第5章(前半) ビーサン飛ばしは足元への反逆である
# 第5章 ビーサン飛ばしは足元への反逆である
湘南商店街夏まつりまで、あと六日。
その数字は、商店街の掲示板にも、海の家の柱にも、八百屋のレジ横にも、やたら太いマジックで書かれていた。
**第38回 湘南商店街夏まつり 〜夏の日の青春賛歌スペシャル〜**
**本番:今度の日曜 来たる7/20日**
**本日:ビーサン飛ばし選手権・安全確認リハーサル**
最後の一行だけ、妙に現実的だった。
祭りはまだ始まっていない。
今日はあくまで、祭り当日に開催されるビーサン飛ばし選手権のためのリハーサル。観客との距離、飛距離の測り方、着地点の危険性、そして商店街の変人たちがどのくらい暴走するかを事前に確認する日である。
要するに、事故る前に一回ちゃんと事故っておこう、という湘南商店街らしい発想だった。
事故る前提なのだ。
商店街の裏手にある砂浜は、朝から変な熱気に包まれていた。海は青く、波は白く、空は無駄に爽やかだった。その爽やかさが、砂浜に設置された赤い三角コーンや、メジャーや、審判席や、「ビーサン飛ばし選手権」と書かれた横断幕のバカバカしさを余計に引き立てている。
潮の匂いに、たこ焼きのソースの匂いが混ざっていた。まだ朝なのに、鉄板はもう熱を持っている。波音の隙間に、ガムテープを剥がす音、パイプ椅子を引きずる音、誰かが拡声器をテストする間抜けなハウリングが挟まる。
凪斗は、赤いアロハシャツで砂浜に立っていた。
胸元にはハイビスカスが咲き散らかしている。ドレッドヘアーは後ろで束ねていたが、一本だけ勝手に横へ跳ねていた。見た目だけなら、完全に夏を味方につけている。だが、足元の黒いビーサンは明らかに不機嫌だった。
もちろん、ビーサンが本当に不機嫌なわけではない。
不機嫌なのは凪斗である。
彼は横断幕を見上げ、深いため息をついた。
「……ビーサン飛ばしって、字面からしてもうダメだろ。足元への反逆じゃねぇか」
美波は少し離れた場所でスマホを構えていた。
昨日、波田マダムの占いテーブルの上に置かれていた古いチラシを、美波はスマホで撮っていた。第1回湘南商店街十秒映画祭。上映作品『片方だけの夏』。撮影、潮見春樹。出演、波田ミチル、涙橋潤三郎。
美波はそのチラシを持ち帰らなかった。
ただ、撮った。
盗むみたいにではなく、触れたら崩れそうなものを、光だけでそっと写すみたいに。
その写真は、美波のスマホの中にある。
凪斗は、そのことを何度も思い出していた。美波の父の名前。映画祭。片方だけの夏。昨日までただの変な商店街だった場所に、急に美波の過去へ続く細い糸が張られた。踏めば切れそうで、触れば痛そうな糸だ。
だから凪斗は、今日も聞けないでいた。
聞かない優しさなのか、聞けない臆病なのか、自分でもわからない。ただ、彼の黒いビーサンは、砂の上で少し外側を向いていた。
美波が近づいてくる。白いシャツ、黄色いビーサン、肩には父の古いカメラ。手にはスマホ。昨日から少しだけ目元が静かだ。元気がないわけではない。けれど、笑う前に一瞬だけどこか遠くを見る。
その一瞬が、凪斗にはやけに刺さる。
「本番は日曜なんだよな」
「うん。今日はリハ」
「リハでビーサン飛ばしってのも、まあまあ意味わかんねぇけどな」
「でも、凪斗が一番真剣に見てる」
「見てねぇし。監視してんだよ。足元の治安を」
美波は笑った。
笑ったけれど、スマホのレンズは凪斗の顔ではなく、足元へ向いていた。黒いビーサン。砂。影。逃げるみたいに外側を向いたつま先。
彼女の撮り方は、メルみたいに一瞬を奪う感じではない。待つ。空気が自分から何かを話し始めるのを待つ。だから、撮られる側は逃げにくい。ふざけていても、うっかり本音まで映る。
凪斗はそれが少し怖かった。
でも、嫌ではなかった。
そこへ江ノ島銀次郎が現れた。
青いアロハシャツにサングラス、首にはタオル、手には拡声器。足元は相変わらず健康サンダルである。本人はサーファー気取りだが、波より町内会費のほうが似合う男だった。
銀次郎は凪斗を見るなり、にやりと笑った。
「来たな、ビーサン奉行!」
「朝からその呼び名やめろ。胃もたれする」
「今日の君は審判補佐だ。祭り本番に向けて、足元の安全と魂の飛距離を確認してもらう」
「魂はメジャーで測れねぇだろ」
「測る男がいる」
銀次郎の後ろから、白いポロシャツの男が歩いてきた。
白い帽子。首から笛。腰にはメジャー。日焼けした顔は、なぜか厳粛だった。砂浜に立っているのに、裁判所の空気を背負っている。
浜風ジャッジ吾郎。
ビーサン飛ばし公式審判。飛距離だけでなく、魂の飛距離を測る男。
吾郎は凪斗の前で一礼した。
「今日はリハーサルです。本番は六日後。安全距離、着地点、風向き、観客導線を確認します」
凪斗は腕を組んだ。
「そこまではわかる。その理由はわからんけど」
「そして、ビーサンがどんな物語を背負って飛ぶかも確認します」
「そこから急に怪しくなるんだよ」
吾郎は真顔だった。
冗談ではないらしい。湘南商店街で一番怖いのは、変なことを真顔で言う大人である。凪斗はその点、自分もだいぶ同類なのではないかと薄々気づいていたが、気づかないふりをした。
銀次郎は凪斗の首に名札をかけた。
**審判補佐 ビーサン奉行**
名札になった瞬間、あだ名は社会的身分になる。凪斗はその紙切れを見下ろし、詰んだ、と思った。
砂浜には、リハーサル参加者が集まってきた。
蛸島竜二は、たこ焼き屋台のエプロンをつけたまま、自分専用らしい派手なビーサンを手にしている。浅漬けリュウは、冷やしきゅうりの桶を抱えて立っていた。桶の中には氷水ときゅうりがぎっしり詰まっていて、近くを通るだけで青く冷たい匂いがした。
双子の海斗と空斗は、赤と青の帽子で砂浜を走り回っている。ワカメ田メルは緑メッシュの髪を揺らし、スマホ二台を構えて配信準備中だった。
画面にはコメントが流れている。
**ビーサン奉行きた**
**アロハとドレッドの兄さんエグい**
**この商店街、設定盛りすぎで草**
凪斗は見なかったことにした。
メルのスマホは、今この場をすぐ遠くへ飛ばす。
美波のスマホは、今この場を一度そっと受け止める。
同じ撮るでも、全然違う。
その違いが、凪斗にはまだ言葉にできない。ただ、美波が撮る十秒には、笑いだけではなく、残したいという体温がある気がした。




