足元を見る女と、目元を見る男
美波は、翌朝からいつも通りに見えた。
白いシャツの袖をまくり、古いカメラを肩にかけ、スマホの容量を確認しながら、湘南商店街のアーケードを歩いている。歩幅も、声の温度も、笑うタイミングも、昨日とほとんど変わらない。
でも凪斗には、少しだけわかった。
美波の目が、時々どこにも焦点を合わせていない。
昨日、閉じた映画館「湘南座」の奥で見つけた古いポスター。
**第1回 湘南商店街 十秒映画祭**。
**グランプリ作品『片方だけの夏』**。
**撮影 潮見春樹**。
その名前が、美波の中に小さな石みたいに落ちて、まだ沈みきらずに揺れている。
商店街の朝は、湿った油の匂いから始まる。中華屋の換気扇が低く唸り、八百屋の店先では濡れた新聞
紙の上にトマトが並べられている。遠くから海の匂いが来て、古いアーケードの天井にぶつかり、少し
だけ錆びた匂いになって落ちてくる。
凪斗は派手な赤いアロハシャツを着ていた。昨日の青いアロハとは違う。今日はハイビスカスが胸元で爆発している。ドレッドヘアーは後ろで軽くまとめているが、一本だけなぜか自由を求めて横に跳ねていた。
見た目だけなら、悩みゼロの夏男。
中身は、昨日からずっと「潮見春樹」という名前の周りをぐるぐる歩いている。
美波は何も言わない。
凪斗も聞けない。
聞いたら、何かが壊れる気がした。昨日の古い映画館みたいに、開けてしまったら埃と一緒に昔の痛みまで出てきそうで、凪斗は足元ばかり見ていた。
黒いビーサンの鼻緒が、親指に少し食い込む。
そこへ、アーケードの奥から、紫色のパラソルが見えた。
朝の商店街に、紫のパラソル。
普通なら違和感の塊だ。けれど湘南商店街では、違和感はだいたい常連である。
パラソルの下には、貝殻の冠をかぶった女が座っていた。大きなサングラス。濃い紫のワンピース。首からは、ミニチュアのビーサンが何足もぶら下がっている。足元には、古いサンダルやビーサンが円形に並べられ、その中心に小さな木の看板が立っていた。
**波田マダムの足元占い**
**恋の迷子、三百円**
**足あと曲がれば、本音も曲がる**
凪斗は、見た瞬間に回れ右したくなった。
だが美波は立ち止まった。
スマホを構える。
録画中の赤い点が光る。
「撮るの?」
凪斗が聞くと、美波は少しだけ笑った。
「撮るでしょ。クセ強いもん」
その言い方は軽かったが、声の奥にはまだ昨日のポスターがいた。凪斗はそれを感じながらも、何も言えなかった。
パラソルの女が、サングラスの奥から凪斗を見た。
「そこの派手な足元の若者」
声は低く、潮で磨かれた石みたいだった。
「アロハは騒がしいが、ビーサンが黙りすぎておる」
凪斗は一瞬、真顔になった。
自分でもびっくりするくらい、刺さった。
アロハは騒がしい。ビーサンは黙っている。外側は夏っぽくしているのに、本当の足元は何も言えていない。そんなふうに聞こえた。
「初対面で足元の内面に踏み込むとは…やりますね」
「踏み込んだのではない。見えたのじゃ」
「見えても言わない優しさってあると思うんだけど」
波田マダムは、ふっと笑った。
「わしは優しさで飯を食っておらん。占いで食っておる」
美波が小さく吹き出した。スマホはまだ回っている。
波田マダムは凪斗の黒いビーサンをじっと見た。視線が足元に落ちるだけで、なぜか空気が少し冷える。焼きとうもろこしの匂いも、遠くの原付の音も、一歩引いた。
「この男、逃げ足が早い」
凪斗は眉を寄せた。
「失礼すぎんじゃね?」
「だが、完全には逃げぬ。逃げるふりをして、いつも拾いに戻る。片方だけのもの、流されそうなもの、捨てられそうなもの。そういうものを放っておけん足じゃ」
美波のスマホが、凪斗の足元を映す。
黒いビーサン。砂の薄くついた足。派手なアロハの裾。その全部が、急に自分の秘密みたいに見えて、凪斗は落ち着かなくなった。
波田マダムは次に、美波の足元を見た。
黄色いビーサン。昨日、波から戻ってきたビーサンだ。鼻緒の貝殻が、小さく朝の光を受けている。
「そちらの娘は、残したいものが多すぎる」
美波の指が、スマホの端を強く握った。
「誰にも必要とされないような捨てられるものを、捨てぬ。忘れられるものを、忘れぬ。だがな、抱えすぎれば、手がふさがる。手がふさがれば、今ここにあるものに触れられん」
美波は何も言わなかった。
彼女の喉が、小さく動く。
凪斗は、昨日の映画館を思い出した。古いポスター。潮見春樹の名前。美波の沈黙。もしかしたら彼女は、父のことも、レシートや青のりみたいに透明袋へ入れたかったのかもしれない。消えないように。失くさないように。でも、父という存在は袋に入るサイズではない。だからこそ、彼女は撮るのかもしれない。
その時、背後から、妙に湿度の高い声がした。
「異議あり、でございます」
振り返ると、白いスーツの男が立っていた。
白いスーツ。青いハンカチ。銀色の靴。目は常にうるんでいる。泣いているのか、花粉症なのか、人生に負け続けているのか判別しづらい。だが本人は堂々としていた。
彼は美波にポケットティッシュを差し出した。
「どうぞ。未来で泣くあなたのための、前借りティッシュでございます」
凪斗は思わず言った。
「涙を街金ローンみたいに営業してくる人、初めて見た」
男は胸に手を当てた。
「私はミスター涙目。本名、涙橋潤三郎。恋は足元ではなく、目元に出ると信じる者でございます」
波田マダムが鼻で笑った。
「出たな、涙目野郎!」
「マダム。今年こそ決着をつけましょう。恋の真実は、足元か、目元か」
「足元じゃ。逃げる者は足あとが曲がる」
「目元でございます。まばたきが増えた者は、心が土砂降りでございます」
「涙袋に頼るとは片腹痛い」
「足跡に頼るよりは深いのでございます」
どっちもどっちだった。
マダムは威嚇するような目で、ミスター涙目は、潤むまなざしで互いの視線が弾けた
商店街の空気が、一瞬でイベントの匂いになった。どこからともなく人が集まり始める。八百屋の店主、金物屋のおじさん、駄菓子屋の小学生。湘南商店街の人間は、揉めごとを見つけるとすぐ観客になる。炎上ではなく、町内型バズである。だれも、冷やかしほど楽しいものはないという顔をしている。
電柱のスピーカーから、急にDJ波のり坊主の声が流れた。
「さあ始まりました、恋の足元VS目元、占い頂上決戦! 南無サマー、南無青春!」
凪斗はスピーカーの方を見た。
「なんで実況の準備ができてるんだよ」
誰も答えない。湘南商店街では、答えより先にマイクが入る。
波田マダムとミスター涙目は、当然のように凪斗を中央へ立たせた。
美波のスマホがその様子を撮る。録画画面の中で、アロハとドレッドの凪斗は、紫の占い師と白スーツの涙目男に挟まれている。見た目だけなら、謎のミュージックビデオだった。
波田マダムは、凪斗の足元を指さした。
「この足は、肝心な言葉の手前で右足を半歩引く」
ミスター涙目は、凪斗の目をのぞき込んだ。
「この目は、乾いております。しかし心は大雨。泣くのが怖いのではございません。誰かを泣かせるのが怖いのでございます」
凪斗は何も言えなかった。
周囲は笑っている。ミスター涙目の言い方は大げさで、波田マダムの占いは怪しすぎる。普通ならツッコミ満載。いつもの凪斗なら、ビーサンの司法権とか、涙袋の統計的根拠とか、そういう逃げ道を探せそだった。
でも今は、足が動かなかった。
誰かを泣かせるのが怖い。
それは恋の話だけではない気がした。
自分の言葉で、美波の昨日の沈黙に触れてしまうこと。潮見春樹という名前を聞いてしまうこと。聞いたことで、美波が保っている薄い平気さを破ってしまうこと。
だから凪斗は黙っている。
優しさのふりをした臆病が、黒いビーサンの底に張りついている。
美波はスマホを少し下げた。
彼女の目元も、ミスター涙目が言うならきっと何かを語っているのだろう。昨日からずっと、考え込むような目をしている。でも凪斗には、その目の奥の勘定を正面から読む勇気がない。
波田マダムは、美波へ向き直った。
「娘よ。おぬしは撮ることで、何かを取り戻そうとしておる」
美波の肩がかすかに揺れた。
「戻らぬものもある。だが、届くものはある」
ミスター涙目が青いハンカチで目元を押さえた。
「涙は過去へ流れるのではありません。誰かへ向かって流れるのでございます」
風が吹いた。
アーケードの端から海の匂いが入り、紫のパラソルの布を揺らした。貝殻の飾りが、かちゃりと小さく鳴る。その音は、古い映画館で聞いたシャッターの音に少し似ていた。
美波はようやく口を開いた。
「届く、かな」
誰に、とは言わなかった。
でも凪斗には、昨日のポスターの名前がそこに浮かんでいる気がした。
波田マダムは、テーブルに並べた小さな貝殻の中から、一つを選んだ。白くて、端が少し欠けている。完璧ではない。でも、指で触ると滑らかだった。
「欠けたものほど、本当は満たされている」
そう言って、美波に渡した。
ミスター涙目は、凪斗に青いカバーのポケットティッシュを差し出した。
「あなたにはこれを。未来で誰かが泣いた時、逃げずに差し出しなさい」
凪斗は受け取った。
紙のパッケージは妙に冷たかった。安っぽいビニールの感触なのに、ポケットに入れると変な重さがある……気がした
周囲の客は「当たってるっぽい」「何か知らんけどエモい」とざわつき始めた。若者風に言えば、だいぶ刺さっていた。何が起きたのか全員よくわからないまま、でもちょっと泣ける空気になっている。商店街の占いとしては、かなり成功している。
その時、浅漬けリュウが冷やしきゅうりを掲げて一句詠んだ。
「目と足と、恋の浅漬け、まだしみず」
誰も意味を正確には理解しなかったが、なんとなく拍手が起きた。
凪斗は、やっと少しだけ息を吐いた。
美波は貝殻を手のひらに乗せ、スマホの録画を止めた。
「撮れた?」
凪斗が聞くと、美波はうなずいた。
「撮れた。けど……なんか、使うかはわかんない。というか使えんのかな。これ?」
その言葉に、凪斗は少しほっとした。
全部をすぐ素材にするわけではない。美波は、撮ったものを一度ちゃんと心に置く。だから彼女の映像は、ただの記録ではなく、誰かの呼吸みたいになるのだと思った。
占い対決は、いつの間にか終了していた。
波田マダムとミスター涙目は、客が散った後もまだ言い合っている。だが、その声はさっきより少し低く、どこか昔話をする人の響きに変わっていた。
凪斗と美波が立ち去ろうとした時、美波のスマホが小さく震えた。
録画データの保存通知。
画面には、サムネイルが表示されていた。波田マダムとミスター涙目が並んで映っている。紫と白。足元と目元。変な二人。
だが、その背後に写り込んでいるものを見て、美波の足が止まった。
占いブースの後ろ。テーブルの上に、古い案内チラシが透明のクリップボードに挟まっていた。
美波は画面を拡大して、その紙の文字を確認した。
色あせた、古い映画祭のチラシだった。
**第1回 湘南商店街 十秒映画祭**
**上映作品『片方だけの夏』**
**撮影 潮見春樹**
**出演 波田ミチル/涙橋潤三郎**
凪斗は息を止めた。
波田マダムの本名。
ミスター涙目の本名。
その二人の名前が、そこにあった。
紫のパラソルの下でふざけていた足元占い師と、白スーツで涙を街金ローンみたいに前借りしていた目元占い師。二人はただの変な大人ではなかった。
美波の父が撮った映画に、出ていた人たちだった。
その様子を見て、波田マダムは、サングラスを少しだけ下げた。
「見つけたか」
その声には、さっきまでの芝居がかった響きがなかった。
ミスター涙目は、青いハンカチを目元に当てた。
「泣いておりません。これは……昔のフィルムが、目にしみているだけでございます」
美波はチラシを握ったまま、動けなかった。
商店街の音が遠くなる。中華屋の油の匂いも、八百屋の青い匂いも、海風の塩気も、全部が一枚の古い紙の向こう側へ沈んでいく。
凪斗は、美波の横に立った。
何を言えばいいかわからない。聞いていいのかもわからない。けれど、今度は足元だけは逃げなかった。
黒いビーサンを、黄色いビーサンの隣に置いたまま、凪斗はただそこにいた。
波田マダムが静かに言った。
「あの人はな、映像で夏を残そうとしておった」
あの人。
潮見春樹のことだと、誰も説明しなくてもわかった。
美波の手の中で、古いチラシを映したスマホがかすかに震える。
紫のパラソルが風に揺れた。
その影が、美波の足元と凪斗の足元を、ほんの少しだけ同じ色に染めた。




