バズる十秒と、消えたくない十秒
湘南商店街夏まつりまで、あと五日。
昨日まで「あと六日」だった文字は、商店街中で律儀に書き換えられていた。八百屋のレジ横、海の家の柱、元映画館「湘南座」のシャッター横、そして中央広場の掲示板。
**第38回 湘南商店街夏まつり 〜夏の日の青春賛歌スペシャル〜**
**本番まで、あと五日**
**青春10秒動画コンテスト受付開始**
朝の商店街には、湿った段ボールの匂いと、八百屋のトマトの青い匂いと、どこかの店が早めに焼き始めたとうもろこしの焦げた匂いが混ざっていた。アーケードの天井では古い蛍光灯がじりじり鳴り、その向こうから海風が入り込んで、掲示板の紙を小さく震わせている。
美波は、受付ブースの前で立ち止まっていた。
肩には父の古いカメラ。手にはスマホ。画面の中には、昨日撮った古いチラシの写真がある。
**第1回 湘南商店街 十秒映画祭**。
**上映作品『片方だけの夏』**。
**撮影 潮見春樹**。
そして昨日のビーサン飛ばしリハーサルで見つかった、くすんだ黄色いビーサン。底に残っていた油性ペンの文字。
**片方だけの夏 小道具 潮見春樹**。
持ち帰ってはいない。
ただ、撮った。
美波は、触れたら壊れそうなものを、いつも光だけで包む。
凪斗はその横で、赤いアロハシャツの裾を指でつまんでいた。今日は少し風が強い。ドレッドヘアーは後ろで束ねているが、一本だけ勝手に外へ跳ねている。足元はいつもの黒いビーサン。昨日、飛ばせなかったビーサンだ。
受付の机には、応募用紙が並んでいた。
テーマは、**「この町の夏」**。
時間は、**十秒以内**。
スマホ撮影可。編集可。ただし、撮影者本人の視点が入っていること。
最後の一文を見て、美波は少しだけ黙った。
「撮影者本人の視点、か」
凪斗は横から用紙をのぞき込んだ。
「十秒以内って、短すぎじゃねぇ? 俺の足元倫理、前置きで終わるぞ」
「そこは三秒に圧縮」
「思想を圧縮すんな。味が落ちる」
美波は笑った。
でも、その笑いは長く続かなかった。スマホの画面へ目を落とす。父の名前が映ったチラシ。昨日の黄色いビーサン。どれも十秒の中に入るには重すぎる。
十秒は短い。
でも、短いからこそ逃げ場がない。
美波は応募用紙に名前を書いた。ペン先が紙をこする音が、やけにはっきり聞こえた。
潮見美波。
その名字が、昨日から少し違って見える。凪斗にはそんな気がした。商店街の古い紙の中にも、同じ名字があった。美波より前に、この町で十秒を撮った人がいた。
凪斗は何か言おうとして、やめた。
代わりに、受付ブースの下の脱ぎ散らかした子ども用の赤いサンダルを拾い、そっと向きを揃えた。
美波はそれを見て、少しだけ笑う。
笑ったあと、また少し遠くを見る。
その一瞬が、凪斗にはやけに刺さった。
そこへ、商店街の入口から派手な電子音が近づいてきた。
通知音。シャッター音。動画の効果音。足音より先にスマホの気配が来る。
緑メッシュの髪を揺らし、スマホを二台持った女の子が歩いてきた。年は凪斗たちより少し下くらい。白いメッシュパーカーの下に、海藻みたいなグリーンのインナー。首から小型マイク。片方のスマホには自撮り画面、もう片方はコメ確認用。
ワカメ田メル。
湘南商店街公式SNSの臨時PR係として、銀次郎がどこからか連れてきたインフルエンサーだった。
「うわ、いた。アロハ、ドレッド、黒ビーサン。ビジュ強。しかもビーサン奉行。情報量えぐ」
メルは凪斗を見た瞬間、目を輝かせた。
凪斗は一歩引いた。
「俺をサムネ扱いすんな」
「もうサムネだよ。存在がサムネ」
「俺の人権どこ行った」
「サムネ権ならありそう」
メルは笑いながら、凪斗の周りをくるくる回りすでに撮っていた。
凪斗のアロハ。ドレッド。黒いビーサン。名札の「ビーサン奉行」。全部が、彼女の画面の中でテンポよく記録されていく。
美波のスマホとは違う。
美波のカメラは、待つ。風が吹くまで。光が変わるまで。誰かの顔がふっとほどけるまで。
メルのスマホは、奪う。
今、面白いもの。今、強いもの。今、流れていく前に掴めるもの。それを一瞬で捕まえて、すぐ遠くへ投げる。
凪斗は、昨日のビーサン飛ばしを思い出した。
飛ばしたものは、拾いに行けばいい。
吾郎はそう言った。
でも、ネットに飛んだものは、どこへ拾いに行けばいいのだろう。
メルは凪斗の周りを半周しながら、配信用の声で言った。
「見た目は陽キャ、思想は足元のビーサン。これ、ギャップ刺さる。絶対伸びるやつ」
「伸びなくていい」
「いや、伸びたほうが商店街助かるっしょ。祭り、人来たほうがいいじゃん」
それは正しい。
正しいから、凪斗は余計に何も言えなくなる。
商店街は今、ギリギリなのだ。シャッターの下りた店、錆びた看板、元映画館。笑えるくらい変な人たちがいる一方で、笑えないほど人が減っている。メルの動画で人が来るなら、それはきっといいことだ。
でも、自分の変さが、知らない誰かの暇つぶしになる感じがした。
凪斗はそれが少し心外だった。
メルは次に、元映画館「湘南座」へ向かった。
シャッターは閉じている。潮風で錆びた金属の匂いがして、隙間には砂ぼこりがたまっている。昨日、古いチラシの写真を撮った場所。潮見春樹という名前が、美波の中に落ちた場所。
美波は黙ってスマホを構えた。
シャッターの錆び。隅に残った映画ポスターの糊の跡。風に揺れる紙片。入り口前に落ちた乾いた葉。
メルも同じ場所を撮った。
「閉館映画館、昭和レトロ、これ、エモ確定じゃん」
その瞬間、美波の指が止まった。
凪斗は美波を見た。
メルに悪気はなかった。彼女は本気で「届く形」を考えている。ただ、言葉が早すぎた。まだ美波の中で形になっていない痛みに、キャッチコピーを貼ってしまった。
「それ、ネタじゃない」
美波の声は大きくなかった。
でも、アーケードの空気が一瞬止まった。
メルも黙る。
遠くで中華屋の換気扇が唸っている。油の匂いが湿った風に乗って流れてくる。室外機の熱い息が、路地の空気をじわっと濁らせる。
メルは少しだけ目を細めた。
「でも、見られなきゃ届かなくない?」
美波はスマホを下げた。
「誰かの心に届くために撮るのと、消費されるために撮るのは違うと思う」
その言葉は、静かだった。
でも、ちゃんと刺さった。
凪斗は口を挟めなかった。
どちらも間違っていないからだ。
見られなければ、届かない。
でも、見られ方を間違えたら、大事なものが軽くなる。
凪斗自身も、少し前からそれを感じていた。ビーサン奉行。アロハ。ドレッド。足元思想。面白い部分だけなら、簡単に切り取れる。でもその中には、片方だけのものを拾いたくなる理由も、美波の横で言葉を探している自分も映らない。
笑われるのは、慣れている。
でも、浅くわかられるのは、思ったよりしんどい。
空気が重くなったところで、竜二の声が飛んできた。
「おい、青春ども! 揉めるならたこ焼き食ってから揉めろ!」
海の家「タコ焼きサンライズ」から、ソースの匂いが濃く漂ってきた。鉄板の上で油が跳ねる音。かつお節が湯気で踊る気配。甘辛い匂いが、さっきまでの気まずさを雑に包んでいく。
三人は結局、竜二の店先に並んだ。
竜二は顔を見るなり、鉄板をカン、と叩いた。
「映像もたこ焼きもな、中身が熱いうちに出すと火傷する。でも冷ましすぎると固くなる」
凪斗は眉を寄せた。
「また、たこ焼きで人生語ってんじゃねーよ」
「俺は鉄板の前では真理を言うんだよ」
竜二は三人の前に、たこ焼きを置いた。
湯気が立つ。ソースが光る。青のりが少しだけかかっている。以前の青のり逃亡事件以来、青のりは控えめになっていた。店として学習している。
メルは箸を持ったまま、少し黙っていた。
美波も黙っている。
凪斗は、熱いたこ焼きを見つめた。
早すぎると火傷する。
遅すぎると固くなる。
映像も、本音も、たぶん同じだ。
メルは昼過ぎ、一本の動画を投稿した。
タイトルは、
**「湘南商店街、クセ強すぎ夏まつり準備中」**。
そこには、凪斗のアロハとドレッド、ビーサン奉行の名札、昨日のきゅうり桶事件、銀次郎の拡声器、DJ波のり坊主の「南無サマー」、竜二の鉄板がテンポよく入っていた。父のチラシも、黄色いビーサンも、美波の沈黙も、入っていなかった。
動画は、小さくバズった。
コメントが増える。保存数が増える。商店街の公式アカウントに通知が鳴る。八百屋のおばちゃんが「今度行きますってコメント来てる!」と叫び、銀次郎は「波が来た!」と拡声器なしでガッツポーズで叫んだ。金物屋のおじさんまで、新聞を逆さにしたまま「若い人、来るかね」と笑った。
町が少し明るくなる。
メルの力は、本物だった。
凪斗はそれを認めざるを得なかった。バズるというのは、軽い言葉に見えて、誰かを連れてくる力がある。閉じかけた店のシャッターを、少しだけ押し上げる力がある。
けれど、美波はその画面を見ながら、少しだけ置いていかれた顔をした。
笑ってはいた。
でも、その笑いは画面の明るさに追いついていなかった。
夕方、美波は商店街のベンチで、コンテスト用の十秒を選んでいた。
スマホの画面に、いくつもの素材が並んでいる。
凪斗が片方だけのビーサンを拾う動画。
青のりが逃げた動画。
湘南座のシャッター。
黄色いビーサン。
リュウの怒りの俳句。
凪斗が足元を揃える手元。
十秒は、いくつもあった。
でも、美波は選べなかった。
楽しい十秒を選ぶと、父のことを避けている気がする。
父の撮ったような十秒を選ぶと、商店街を利用している気がする。
凪斗を選ぶと、なぜだか胸の奥が変にざわつく。
美波はスマホを膝の上に置いた。
「私、何を撮りたいんだろ」
凪斗は隣に座っていた。
足元には夕方の影が伸びている。アロハの赤は少しくすみ、ドレッドの先に西日がひっかかっていた。遠くから、たこ焼きのソースと、海の塩と、古いアーケードの埃が混じった匂いが流れてくる。
凪斗は答えを持っていなかった。
だから、適当なことは言わなかった。
ただ、ベンチの下に落ちていた小さな紙くずを拾い、近くのゴミ箱に入れた。それから、美波の黄色いビーサンの横に、自分の黒いビーサンを立ったまま、まっすぐ並べ直した。
美波はそれを見て、少しだけ笑った。
日が傾くころ、二人は海へ続く坂道を歩いた。
商店街の音が遠くなる。拡声器の声も、鉄板の音も、メルの通知音も、後ろに小さく沈んでいく。代わりに潮の匂いが濃くなり、坂の下から波音がゆっくり上がってくる。
アスファルトには昼の熱が残っていた。ビーサンの底越しに、じんわりと温度が伝わる。坂道の手すりは潮で少しざらつき、触れると指先に細かな砂がついた。
美波はスマホを握ったまま言った。
「私、バズりたいわけじゃないんだ」
凪斗は横を見た。
美波は海の方を見ている。
「でも、誰にも見られなくていいとも思ってない。たぶん、見てほしい人がいるんだと思う。誰か、っていうか……」
そこで言葉が止まった。
父、と言わなかった。
言わないことで、逆に伝わることもある。
夕暮れの光が、美波の横顔を淡く染めていた。泣いているわけではない。でも、目の奥に小さな水面があった。
「私は、消えたくない十秒を撮りたい」
その声は、波より小さかった。
でも、凪斗にははっきり聞こえた。
消えたくない。
楽しかった日が。
父の名前が。
この商店街が。
今ここにいる自分が。
凪斗は胸の奥が少し痛くなった。
何か言わなければと思った。でも、かっこいい言葉は出てこない。出てきたとしても、たぶん今の美波には少しうるさい。
だから凪斗は、いつもの自分の言葉で言った。
「じゃあ、消えそうになったら俺が拾う」
美波がこちらを見る。
凪斗は慌てて視線をそらした。
「ビーサンでも、動画でも、紙くずでも。まあ、拾える範囲だけだけどな」
美波は少しだけ泣きそうに笑った。
「範囲、広げといて」
「努力はする」
その返事は、約束にしては頼りない。
でも、その頼りなさごと、夕暮れの坂道にしみ込んだ。
夜。
商店街の受付ブースには、誰もいなかった。
昼間の熱が少し残った机。剥がれかけたガムテープ。ペン立て。応募用紙の束。遠くでシャッターが閉まる音がする。海風は夜になると少し冷たく、紙を一枚だけめくった。
そこへ、メルが戻ってきた。
昼間のテンションはない。スマホを二台持っているのは同じなのに、歩き方が少し静かだった。
彼女は受付ブースの椅子に座り、スマホの画面を開いた。
投稿済みの動画ではない。
未投稿フォルダ。
そこには、昼間の派手な切り抜きとは全然違う十秒が並んでいた。
銀次郎が一人で曲がったポスターを貼り直している背中。
閉店した店の看板を、八百屋のおばちゃんが布で拭いている手元。
美波が黄色いビーサンを見つめている横顔。
凪斗が誰にも見られていないと思って、砂に落ちたビーサンをまっすぐ揃える指先。
どれも、投稿すれば伸びるかもしれない。
でも、メルは投稿しなかった。
ただ、保存した。
画面の下に、フォルダ名が表示されている。
**消したくないやつ**
メルはしばらくその文字を見つめていた。
昼間、彼女は「見られなきゃ届かない」と言った。
それは嘘ではない。
でも、誰にも見せないまま残しておきたい十秒があることも、彼女はちゃんと知っていた。
夜の商店街に、海風が抜ける。
掲示板の紙が、小さく鳴った。
バズる十秒と、消えたくない十秒。
その二つは、敵同士ではないのかもしれない。
ただ、まだ誰も、その扱い方を知らないだけだった。




