも違う。
言わなかった言葉は、消えない。こころの奥にずっと残り続ける。
凪斗は、アロハの胸ポケットに差し込まれた青いティッシュに触れた。ミスター涙目が勝手に入れた、未来の涙。紙は少し湿って、指先に頼りなくへばりついた。
美波はまだ、春樹の文字を見つめている。
凪斗は言わなければと思った。
でも、その夜も、声は出なかった。
外では祭り旗が、室内へ一時的に吊るされて揺れていた。窓の隙間から入る風に、濡れた布が小さく震える。
ばた、ばた。
それは泣き声ではなかった。
たぶん、伝え損ねた言葉が、ようやく音になろうとしている音だった。




