↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/19

第5章(後半) ビーサン飛ばしは足元への反逆である

 リハーサルが始まった。

 第一投は竜二だった。


 竜二は白いラインの前に立ち、右足のビーサンを半分脱いだ。たこ焼きの鉄板の前ではやたら堂々としている男だが、片足だけ裸足になると、急に人生のバランスが怪しく見える。


 吾郎の笛が鳴った。

 竜二の足が振り上がる。

 ビーサンは空へ飛んだ。


 きれいな弧を描くかと思われた。

 だが、海風はそんなに空気を読まない。


 ビーサンは途中で横風を受け、ありえない角度で右へ曲がった。そのまま、浅漬けリュウの冷やしきゅうり桶へ突っ込んだ。


 ばしゃん。


 氷水が跳ねた。きゅうりが揺れた。ビーサンが桶の中でぷかりと浮いた。潮の匂いに、きゅうりの青い香りのなんとも言えない生活感が混ざる。


 砂浜が一瞬、凍り付き静まり返る。


 浅漬けリュウは、ゆっくり桶の中からビーサンを持ち上げた。普段は悟った俳人みたいな顔をしている男の眉が、明らかに憤慨してして真っ赤なトマトのような般若顔になった。


 彼は濡れたビーサンを片手に、眉をぴくつかせながら低い声で一句詠んだ。

「ビーサンや、きゅうりの寝床、荒らすなり」


 さらに、間髪入れずにもう一句。

「飛ばすなら、人の桶には、入れるなよ」


 後半は俳句というより、ほぼ注意喚起だった。


 竜二は両手を合わせた。

「悪い! ガチで悪い! リハでよかった!」


 リュウは桶の水面を見つめ、しばらく黙った。


 そして、ため息をつくように三句目を詠んだ。

「リハでもさ、ビーサン入れるな、きゅうり桶」


 怒ってはいる。

 しかし今日は、点検のためのリハーサルだから、まだギリ許す。

 その心の着地点を、リュウは俳句の五七五に収めた。


 銀次郎がすぐに三角コーンを持って走った。

「よし! 冷やしきゅうり桶周辺、危険区域に指定!」


 凪斗は砂の上にしゃがみ込み、コーンの位置を見た。

「遅ぇよ。桶は最初から保護対象だろ」


 吾郎は採点表に真剣に書き込んでいる。

「第一投、飛距離短め。横風リスク大。食品エリアへの侵入あり。本番では配置変更。ただし怒りの俳句による殺傷能力は低め」


 凪斗は顔をしかめた。

「なんでそこ採点してんだよ」


 美波は録画を止めていなかった。

 十秒の中に、ちゃんと起承転結がある。竜二が構える。ビーサンが飛ぶ。きゅうり桶へ落ちる。リュウが怒りの俳句を詠む。最後に凪斗が安全確認のために本気でコーンを動かす。


 馬鹿みたいなのに、ちゃんと夏だった。

 その後のリハーサルも、順調にカオスだった。


 金物屋のおじさんのビーサンは真っ直ぐ飛んだが、着地直前に犬が遊びと思ってくわえて走り去った。双子の赤いビーサンと青いビーサンは空中で衝突し、銀次郎の拡声器に直撃した。メルは「神事故きた、バズり散らかす」と叫び、DJ波のり坊主はどこからともなく現れて「飛んだビーサン、迷える足元、南無サマー」と即興で唱えた。


 凪斗は審判補佐として忙しかった。


 飛距離を記録し、ビーサンの着地角度を見て、危険区域を増やし、犬がくわえた場合の再投扱いについて吾郎と揉めた。アロハの背中には汗がにじみ、砂が足裏にまとわりつく。鼻緒が親指の間をこすり、じりじりとした感触が体の奥まで夏を押し込んでくる。


 場の盛り上がりと笑い声はずっと続いていた。

 でも、その笑いの中で、美波だけは時々静かだった。


 スマホを構えたまま、ふと遠くを見る。昨日撮った古いチラシのことを考えているのだろうと、凪斗は思った。潮見春樹。片方だけの夏。波田マダムとミスター涙目が出演していた、父の十秒映画。


 この商店街は、美波にとって、ただの撮影場所ではなくなり始めている。


 父がかつて何かを残した場所。

 父の笑い声の残り香が、どこかにまだ漂っているかもしれない場所。


 凪斗は、美波に何か言いたかった。

 でも、何を言えばいいのか全然わからない。


 大丈夫? なんて軽すぎる。

 聞かせて、なんて踏み込みすぎる。

 無理すんな、なんて言ったら、美波はきっと笑って「してないよ」と言う。


 言葉は難しい。

 ビーサンの向きなら直せるのに、人の心の向きは簡単に触れない。


 だから凪斗は、砂に落ちたビーサンを拾って、向きを揃えた。今できることは、それくらいだった。

 吾郎が、凪斗の隣に立つ。


 白い帽子の影で、彼の目元は少し柔らかくなっていた。

「ビーサン奉行」


「奉行って呼ぶな。奉行は名札だけにしろ」


「君は、なぜビーサンを飛ばすことをそこまで嫌がるんですか」


 凪斗はすぐには答えなかった。


 遠くでは、竜二がリュウに謝りながらきゅうりを買い取っている。リュウはまだ少し怒っていて、「リハの日の、損失きゅうり、味しみる」と追加で詠んでいた。双子は犬を追い、メルの配信画面には「この町、全員キャラ濃い」と流れている。


 凪斗は自分の黒いビーサンを見た。

「ビーサンは、足を守るもんだろ」


 口にしてから、それだけじゃないとわかった。


 守っているのは足だけではない。距離だ。今ある関係だ。変えたくない空気だ。飛ばしてしまったら、戻ってこない気がするもの。


 昨日、美波の父の名前を見た時もそうだった。

 聞けば何かが始まるかもしれない。

 でも、聞いたせいで何かが終わるかもしれない。


 だから凪斗は、近くにある沈黙を守るふりをしている。

 吾郎は砂に落ちた古いビーサンを拾った。くすんだ黄色。鼻緒の根元に傷がある。祭りの備品箱から出てきた、予備のビーサンの一つだと思っていた。


「守るだけが、愛とは限りません」

 吾郎は静かに言った。


「飛ばしたビーサンは、失われるわけではない。拾いに行けばいい」


 凪斗は黙った。

 拾いに行けばいい。


 簡単に言うな、と思った。

 でも、その簡単さに少しだけ救われる感じもした。


 離したものが、同じ形で戻るとは限らない。だけど、離さなければ見えない距離もある。飛ばさなければ、走って拾いに行く背中も生まれない。


 美波がこちらを見ていた。

 スマホは下げている。撮っていない。

 撮らないことも、美波の選択なのだと凪斗は思った。全部を残す人ではない。残すものを選ぶ人なのだ。


 銀次郎が拡声器を鳴らした。

「ビーサン奉行! せっかくだ、リハで一回飛ばしてみろ!」


 双子が騒ぎ、メルがスマホを向け、竜二が手を振る。リュウだけは、桶の前で腕を組み、目だけで「こっちへ飛ばすな」と言っていた。


 凪斗は自分の黒いビーサンを見た。

 このビーサンで、何度も商店街を歩いた。海まで走った。美波の隣にも立った。砂も、青のりも、波の冷たさも知っている。


 それを今、笑いながら飛ばす気にはなれなかった。

「まだやらねぇ」


 凪斗は言った。

 その声は小さかったが、自分の中でははっきりしていた。


 吾郎はうなずいた。

「それも、今日の確認事項です」


 リハーサルは休憩に入った。


 人々が屋台の方へ散っていくと、砂浜に少しだけ静けさが戻った。波音が前に出てくる。ビーサンがいくつも砂の上に転がり、それぞれ違う向きを向いている。飛ばされた後の履き物たちは、少し疲れているようで、少し自由にも見えた。


 美波は、会場の端に置かれた備品箱の前で立ち止まった。


 そこには古いビーサンが何足か入っていた。色あせた赤、青、黄色。祭りのリハーサル用に出してきた予備らしい。美波はその中の一つ、くすんだ黄色いビーサンをじっと見つめた。


 さっき吾郎が手にしていたものだ。

 美波はスマホを取り出し、昨日撮ったチラシの写真を開いた。


 第1回湘南商店街十秒映画祭。

 『片方だけの夏』。

 そのチラシの端に、小さな写真が載っていた。画質は荒い。色もにじんでいる。でも、そこには砂浜へ飛ぶビーサンが写っていた。


 鼻緒の根元に、小さな傷。

 今、備品箱の中にある黄色いビーサンと同じ場所だった。


 美波の指が止まった。

 凪斗も画面をのぞき込み、息を飲んだ。


 美波はゆっくり、備品箱の黄色いビーサンを持ち上げた。砂を払う。底の裏側に、油性ペンの文字が残っていた。


 **片方だけの夏 小道具**

 **潮見春樹**


 空気が変わった。


 さっきまで、きゅうり桶にビーサンが入っただの、犬がくわえただの、拡声器に直撃しただので笑っていた砂浜が、一瞬で過去への入り口になった。


 海は変わらず青い。

 波も変わらず白い。

 竜二の屋台からはソースの匂いがして、リュウの桶からはきゅうりの青い匂いがする。


 でも、その黄色いビーサンだけが、時間を巻き戻していた。

 吾郎が静かに近づいてきた。


 いつもの厳粛な審判顔ではなく、少し遠いものを見る顔をしていた。

「それは、第1回十秒映画祭の撮影で使われたものです」


 美波はビーサンから目を離さなかった。

 吾郎の声が、波音に溶ける。


「潮見春樹さんは、そのビーサンを飛ばす場面を撮りました。片方だけになったビーサンが、海の方へ飛ぶ。けれど最後には、誰かが走って拾いに行く。たった十秒の映画でした」


 凪斗は、こころがざわつくのを感じた。

 ビーサン飛ばしは、ただの変な競技だと思っていた。

 足元への反逆だと思っていた。

 商店街の大人たちが、また意味不明な企画を増やしただけだと思っていた。


 でも違った。


 この競技は、春樹が残した映画の続きを、商店街が何も言わずにずっと持っていた記憶の欠片だった。

 美波が五郎に向き直り小さく聞いた。


「お父さんも、飛ばしたの?」

 吾郎は首を振った。


「飛ばしたのは、当時小学生だった私です。春樹さんに頼まれて」

 浜風ジャッジ吾郎。


 魂の飛距離を測る男。

 ビーサンの角度に人生を見る、変な審判。


 彼は、ただの変な大人ではなかった。

 美波の父の映画に、最初のビーサンを飛ばした少年だった。


 吾郎は帽子を少し握った。

「だから私は、飛距離よりも、拾いに行く背中を見てしまうんです」


 美波は何も言わなかった。

 ただ、黄色いビーサンを両手で持っていた。指先が少し震えている。けれど、落とさなかった。


 凪斗は横に立った。

 何を言えばいいかわからない。けれど今度は、足元だけは逃がさなかった。黒いビーサンを、美波の黄色いビーサンの隣に置いたまま、ただそこにいた。


 美波はスマホをゆっくり構えた。

 録画ボタンを押す。


 画面の中に、古い黄色いビーサンが映る。砂。波。白いライン。遠くで笑う商店街の人たち。隣に立つ凪斗の黒いビーサン。


 美波の声が、小さく入った。

「十秒、撮ってみるね」


 凪斗は足元を見た。

 黒いビーサンは、まだ飛ばしていない。


 でも、いつか飛ばす日が来るのかもしれない。


 大切なものを捨てるためじゃない。

 遠くへ行ってしまうものを、ちゃんと拾いに行くために。


 風が吹いた。


 古い黄色いビーサンが、砂の上で少しだけ向きを変えた。まるで、長い時間をかけて、やっと美波の方を向いたみたいだった。


 凪斗は反射的にしゃがみ込み、向きを直そうとした。

 でも、途中で手を止めた。

 今日は、直さなかった。

 その向きにも、意味がある気がしたからだ。

 美波のスマホが、その十秒を静かに録っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。