祭りは中止か、それとも波に乗るか
台風は夜のうちに遠ざかった。けれど、去ったものはいつも、少しだけ何かを置いていく。アーケードの隅には水たまりが残り、提灯は雨を吸ってしぼんだ果物みたいに重く垂れていた。祭り旗は風の名残を抱えたまま、濡れた布の匂いを吐いている。屋台の看板は斜めになり、足元の養生テープはところどころ浮き、電源ケーブルは黒い蛇みたいに床を這っていた。
昨日まで、この町は祭りを待っていた。
今日は、祭りをやっていいのかどうかを、町自身が考えているようだった。
銀次郎は中央広場で腕を組み、濡れた空を見上げた。透明の雨合羽の下から、いつものアロハシャツが透けている。波模様が、ビニール越しに少しぼやけていた。
「町も寝ぐせがついているだけだ」
彼はそう言って、足元の水たまりをまたぎ損ねた。
浜風ジャッジ吾郎が、ほとんど反射で銀次郎の肘をつかんだ。
「会長、寝ぐせはドライヤーで直せますが、転倒は湿布で済まない場合があります」
「人生は波待ちだが、湿布待ちは避けたいな」
「今朝は名言より歩行確認を優先してください」
吾郎は淡々としていた。手には安全確認表。赤い印がいくつも並んでいる。ビーサン飛ばし会場予定地、砂地ぬかるみ。屋台電源、水濡れ注意。湘南座入口、雨漏り一部あり。観客導線、滑りやすい。文字だけを見ると、祭りというより災害対策訓練だった。
凪斗は黒いビーサンで濡れた床を踏んだ。
ぺたり、と音がした。昨日、防波堤で片方のビーサンを脱いだ右足の裏には、まだ小さな傷が残っている。砂粒が食い込んだ跡。濡れたコンクリートの冷たさ。美波のカメラを探すために、自分のルールを少し破った感触。足裏の痛みは、まだ昨日が終わっていないことを教えていた。
湘南座の前に、美波がいた。
父・潮見春樹のカメラは、彼女の手元に戻っている。ミスター涙目が青いハンカチで包み、映写室脇の備品箱へ保護していたおかげで、カメラは濡れていなかった。けれど、美波はカメラを持っているのに、まだ構えていなかった。胸元のバッグには、母・佳奈が春樹へ贈ったカメラ用革ストラップが、布包みのまま入っている。
凪斗は、彼女の横顔を見た。
昨日、彼はようやく春樹の言葉を伝えた。
捨ててくれ。
佳奈の思い出が、あの子を縛るものになるなら。
でも、あの子が自分で探しに来たら、その時は渡してほしい。
けれど、伝えたからといって、できた心のひびが消えたわけではない。凪斗が知っていたのに言わなかった時間は、ちゃんと二人の間に残っている。物は戻っても、信頼は自動では戻らない。そこが、人生の地味にしんどい仕様だった。
「撮らないのか」
凪斗は、できるだけ軽く聞いた。
美波はカメラを見下ろした。
「撮りたいんだけど、何を撮ればいいのか分からない」
その声は、濡れた床に落ちる水滴みたいに小さかった。
「多すぎる。混乱する。お父さんのことも、お母さんのことも、湘南座も、青缶も、祭りも、凪斗のことも」
「俺のことは端っこでいいだろ」
「端っこにいるくせに、たまに画面をめちゃくちゃ揺らすから困る」
「存在が手ブレ補正の敵みたいに言うなよ」
美波は、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑いになりきらない笑いだった。けれど、ゼロではなかった。凪斗はそれを、勝手に救いにしないように気をつけた。今はまだ、救われた気になるには早い。
湘南座の映写室では、メルと小波田が青缶の前でしゃがみ込んでいた。
箱から見つかった封筒には、こう書かれていた。
第1回 湘南商店街 十秒映画祭。
予備上映素材。
作品名、片方だけの夏。
撮影、潮見春樹。
保管、映写室奥・青缶。
青缶は、映写室の奥に本当にあった。古い塗料がところどころ剥げ、側面には小さく「片方だけの夏」と書かれている。
「開けたい」
メルの目がそう言った。
指先が、缶の蓋の上で止まっている。
「ガチで開けたい。今すぐ見たい。人類の本能が動画開封を求めてる」
小波田拾吉は首を横に振った。
「長く眠っていたものは、起こし方を間違えると不機嫌になります」
「また記憶に人格持たせてる」
「古いものは湿度と機嫌でできています」
「分かったような分からないような」
美波は、そのやり取りを黙って聞いていた。以前なら、春樹の名前を見た瞬間、何かを確かめずにはいられなかったかもしれない。けれど今朝の彼女は、青缶へ飛びつかなかった。
「今は、祭りの判断が先だと思う」
美波は言った。
その声は静かだったが、迷ってはいなかった。
凪斗は彼女を見た。父の過去に引っ張られながらも、今この町で起きていることを見ようとしている。美波は少しずつ、春樹の物語の中から、自分の現在へ足を戻していた。
商店街会議室では、最終判断会議が始まった。
畳は湿気を吸って、いつもより青く匂った。窓の外では、濡れた旗が風に揺れ、時々、ばた、と音を立てる。ホワイトボードには、赤と黒の文字が入り乱れていた。
屋外企画。
屋内代替。
湘南座使用。
安全導線。
ビーサン飛ばし。
青のり爆風。
十秒動画。
どれも本気でふざけている言葉なのに、今日はひとつひとつが重かった。
銀次郎は立ち上がった。
「ここで中止したら、商店街の心がしぼむ」
吾郎は安全確認表を見たまま言った。
「怪我人が出たら、祭りは思い出ではなく事故になります」
銀次郎の眉が動いた。
竜二は畳の上で正座しながら、たこ焼き用のヘラを握っている。会議にヘラは不要だが、彼にとっては精神安定剤なのだろう。
「たこ焼きは焼ける。屋根さえあればな。だが屋外で電源が濡れたら、たこ焼きじゃなくて俺が焼ける可能性がある」
「それは嫌じゃな」
波田マダムが紫の傘を畳みながら言った。
「足元が滑る祭りは、恋も転ぶ。転んだ恋は、湿布では治らぬ」
ミスター涙目は青いハンカチで目元を押さえた。
「涙と雨水は混ぜてはなりません。どちらが原因か分からなくなります」
「それ今、判断に関係あります?」
メルが小声で言うと、涙目は真顔でうなずいた。
「大いにございます。責任の所在は、涙より重い」
変な人ばかりだった。
でも、全員本気だった。
祭りをやりたいのは、目立ちたいからだけではない。商店街を、この町を続けたいからだ。未来に繋げていきたいと思っているからだ。中止を考えるのは、冷たいからではない。誰かを傷つけたくないからだ。続けたい気持ちと、守りたい気持ちが、同じ畳の上で向かい合っていた。
凪斗は、ビーサン飛ばし会場予定地へ出た。
吾郎に呼ばれたのだ。アーケードの端から砂地へ出ると、足元がぐにゃりと沈んだ。昨夜の雨を吸った砂は、見た目よりずっと重く、踏み込むたびに足首を取られる。空は明るくなりかけているが、風はまだ不安定だった。
吾郎は砂を踏み、しゃがんで指で状態を確認した。
「午前のビーサン飛ばしは中止です」
凪斗は、反射的に言い返しそうになった。
ビーサン飛ばしは、ただのバカ競技ではなかった。凪斗にとっては、足元への反逆であり、逃げずに前へ飛ばすための儀式でもあった。黒いビーサンを履き続け、足元を揃え続けてきた自分が、いつかちゃんと飛ばせるかどうか。そのことを、どこかで試したかった。
凪斗は、濡れた砂を見た。
「怪我する祭りはダサい」
それだけ言った。
吾郎は、少しだけ目を細めた。
「魂の飛距離より、大切な判断です」
「褒め方が雑すぎんだよ」
凪斗は苦く笑った。
悔しさはあった。ちゃんとあった。けれど、悔しさを飲み込むことも、たぶん足元を見て歩くことの一部だった。




