真犯人現る
凪斗は凍りついた。
見とく。
自分でそう言った。確かに言った。なのに、見ていなかった。春樹の続きの言葉を伝えきれないまま、今度はカメラまで守れなかった。言葉も、物も、タイミングも、自分の手から滑り落ちていく。黒いビーサンの底が濡れた床に吸いつき、動こうとしても足が一瞬遅れた。
カメラが勝手に歩き回るはずはない。まさか、この一瞬で盗まれた?
それでも、商店街は動いた。
善人で、かつ、どこか変な人たちは、変なまま全力だった。
竜二はたこ焼き鉄板の下をのぞき込み、「カメラも中身が熱いうちに見つけねぇとな」と真剣に言った。リュウは桶の前で短冊を掲げ、そこには「カメラ消え、きゅうりは無実、桶見るな」と書かれていた。波田マダムは濡れた床の足跡を読み、「逃げる足跡ではない、迷う足跡じゃ」と眉間に皺を寄せて言い放った。
海斗と空斗の双子の兄弟は、それぞれ赤と青の帽子を濡らしながら走り回って探した。
「ボス! カメラ、たこ焼きには入ってないぞ!」
「ボス! 冷やしきゅうりにも入ってない! リュウさんに怒られた!」
「そりゃ怒られるだろ!」
凪斗は叫んだが、その声にも焦りが滲んでいた。
笑えるほど変な捜索だった。けれど、美波だけは笑えなかった。カメラは単なる機械ではない。春樹が見ていた世界を、美波がもう一度見ようとするためのものだった。レンズの向こうに、父の不在と、町の現在と、自分の居場所を重ねるためのものだった。
それが消えた。
横殴りの風雨を浴びる湘南座の軒下で、その事実だけが、雨あがりの空気より冷たく残った。
誰かが声を上げるたび、商店街のざわめきは輪を広げた。長机の下、受付ブースの裏、湘南座の入口、濡れた白布スクリーンの影、タコ焼きサンライズの鉄板の下、冷やしきゅうり屋の台座の周り。人々はあちこちを覗き込み、呼びかけ、濡れた床に足跡を増やしていく。その足跡は、まるで慌てた町そのものの心拍みたいだった。
美波は、長机の前に立ったまま動けなかった。
さっきまでそこにあった。
自分で置いた。
凪斗に「ここ置いとく」と言った。
凪斗は「見とく」と答えた。
たったそれだけのやり取りが、今は長い映画のワンシーンみたいに遠かった。
凪斗は長机の布を何度も持ち上げた。あるはずがないと分かっているのに、同じ場所を探してしまう。黒いビーサンの底が濡れた床に吸いつき、動くたびにぺたり、ぺたりと情けない音を立てた。その音が、凪斗には自分の心臓が床へ落ちている音みたいに聞こえた。
「ごめん」
凪斗は言った。
美波は答えなかった。
怒鳴られた方が、まだよかった。責められた方が、まだ自分の立つ場所が分かった。けれど美波は、長机の上に残った淡い跡を見つめているだけだった。カメラがあった場所。カメラがなくなったことで、逆にそこにカメラの形が浮かび上がっている。失ったものは、消えた瞬間に輪郭だけを濃くするのだと、凪斗は初めて知った。
カメラを紛失したことを聞きつけメルが走ってきた。
両手にスマホ。髪の毛先に雨粒がつき、息が少し上がっている。けれど、その目はいつものバズ探しの目ではなかった。状況を整理しようとする目だった。
「待って。全員、いったん探す場所を増やさないで。足跡ぐちゃる」
「足跡?」
凪斗が顔を上げる。
「床、濡れてる。誰がどこ歩いたか、まだ少し残ってる。あと、長机の周り、これ以上触らないで」
竜二がたこ焼き用のトングを持ったまま固まった。
「俺、鉄板の下見た」
「鉄板はもういい。カメラが鉄板の下に入り込む可能性は低い」
「ゼロじゃないだろ」
「ゼロ寄りの完全にゼロ」
その時、吾郎が受付ブースの方から歩いてきた。手には小さな黒い端末のようなものを持っている。いつもの審判顔よりさらに硬い顔だった。
「メルちゃん」
「うん。確認しよう」
凪斗は二人を見た。
「何を」
メルは少し言いにくそうに口を開いた。
「実はさ、一昨日の夜、仮設の見守りカメラを付けた」
「見守りカメラ?」
「うん。防犯件、台風後の安全確認用。湘南座の入口と受付ブース周辺だけ。置き引きとか、転倒とか、機材トラブルが起きた時に確認できるように。吾郎さんが“不用心です”って言って、会長に許可取った。早速役立つなんてね。」
銀次郎が遠くで胸を張った。
「波にも監視の目が必要だ」
メルは美波に向き直った。
「映っってるかどうかは分からないけど、確認してみよう」
美波は、長机の跡から目を離さなかった。
凪斗は何か言いかけて、やめた。
勝手に「見よう」と言ってはいけない気がした。黙っていた自分が、ここでまた美波の代わりに決める資格なんてない。
美波は、ゆっくり息を吸った。
「うん、見よう」
声はかすれていたが、はっきりしていた。
「誰かが持っていったなら、知りたい」
吾郎はうなずき、受付ブースの内側へ移動した。小さなモニターが、古いレジ台の横に置かれている。仮設の機材らしく、コードは養生テープで留められ、雨がかからないよう透明なビニールで覆われていた。メルが端末を操作すると、画面に数分前の湘南座軒下が映った。
映像は荒かった。
雨粒がレンズの端に残り、画面の一部が白く滲んでいる。音はない。人の動きだけが、少しぎこちない影絵のように流れる。白布スクリーンが風で膨らみ、凪斗がその端を押さえ、美波がカメラを長机へ置く。レンズキャップをつけ、布の上に寝かせる。美波が振り返る。凪斗が「見とく」と言ったあの瞬間は、音がなくても分かった。
凪斗は、奥歯を噛んだ。
見とく。
そう言っている自分が、画面の中にいた。
そして、突風、
画面が大きく揺れる。白布スクリーンが膨らみ、人が一斉に動く。銀次郎が何かを叫び、竜二が青のりの袋を抱え、リュウが桶を守る。海斗と空斗が、走りそうになって吾郎に止められる。画面の端を雨粒が流れ、長机の周りが一瞬見えにくくなる。
メルが再生速度を落とした。
「ここ」
全員が息を止めた。
長机の奥に、白い袖が映った。
誰かが、雨だれを避けるように軒下へ入ってくる。顔は映っていない。画面の上部が白く滲み、ちょうど頭の位置が見切れている。見えるのは、白い袖、細い手、そして青い布。
その人物は、長机の上のカメラに気づいたように立ち止まった。
手が伸びる。
だが、乱暴ではなかった。
その手はカメラを持ち上げる前に、青い布を広げた。濡れた空気から守るように、古いものを包むように、カメラをそっと青い布で包んだ。レンズのあたりを押さえ、ストラップが垂れないようにまとめる。その動きは、盗む人間の動きには見えなかった。むしろ、壊れそうなものを扱う人の手つきだった。
美波の唇がかすかに震えた。
「青い……ハンカチ?」
白いスーツ。青いハンカチ。
凪斗は振り返りそうになったが、画面から目を離せなかった。
映像の中の人物は、カメラを抱えると湘南座の入口の方へ向かった。けれど、そこでまた突風が吹く。画面が揺れ、布看板の端が大きく入り込み、人物の体が隠れた。次に見えた時には、その背中はすでに湘南座の内側へ消えかけていた。
メルが巻き戻した。
もう一度。
青い布。白い袖。カメラを包む手。湘南座の中へ向かう影。
顔は映っていない。
けれど、そこにあったのは、悪意よりも保護に近い動きだった。
映写室補助鍵の話をした時の涙目の顔が浮かぶ。鍵を隠したのではなく、落とし物思い出相談所へ預けた。だが、共有が曖昧で、結局どこへ行ったか分からなくなった。守ったつもりのものが、伝わらないせいで町の中を迷子になる。
美波は小さく言った。
「これ、涙目さん…」
言い終わらないうちに、ちょうど、ミスター涙目が、慌てた様子で、黒ぶち眼鏡をクィット上げながら近寄ってきた。
「それは、私でございます」
後ろから、様子を伺って、言うタイミングを探していたようにも見えた。
その場の空気が固まった。
凪斗は反射的に振り向いた。
「また、涙目さんかよ、今度はどこに持ってったんだよ」
ミスター涙目は、深く頭を下げた。白いスーツの肩が、雨上がりの湿気を吸ったように重く見えた。
「盗んだのではございません。守ろうとしたのでございます。長机の位置では、風向きによって雨が吹き込むと思いまして。古いカメラでございましたから、濡らしてはならぬと」
「だったら言えよ」
凪斗の声が、湘南座の軒下に少し強く響いた。
涙目は青いハンカチを胸元へ当てた。
「言ったつもりでございました」
「誰に」
「銀次郎会長に。“あのカメラは、雨の届かぬ場所へお移ししました”と」
全員の視線が銀次郎へ向いた。
銀次郎は、濡れた祭り旗を抱えたまま、ゆっくり瞬きをした。
「……波のように、聞いた気がする」
「波のように聞くな!」
凪斗とメルが同時に突っ込んだ。
吾郎が額に手を当てた。
「会長、それは共有されていません」
「すまん。雨と風と青のりの危機で、情報が沖へ流れた」
「情報を沖へ流すな! 既に遭難してんだよ」
凪斗は吐き捨てるように言ったが、すぐに言葉を失った。
責めたいのに、自分にも同じ傷があった。同じようなことをしていた。
守るつもりだった。
でも、伝えなかった。
伝えないまま、相手のためだと勝手に決めて自分で決めつけていた。
実際は、勇気がないのをごまかしていた。
美波が、静かに口を開いた。
「守るなら」
その声は、怒鳴り声ではなかった。だからこそ、余計に心に響いた。
「守るつもりなら、ちゃんと、そう言ってよ」
ミスター涙目は、青いハンカチを目元へ当てた。
「泣いておりません。申し訳なさが、目元に集まっているだけでございます」
誰も笑わなかった。
美波の言葉は、涙目だけに向けられているのではなかった。凪斗にも向いていた。春樹の声を知っていたのに黙っていた凪斗の胸へ、同じ形で刺さっていた。
その入口で、雨だれの音がまだ、ぽたり、ぽたりと鳴っていた。




