第5章(後半) ビーサン飛ばしは足元への反逆である
リハーサルが始まった。
第一投は竜二だった。
竜二は白いラインの前に立ち、右足のビーサンを半分脱いだ。たこ焼きの鉄板の前ではやたら堂々としている男だが、片足だけ裸足になると、急に人生のバランスが怪しく見える。
吾郎の笛が鳴った。
竜二の足が振り上がる。
ビーサンは空へ飛んだ。
きれいな弧を描くかと思われた。
だが、海風はそんなに空気を読まない。
ビーサンは途中で横風を受け、ありえない角度で右へ曲がった。そのまま、浅漬けリュウの冷やしきゅうり桶へ突っ込んだ。
ばしゃん。
氷水が跳ねた。きゅうりが揺れた。ビーサンが桶の中でぷかりと浮いた。潮の匂いに、きゅうりの青い香りのなんとも言えない生活感が混ざる。
砂浜が一瞬、凍り付き静まり返る。
浅漬けリュウは、ゆっくり桶の中からビーサンを持ち上げた。普段は悟った俳人みたいな顔をしている男の眉が、明らかに憤慨してして真っ赤なトマトのような般若顔になった。
彼は濡れたビーサンを片手に、眉をぴくつかせながら低い声で一句詠んだ。
「ビーサンや、きゅうりの寝床、荒らすなり」
さらに、間髪入れずにもう一句。
「飛ばすなら、人の桶には、入れるなよ」
後半は俳句というより、ほぼ注意喚起だった。
竜二は両手を合わせた。
「悪い! ガチで悪い! リハでよかった!」
リュウは桶の水面を見つめ、しばらく黙った。
そして、ため息をつくように三句目を詠んだ。
「リハでもさ、ビーサン入れるな、きゅうり桶」
怒ってはいる。
しかし今日は、点検のためのリハーサルだから、まだギリ許す。
その心の着地点を、リュウは俳句の五七五に収めた。
銀次郎がすぐに三角コーンを持って走った。
「よし! 冷やしきゅうり桶周辺、危険区域に指定!」
凪斗は砂の上にしゃがみ込み、コーンの位置を見た。
「遅ぇよ。桶は最初から保護対象だろ」
吾郎は採点表に真剣に書き込んでいる。
「第一投、飛距離短め。横風リスク大。食品エリアへの侵入あり。本番では配置変更。ただし怒りの俳句による殺傷能力は低め」
凪斗は顔をしかめた。
「なんでそこ採点してんだよ」
美波は録画を止めていなかった。
十秒の中に、ちゃんと起承転結がある。竜二が構える。ビーサンが飛ぶ。きゅうり桶へ落ちる。リュウが怒りの俳句を詠む。最後に凪斗が安全確認のために本気でコーンを動かす。
馬鹿みたいなのに、ちゃんと夏だった。
その後のリハーサルも、順調にカオスだった。
金物屋のおじさんのビーサンは真っ直ぐ飛んだが、着地直前に犬が遊びと思ってくわえて走り去った。双子の赤いビーサンと青いビーサンは空中で衝突し、銀次郎の拡声器に直撃した。メルは「神事故きた、バズり散らかす」と叫び、DJ波のり坊主はどこからともなく現れて「飛んだビーサン、迷える足元、南無サマー」と即興で唱えた。
凪斗は審判補佐として忙しかった。
飛距離を記録し、ビーサンの着地角度を見て、危険区域を増やし、犬がくわえた場合の再投扱いについて吾郎と揉めた。アロハの背中には汗がにじみ、砂が足裏にまとわりつく。鼻緒が親指の間をこすり、じりじりとした感触が体の奥まで夏を押し込んでくる。
場の盛り上がりと笑い声はずっと続いていた。
でも、その笑いの中で、美波だけは時々静かだった。
スマホを構えたまま、ふと遠くを見る。昨日撮った古いチラシのことを考えているのだろうと、凪斗は思った。潮見春樹。片方だけの夏。波田マダムとミスター涙目が出演していた、父の十秒映画。
この商店街は、美波にとって、ただの撮影場所ではなくなり始めている。
父がかつて何かを残した場所。
父の笑い声の残り香が、どこかにまだ漂っているかもしれない場所。
凪斗は、美波に何か言いたかった。
でも、何を言えばいいのか全然わからない。
大丈夫? なんて軽すぎる。
聞かせて、なんて踏み込みすぎる。
無理すんな、なんて言ったら、美波はきっと笑って「してないよ」と言う。
言葉は難しい。
ビーサンの向きなら直せるのに、人の心の向きは簡単に触れない。
だから凪斗は、砂に落ちたビーサンを拾って、向きを揃えた。今できることは、それくらいだった。
吾郎が、凪斗の隣に立つ。
白い帽子の影で、彼の目元は少し柔らかくなっていた。
「ビーサン奉行」
「奉行って呼ぶな。奉行は名札だけにしろ」
「君は、なぜビーサンを飛ばすことをそこまで嫌がるんですか」
凪斗はすぐには答えなかった。
遠くでは、竜二がリュウに謝りながらきゅうりを買い取っている。リュウはまだ少し怒っていて、「リハの日の、損失きゅうり、味しみる」と追加で詠んでいた。双子は犬を追い、メルの配信画面には「この町、全員キャラ濃い」と流れている。
凪斗は自分の黒いビーサンを見た。
「ビーサンは、足を守るもんだろ」
口にしてから、それだけじゃないとわかった。
守っているのは足だけではない。距離だ。今ある関係だ。変えたくない空気だ。飛ばしてしまったら、戻ってこない気がするもの。
昨日、美波の父の名前を見た時もそうだった。
聞けば何かが始まるかもしれない。
でも、聞いたせいで何かが終わるかもしれない。
だから凪斗は、近くにある沈黙を守るふりをしている。
吾郎は砂に落ちた古いビーサンを拾った。くすんだ黄色。鼻緒の根元に傷がある。祭りの備品箱から出てきた、予備のビーサンの一つだと思っていた。
「守るだけが、愛とは限りません」
吾郎は静かに言った。
「飛ばしたビーサンは、失われるわけではない。拾いに行けばいい」
凪斗は黙った。
拾いに行けばいい。
簡単に言うな、と思った。
でも、その簡単さに少しだけ救われる感じもした。
離したものが、同じ形で戻るとは限らない。だけど、離さなければ見えない距離もある。飛ばさなければ、走って拾いに行く背中も生まれない。
美波がこちらを見ていた。
スマホは下げている。撮っていない。
撮らないことも、美波の選択なのだと凪斗は思った。全部を残す人ではない。残すものを選ぶ人なのだ。
銀次郎が拡声器を鳴らした。
「ビーサン奉行! せっかくだ、リハで一回飛ばしてみろ!」
双子が騒ぎ、メルがスマホを向け、竜二が手を振る。リュウだけは、桶の前で腕を組み、目だけで「こっちへ飛ばすな」と言っていた。
凪斗は自分の黒いビーサンを見た。
このビーサンで、何度も商店街を歩いた。海まで走った。美波の隣にも立った。砂も、青のりも、波の冷たさも知っている。
それを今、笑いながら飛ばす気にはなれなかった。
「まだやらねぇ」
凪斗は言った。
その声は小さかったが、自分の中でははっきりしていた。
吾郎はうなずいた。
「それも、今日の確認事項です」
リハーサルは休憩に入った。
人々が屋台の方へ散っていくと、砂浜に少しだけ静けさが戻った。波音が前に出てくる。ビーサンがいくつも砂の上に転がり、それぞれ違う向きを向いている。飛ばされた後の履き物たちは、少し疲れているようで、少し自由にも見えた。
美波は、会場の端に置かれた備品箱の前で立ち止まった。
そこには古いビーサンが何足か入っていた。色あせた赤、青、黄色。祭りのリハーサル用に出してきた予備らしい。美波はその中の一つ、くすんだ黄色いビーサンをじっと見つめた。
さっき吾郎が手にしていたものだ。
美波はスマホを取り出し、昨日撮ったチラシの写真を開いた。
第1回湘南商店街十秒映画祭。
『片方だけの夏』。
そのチラシの端に、小さな写真が載っていた。画質は荒い。色もにじんでいる。でも、そこには砂浜へ飛ぶビーサンが写っていた。
鼻緒の根元に、小さな傷。
今、備品箱の中にある黄色いビーサンと同じ場所だった。
美波の指が止まった。
凪斗も画面をのぞき込み、息を飲んだ。
美波はゆっくり、備品箱の黄色いビーサンを持ち上げた。砂を払う。底の裏側に、油性ペンの文字が残っていた。
**片方だけの夏 小道具**
**潮見春樹**
空気が変わった。
さっきまで、きゅうり桶にビーサンが入っただの、犬がくわえただの、拡声器に直撃しただので笑っていた砂浜が、一瞬で過去への入り口になった。
海は変わらず青い。
波も変わらず白い。
竜二の屋台からはソースの匂いがして、リュウの桶からはきゅうりの青い匂いがする。
でも、その黄色いビーサンだけが、時間を巻き戻していた。
吾郎が静かに近づいてきた。
いつもの厳粛な審判顔ではなく、少し遠いものを見る顔をしていた。
「それは、第1回十秒映画祭の撮影で使われたものです」
美波はビーサンから目を離さなかった。
吾郎の声が、波音に溶ける。
「潮見春樹さんは、そのビーサンを飛ばす場面を撮りました。片方だけになったビーサンが、海の方へ飛ぶ。けれど最後には、誰かが走って拾いに行く。たった十秒の映画でした」
凪斗は、こころがざわつくのを感じた。
ビーサン飛ばしは、ただの変な競技だと思っていた。
足元への反逆だと思っていた。
商店街の大人たちが、また意味不明な企画を増やしただけだと思っていた。
でも違った。
この競技は、春樹が残した映画の続きを、商店街が何も言わずにずっと持っていた記憶の欠片だった。
美波が五郎に向き直り小さく聞いた。
「お父さんも、飛ばしたの?」
吾郎は首を振った。
「飛ばしたのは、当時小学生だった私です。春樹さんに頼まれて」
浜風ジャッジ吾郎。
魂の飛距離を測る男。
ビーサンの角度に人生を見る、変な審判。
彼は、ただの変な大人ではなかった。
美波の父の映画に、最初のビーサンを飛ばした少年だった。
吾郎は帽子を少し握った。
「だから私は、飛距離よりも、拾いに行く背中を見てしまうんです」
美波は何も言わなかった。
ただ、黄色いビーサンを両手で持っていた。指先が少し震えている。けれど、落とさなかった。
凪斗は横に立った。
何を言えばいいかわからない。けれど今度は、足元だけは逃がさなかった。黒いビーサンを、美波の黄色いビーサンの隣に置いたまま、ただそこにいた。
美波はスマホをゆっくり構えた。
録画ボタンを押す。
画面の中に、古い黄色いビーサンが映る。砂。波。白いライン。遠くで笑う商店街の人たち。隣に立つ凪斗の黒いビーサン。
美波の声が、小さく入った。
「十秒、撮ってみるね」
凪斗は足元を見た。
黒いビーサンは、まだ飛ばしていない。
でも、いつか飛ばす日が来るのかもしれない。
大切なものを捨てるためじゃない。
遠くへ行ってしまうものを、ちゃんと拾いに行くために。
風が吹いた。
古い黄色いビーサンが、砂の上で少しだけ向きを変えた。まるで、長い時間をかけて、やっと美波の方を向いたみたいだった。
凪斗は反射的にしゃがみ込み、向きを直そうとした。
でも、途中で手を止めた。
今日は、直さなかった。
その向きにも、意味がある気がしたからだ。
美波のスマホが、その十秒を静かに録っていた。




