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見つけられた青缶

 湘南座にて吾郎が、安全確認を行う


「湘南座内を確認します。ただし、床が濡れています。走らないこと、勝手に奥へ進まないこと」


「波のように慎重に――」


「会長は入口で待機です」


 銀次郎は少し傷ついた顔をしたが、誰も慰めなかった。濡れた祭り旗を抱えたまま、入口脇で「待機もまた波だ」と小さくつぶやいている。メルは一瞬だけスマホを構えかけたが、すぐに画面を伏せた。


 凪斗、美波、メル、吾郎、そしてミスター涙目が、湘南座の中へ入った。


 ロビーは、外より暗かった。雨の匂い、古い木の匂い、湿ったポスターの紙の匂いが混ざっている。足を踏み入れるたび、床板が小さく鳴った。閉館した映画館は、もう誰も来ない場所の顔をしているのに、耳を澄ませると、まだ奥の方で何かが息をしているようだった。昔の拍手か、映写機の熱か、上映されなかった十秒の残り香か。凪斗には分からない。ただ、ここには時間が積もっていた。埃ではなく、言えなかった言葉の形で。


 美波はカメラのない肩を押さえたまま歩いていた。


 いつもなら、そこに重さがある。古いカメラの重さ。父が見ていた世界の重さ。それが今だけなくて、彼女の肩は軽いはずなのに、凪斗にはむしろ痛々しく見えた。


 ミスター涙目は、青いハンカチを握りしめながら先を示した。


「映写室脇の備品箱でございます。雨の届かぬ場所、青い札のついた箱へ」


「今度は詩じゃなくて場所言えてるな」


 凪斗が言うと、涙目は深くうなずいた。


 ロビーの奥、古い売店跡の横を抜けると、壁に色あせた映画ポスターが何枚も貼られていた。端が波打ち、俳優の笑顔だけが時代から取り残されたみたいに明るい。その先に、細い階段があった。映写室へ続く階段。立入禁止の古いロープが張られていたが、今日は吾郎がゆっくりと外した。


「一段ずつ。行きます。手すりを持ってください」


 吾郎の声に、全員が黙って従った。


 階段下の脇に、古いポスター棚がある。そのさらに奥、暗がりに、薄く埃をかぶった備品箱が置かれていた。木製の箱で、角は擦り減り、蓋の金具は少し錆びている。側面に貼られた青い札には、かすれた字で「青三」と書かれていた。


 美波が、小さく息を飲んだ。


 青三。


 その二文字は、ただの管理記号のはずなのに、古い映画館の奥では、誰かが残した暗号のように見えた。


 吾郎が周囲を確認し、箱の蓋に手をかけた。ぎい、と乾いた音がする。湿気を吸った木が、長い眠りから無理に起こされたみたいに鳴った。


 蓋が開いた。


 中に、青いタオルがあった。


 きれいに畳まれてはいなかった。急いで包んだ跡がある。けれど雑ではなかった。布の端はレンズを守るように折り込まれ、ストラップは絡まないよう横へ流されている。その青の中に、美波のカメラが静かに眠っていた。


 美波は両手を伸ばした。


 触れる直前で、指が一度止まる。怖かったのだと思う。そこにあると分かっていても、手に取った瞬間、壊れていたらどうしよう。濡れていたらどうしよう。あるいは、戻ってきた重さに、自分の心が耐えられなかったらどうしよう。


 凪斗は何も言わなかった。


 言える立場ではなかった。


 美波はゆっくりカメラを抱き上げた。青いハンカチがほどけ、黒いボディが現れる。レンズに水滴はない。ボディにも傷はない。代替ストラップは少し曲がっていたが、切れてはいなかった。


「あった……」


 その声は、ほとんど息だった。


 涙目は深く頭を下げた。


「申し訳ございません。守ったつもりで、また迷子にしてしまいました」


 美波はカメラを胸に抱いたまま、しばらく黙っていた。


「……見つかったことは、よかったです」


 美波はそう言ったが、完全には許せてはいないように見えた。


 その時、メルが箱の中を覗き込んだ。


「待って。底、二重になってない?」


 吾郎がライトを向ける。箱の底板の端に、細い隙間があった。埃の筋が不自然に途切れている。メルが指で触れようとして、吾郎に止められた。


「私が開けます」


 吾郎は持っていた小さな工具で、底板の端を慎重に持ち上げた。ぱき、と軽い音がして、薄い板が外れる。中から出てきたのは、茶色い封筒だった。湿気を吸って少し波打ち、角は丸く潰れている。それでも、表に書かれた文字は読めた。


 第1回 湘南商店街 十秒映画祭

 予備上映素材

 作品名:片方だけの夏

 撮影:潮見春樹

 保管:映写室奥・青缶


 美波の指が、カメラのグリップを強く握った。


 父の名前が、また現れた。


 偶然というには出来すぎている。でも、運命というには、箱の底から出てくるあたりが雑すぎる。湘南商店街らしい。大切なものは、いつもきれいな祭壇ではなく、埃っぽい備品箱の底や、誰かの言い忘れや、青いハンカチの中から出てくる。


「青缶って、何」


 美波がつぶやいた。


 ミスター涙目は、映写室へ続く階段の上を見上げた。


「映写室の奥に、古いフィルム缶がございます。青く塗られた缶で、私たちはそう呼んでおりました」


「じゃあ、そこに春樹さんの映像が?」


 メルの声は小さかった。


「おそらく。ただし、上映用の本編とは限りません。予備素材。切られた十秒、残された端、映されなかったものが入っている可能性がございます」


 吾郎が先に立ち、映写室の扉を開けた。中はさらに暗く、空気が冷えていた。古い映写機の影が、巨大な獣の骨みたいに壁へ伸びている。棚には錆びた缶、ラベルの剥がれた箱、古い上映順表が並んでいた。ライトの光が一段ずつ棚をなぞる。


 そして、いちばん奥。


 壁際の低い棚に、青い丸い缶があった。


 鮮やかな青ではない。潮風と年月でくすみ、ところどころ塗装が剥がれ、下から鈍い金属の色が覗いている。蓋には白いテープが貼られ、そこに細い字で書かれていた。


 青三

 片方だけの夏


 誰も、すぐには触れなかった。


 青缶は、そこにあるだけで、部屋の温度を変えていた。古い金属の缶なのに、まるで長いあいだ眠っていた心臓みたいだった。開ければ何かが始まる。父の声かもしれない。父の嘘かもしれない。美波が見たかったものかもしれないし、見ない方が楽だったものかもしれない。


 美波はカメラを胸に抱いたまま、ゆっくり首を横に振った。


「今日は、開けない」


 開けてみようかと言いかけて。凪斗は彼女を見た。


 美波の目は揺れていた。でも逃げてはいなかった。


「ちゃんと受け取れる時に、開けたい。今は、なくしたカメラが戻ってきたことだけで、いっぱいいっぱいだから」


 誰も反対しなかった。


 メルはスマホをしまった。吾郎は静かにうなずいた。涙目は青いハンカチを目元に当てた。


「泣いておりません。十秒にも、目覚める順番があるのでございます」


 凪斗は黒いビーサンの先を見た。


 今日、カメラは戻ってきた。


 けれど、言えなかった言葉はまだ戻っていない。


 そして青缶は、映写室の奥で、開けられる時を静かに待っていた。


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