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消えたカメラ

夏まつり前夜


台風の進路をこちらに向けて迫って来る、湘南商店街は、濡れた獣みたいにじっとそれが通りすげるのを待っていた。


雨に叩かれたアーケードの屋根は、ところどころに水を溜めていて、風が吹くたび、思い出したようにばしゃりと地面へ吐き出した。提灯はしぼんだ果物みたいに重く垂れ、祭り旗は水を吸いすぎた洗濯物のように沈黙している。昨日まで赤や黄色に浮かれていた看板の色も、今朝は濡れた床ににじんで、まるで町全体が自分の輪郭を少し失くしてしまったようだった。


 それでも、夏まつりは明日だった。


 中止なのか、縮小なのか、屋内へ逃げ込むのか、まだ誰もはっきりとは言えない。けれど、誰も完全には諦めていなかった。銀次郎は中央広場で腕を組み、「これは波の洗礼だ」と言ったあと、足元の水たまりで滑りかけ、浜風ジャッジ吾郎に無言で腕をつかまれた。


「会長、波に乗る前に床を見てください」


「人生は波待ちだが、床待ちも大事だな」


「それは今考えた言葉ですね」


 吾郎の声は淡々としていたが、手元の安全確認表には、赤い印がいくつもついている。ビーサン飛ばし会場の砂は水を含み、観客導線は滑りやすく、湘南座前の白布スクリーンも、修司が革紐で補強したとはいえ、まだ湿った帆みたいに重そうに揺れていた。


 凪斗は、黒いビーサンで濡れた床を踏みしめながら、スマホを何度も見た。


 昨夜、送ったメッセージ。


 明日、ちゃんと話したいことがある。


 既読はついている。


 けれど、返事は来ていない。


 返事が来ないことは、拒絶とは限らない。わかっている。美波だって、台風の朝に返事どころではないかもしれない。けれど、既読の二文字は、雨上がりの空より重かった。凪斗の胸の中では、第9章の夜から抱えていた春樹の声と、見つかった預かり表の裏の言葉が、まだ乾かないまま重なっている。


 もし俺が取りに来なかったら、それ、捨ててくれ。


 捨ててくれ。

 佳奈の思い出が、あの子を縛るものになるなら。

 でも、あの子が自分で探しに来たら、その時は渡してほしい。


 前半だけなら刃物だった。


 続きまで読めば、それは刃物ではなく、心が震える手紙だった。


 その全部を、美波に伝えなければならない。そう思うほど、喉の奥が硬くなる。言うと決めたのに、言う瞬間だけが、濡れた坂道みたいに遠かった。


 湘南座の前に、美波が来た。


 肩から下げているのは、父・潮見春樹の古いカメラだった。今ついている代替ストラップは、修司が応急補修したものだが、昨夜の雨を吸った空気のせいか、金具の部分が冷たく光っている。胸元のバッグの中には、昨日、修司から受け取ったカメラ用革ストラップが布に包まれて入っているはずだった。母・佳奈が、昔、春樹に贈ったもの。父と母が一緒にいた時間の証拠。美波はそれを受け取ったが、まだカメラにはつけていない。


 彼女の髪は、湿気で少しだけ跳ねていた。肩にかかる毛先が、風に揺れるたび頬へ触れ、そのたびに美波は指で直した。いつもなら、その仕草を凪斗は何となく見てしまい、見ていることに気づいて足元のビーサンを揃える。けれど今朝は、そんな余裕がなかった。


「昨日のメッセージ、見た」


 美波が言った。


 その声は静かだった。怒っているのか、待っているのか、凪斗には読み取れなかった。ただ、その目は凪斗を逃がさなかった。


「……ああ」


「何を話したいの」

美波が少し上目遣いで、じっと見つめてくる。


 凪斗は、息を吸った。


 潮の匂いと、濡れた布の匂いと、古い映画館の埃っぽい匂いが混ざって、胸の中に入ってくる。湘南座のタペストリーは、池の中の大きな鯉みたいに、風のたびにゆっくり揺れた。


 その時、受付ブースの方からメルの声が飛んできた。


「会長! ビーサン飛ばし午前の部、地面ヤバいから保留で告知します! あと青のり爆風は屋内不可! 粉もの災害です!」


「青のりに罪はない!」


「罪はないけど拡散力がバグってる!」


 メルは両手にスマホを持ち、商店街放送用のマイクとSNS投稿画面を交互に確認していた。以前の彼女なら、この混乱を「台風後の湘南商店街、クセ強すぎて草」みたいな切り抜きにしていただろう。けれど今朝のメルは、伸びそうな場面ほど撮らず、必要な情報ほど短く丁寧に出している。屋外企画は一部変更の可能性。湘南座上映は避難案として調整中。足元注意。最新情報を確認してから来場を。文章は地味だが、町を守る言葉だった。


 ただ、コメント欄には勝手な期待も流れていた。


 カメラ女子ちゃんの話、進展待ち?

 湘南座復活、泣ける展開くる?


 美波はそれを見ないふりをした。けれど、指先だけがカメラのボディに触れた。金属の冷たさを確かめるように、あるいは、自分が画面の中の素材ではなく、ここにいる人間なのだと確かめるように。


 凪斗は、湘南座の軒下へ美波を呼んだ。


 軒下には雨だれが落ちていて、石段の端に小さな水たまりを作っている。白布スクリーンの裏側は少し暗く、表通りのざわめきが布でこされて、遠くの音みたいに聞こえた。凪斗は、そこでようやく口を開いた。


「メルが、昔の映像から音声を拾った」


 美波は動かなかった。

 口からは、言葉にならない息が漏れた


「父の声だった」


 その瞬間、彼女の指がカメラを強く握った。表情は崩れない。けれど、指の関節だけが白くなる。


「なんて」


 美波の声は、小さかった。


 凪斗は喉の奥で一度つまずき、それでも言った。


「もし俺が取りに来なかったら、それ、捨ててくれ、って」


 雨だれの音が、急に大きく聞こえた。


 ぽたり。

 ぽたり。


 美波は、すぐには反応しなかった。声を荒げも、発生さえしなかった。ただ、ほんの少しだけ目を伏せ、カメラのレンズを親指でなぞった。その沈黙が、凪斗にはいちばん痛かった。怒られた方がまだ楽だった。泣かれた方が、謝る場所が見えたかもしれない。けれど、美波の静けさは、どこにも逃げ道を作らせなかった。


「いつから知ってたの」


「少し前…多分、共用端末のデータを確認しに行った日」


 凪斗は言った。


「メルと、俺は知ってた。でも……言えなかった」


「私のことなのに」


「ごめん」


「私だけ、後から知るって、普通にキツい」


 その言葉は、強くはなかった。だからこそ深く刺さった。美波は凪斗を責めるために言っているのではない。その言葉がどこに刺さって傷をつけたのかを、正確に知ろうとしていた。凪斗にはそれがわかった。わかったからこそ、謝罪の言葉は雨に濡れた紙みたいに頼りなかった。


「続きがある」


 凪斗は言った。


「預かり表の裏に、春樹さんの続きの言葉があって――」


 その時、海側から強い風が吹いた。


 タペストリーが、大きく翻った。修司が革紐で補強した部分は耐えている。けれど、濡れた布は重く、風を受けるたび、巨大な胸が息を荒げるように膨らんだ。


吾郎が足早に歩み寄り、大声を上げる。


「タペストリー、固定確認! 足元注意!」


「波に逆らうな、でも、は押さえろ! のぼりも湘南座内に撤去せよ」


 銀次郎の指示は、情緒だけでできた交通標識みたいに意味が揺れていたが、人々はそれぞれ動き出した。竜二はたこ焼き用の鉄板の蓋を押さえ、リュウは冷やしきゅうりの桶に覆いをかけ、メルはスマホを大事そうに抱えて館内に走った。


 美波は一瞬、カメラを抱え直した。


 肩から下げたまま動けば、タペストリーの端についているタペストリー棒にぶつけるかもしれない。応急補修された代替ストラップも、昨夜からの湿気で少し硬くなっている。カメラを守るには、安全な場所に置くしかない。


 彼女は湘南座の軒下にある長机へ向かい、カメラをそっと置いた。机の奥、雨のかからない場所。レンズキャップをかぶせ、倒れないように柔らかい布の上へ寝かせた。


「ここ置いとく」


 美波は凪斗に言った。


 凪斗はタペストリーの端を押さえながら、コクンとうなずいた。


「見とく」


 そう答えた。


 答えた次の瞬間、突風が強く吹いた。うねるように大きく跳ね、何かの看板が倒れ、青のりの袋がふわりと持ち上がって、竜二が「お前だけは飛ぶな!」と叫びながら抱え込んだ。凪斗は反射的に走った。美波も押さえに行った。


 数分後、風は少しおさまった。


 タペストリーは破れていなかった。修司の補強が効いていた。革紐は濡れながらも力を逃がし、布を縛りつけるのではなく、破れないように支えていた。


 けれど、長机の上から美波のカメラが消えていた。


 そこには、そこにあったカメラの跡だけが、布の上に淡く残っていた。


 最初は、誰かが安全な場所へ移したのだと思った。


 凪斗もそう思おうとした。銀次郎か、吾郎か、メルか、あるいは親切な誰かが、濡れないように館内へ持っていったのだと。けれど、誰に聞いても首を横に振る。長机の下にも、湘南座の入口にも、受付ブースにも、タコ焼きサンライズのカウンターにもない。


 美波の顔から、血の気が引いた。


 肩にあるはずの重さを探すように、彼女は自分の右肩へ手をやった。そこには何もない。バッグの中には、母・佳奈が父・春樹へ贈った革ストラップがある。けれど、父のカメラ本体がない。父を見るための目も、自分が世界とつながるための目も、今だけすっぽり抜け落ちてしまったようだった。


「うそ」


 美波の声は、風より小さかった。


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