湘南商店街は、名前だけやたら爽やか
湘南商店街は、名前だけならかなり映える。
白いテラス席のカフェ。サーフボードを抱えたイケてる若者。商店街は人で賑わいキラキラしており、犬まで英語で「ワン」って言いそうな空気。そういう、雑誌の表紙みたいな光景を勝手に想像してしまう。
けれど実際の湘南商店街は、そこまで世間に媚びていなかった。
アーケードの入口には、青いペンキが半分はげた看板がある。そこに白い文字で「湘南商店街」と書かれているが、「湘」のさんずいの一部が剥がれていて、遠目には「羊南商店街」にも見える。もし本当に羊南だったら、それはそれでだいぶ攻めた町おこしだ。
商店街の中へ入ると、空気の匂いが変わった。
海の塩気に、古い油の匂い、焼きとうもろこしの焦げ、薬局の湿布、八百屋の土っぽい青臭さ、どこかの店先で干している雑巾のリアルな生活臭が混ざっている。爽やかというより、夏が人間の暮らしに揉まれて、ちょっとくたびれた匂いだった。
凪斗はその空気を吸い込み、足元を見た。
黒いビーサンの底に、さっきの砂浜の砂がまだ少し残っている。派手なアロハシャツは乾ききらず、胸のフラミンゴがしんなりしていた。ドレッドヘアーの先には、青のりが一粒だけしぶとく残っている。本人は気づいていない。
美波は隣でスマホを構えていた。
古いカメラは肩から下げている。けれど今日は、さっきからスマホの録画が多い。気軽に撮れるぶん、目に留まったものをすぐ追える。美波はそう言っていた。けれど凪斗には、それだけではない気がした。スマホの画面越しに見る彼女の目は、何かを捕まえようとしているというより、逃げていくものに「待って」と声をかけているみたいだった。
商店街は静かに古かった。
開いているのか閉めているのかわからない金物屋。店主がレジ横で新聞を読んでいるが、新聞の向きが逆だった。たぶん寝ている。中華屋の窓には、一年中貼られている「冷やし中華はじめました」の紙。もはや始めたというより、永住している。駄菓子屋の前には、十円ガムの当たりくじを握りしめた小学生が、国家予算でも動かす顔で悩んでいた。
そして商店街の奥に、元映画館があった。
名前は「湘南座」。
シャッターは下りている。鉄の表面は潮風で錆び、昔の上映ポスターが入っていたガラスケースは曇っていた。ケースの隅には、砂ぼこりと小さな蜘蛛の巣。赤いじゅうたんがあったらしき入口は、今はただの薄暗い段差になっている。
美波はそこで足を止めた。
スマホを構えたまま、何も言わずにシャッターを撮る。
風がアーケードの奥から吹いて、シャッターの隙間を細く鳴らした。ぎい、と金属が少しだけ震える。まるで、閉じたままの場所が寝言を言ったみたいだった。
「ここ、撮るの?」
凪斗が聞くと、美波はうなずいた。
「こういうの、残したい」
その声は軽くなかった。
凪斗はシャッターを見た。派手でもない。映えるわけでもない。むしろ、スマホの画面に入れると地味だ。けれど美波は、海よりも、青空よりも、さっきの青のり事件よりも、今はこの閉じたシャッターを真剣に撮っている。
「なくなる前ってさ、意外と普通の顔してるじゃん」
美波が小さく言った。
凪斗は返事をしなかった。
たしかに、なくなるものは「今からなくなります」なんて看板を出さない。昨日まで普通に開いていた店が、ある日シャッターを下ろして、そのまま季節だけが過ぎる。匂いも、音も、人の声も、ある日を境にぱたりと消える。消える瞬間には、だいたい誰も気づけない。そもそも人気がないからなくなる。
美波は、その気づけなさに抗っているのかもしれない。
レシートをしまうみたいに。青のりを紙ナプキンに包むみたいに。片方だけの夏を、十秒だけでも残そうとしている。
「シャッターにも、領収書が必要なんだな」
凪斗は言った。
美波が少し驚いた顔をする。
凪斗自身も驚いた。今のは、ふと、たぶん胸の奥から出た言葉だった。自分の中で、めったに使われない通路を言葉が通った感じがした。
美波は、ふっと笑った。
「うん。たぶん、そう」
その笑顔を、凪斗は見なかったふりをした。
見たことにしたら、何かを言いそうになってしまう。言いそうになる何かの正体を、凪斗はまだ知らないことにしておきたかった。だから彼は足元のビーサンを少し動かし、砂のついた鼻緒を親指でこすった。
その時、商店街の奥から拡声器の音が割れた。
「湘南商店街のみなさーん! 迷い込んだ観光客のみなさーん! 人生の波、乗れてますかー!」
声が大きすぎた。
八百屋のトマトが少し震えた。金物屋のおじさんが新聞から顔を上げた。猫が一匹、めんどくさそうに路地へ逃げた。
現れたのは、アロハシャツの中年男性だった。
凪斗のアロハとは違う。凪斗のアロハが「海辺でたまたま目立ってしまった若者」なら、その男のアロハは「自分から夏を名乗っている大人」だった。首にはタオル。目には濃すぎるサングラス。足元は健康サンダル。全身から「サーフィンできます」と言いたげな空気を出しているが、どう見ても一度も波に乗ったことがないのがわかる。
美波が小さく言った。
「江ノ島銀次郎さん」
「名前からして濃いな」
「湘南商店街の会長」
「湘南商店街を背負いすぎてる」
「ちなみにサーフィンはできない」
「やっぱり、できないんだ。知ってたけど。」
江ノ島銀次郎は、拡声器を片手に二人へ近づいてきた。
近くで見ると、肌はよく焼けているが、それはサーフィンではなく商店街の外回り焼けだった。首のタオルには「第32回湘南商店街夏まつり」と書いてある。六年前のものをまだ使っているあたり、物持ちがいいのか、今年の予算がないのか、判断が難しい。
銀次郎は凪斗を見るなり、サングラスの奥で目を光らせた。
「おお、君が噂のビーサン奉行か!」
凪斗は一歩引いた。
「噂の速度が怖いっす」
「蛸島の坊主から聞いた。波にさらわれたビーサンを救い、青のり災害にも立ち向かったとか」
「後半は巻き込まれただけっす」
「立派だ。足元と調味料を守る若者は、商店街の宝だ」
「まとめ方が雑すぎる」
美波のスマホが静かに録画を続けていた。
銀次郎は凪斗のアロハとドレッドを見て、妙に満足そうにうなずいた。
「見た目は完全に夏。中身は奉行。最高じゃないか」
「俺の人格を勝手に観光資源にせんとってください」
銀次郎は笑った。
笑い声がでかい。声だけで提灯が揺れそうだった。
彼は商店街中央の掲示板へ二人を連れていった。そこには、昨日までよりさらに増えたポスターが貼られている。ガムテープの量が多すぎて、掲示板というより、祭りの意思を物理で固定している感じだった。
中央には大きく、こう書かれている。
**第38回 湘南商店街夏まつり**
**夏の日の青春賛歌スペシャル**
**青春10秒動画コンテスト開催**
その下に、キャッチコピー。
**十秒間の夏を残せ。**
美波はその文字を見つめた。
十秒。
たった十秒。
けれど十秒あれば、人は笑って、転んで、誰かに手を伸ばして、少しだけ変われる。ビーサンだって海から戻ってくる。青のりだって空を飛ぶ。閉じたシャッターだって、誰かの記憶の中でもう一度開くかもしれない。
「十秒ってさ」
美波は言った。
「短いけど、ちゃんと物語になると思う。最初に何かがあって、ちょっと変なことが起きて、最後に空気が変わる。それだけで、夏って気がする」
凪斗はポスターを見たまま言った。
「俺のビーサン思想、十秒で収まるかな」
「無理」
美波は即答した。
「三秒に圧縮する」
「思想をショート動画用に圧縮せんとって」
「でも、凪斗の場合、見た目で二秒使うから」
「アロハとドレッドの尺か」
「そこ強いもん」
凪斗は少しだけ黙った。
強い。自分の見た目がそんなふうに言われるのは、変な感じだった。アロハもドレッドも、自分を明るく見せるための鎧みたいなものだった。中身がぐちゃぐちゃでも、外側だけは夏っぽくしておけば、誰にも深く聞かれない気がした。
でも美波は、外側の派手さだけを見ていない。
そこが少し怖い。
そして、たぶん少し嬉しい。
銀次郎は拡声器を腰に当て、祭りの説明を始めた。話が長い。波にたとえすぎる。商店街の未来も、客足も、若者のパワーも、全部ビッグウェーブになる。話の途中で何度か「テイクオフ」と言ったが、誰も意味を確認しなかった。
掲示板には、イベント名が並んでいる。
ビーサン飛ばし選手権。
青のり爆風たこ焼きグランプリ。
恋の足元VS目元占い頂上決戦。
落とし物思い出相談所。
夕暮れ影絵フォトコンテスト。
冷やしきゅうり俳句チャレンジ。
途中から祭りというより、商店街の変人たちの履歴書になっていた。
凪斗は「恋の足元VS目元占い頂上決戦」の文字で少し止まった。
足元はまだわかる。いや、世間的にはわからないのかもしれないが、凪斗にはわかる。だが目元とは何だ。涙袋を測るのか。まばたきの回数で恋を判断するのか。湘南商店街の大人たちは、なぜこんなにも恋を競技化したがるのか。
美波は黙ってそのポスターを撮っていた。
撮る手が少し震えているのに、凪斗は気づいた。
わくわくしているのか。緊張しているのか。それとも、何かを背負ったのか。
銀次郎が美波へ向き直った。
「美波ちゃん」
声が少しだけ小さくなった。
「今年の祭り、撮ってくれないか。ただの宣伝じゃなくて、この商店街がまだここにあるってことを」
それは、さっきまでの波だのビッグウェーブだのとは違う声だった。
夏の皮を一枚剥がした下にある、大人の本音の声だった。
銀次郎は掲示板の横にあるシャッター街の方を見た。閉じた店。薄くなった看板。誰かが貼ったまま剥がさなかったセール告知。そこには、元気なポスターだけでは隠せない寂しさがあった。
「若い人が減ってる。店も減ってる。名前だけは湘南で爽やかだけどな、中身はけっこうギリギリだ」
凪斗は思わず銀次郎を見た。
美波も、スマホを少し下げた。
「だから、十秒でいい。いや、十秒だからいいのかもしれん。この町の変なところも、みっともないところも、まだ笑ってるところも、撮ってくれ」
美波は何も言わなかった。
その代わり、スマホを持つ手に力が入った。
凪斗は、その横顔を見た。彼女はまた、遠くを見る目をしている。今を見ているのに、未来から振り返っているような目。
銀次郎は急にいつもの調子に戻った。
「というわけで、ビーサン奉行! 君にも協力してもらう!」
「急にこっちへ波が来た」
「美波ちゃんの撮影補助、そしてビーサン飛ばし選手権の足元安全確認係だ」
「肩書きが増えるの早すぎるっすよ?」
「アロハとドレッドは目立つ。目立つ人間は祭りで働く運命にある」
「そんな宿命、聞いたことないっす」
その時、掲示板の下から二人の小学生が飛び出してきた。
赤い帽子の海斗と、青い帽子の空斗。双子だ。なぜそこに隠れていたのかはわからない。商店街の子どもは、だいたい変な場所から出てくる。
「ボス!」
「ビーサン奉行って本当ですか!」
凪斗は顔をしかめた。
「いやいや、嘘よ嘘、誰から聞いた?」
「弟子にしてください!」
「奉行に指定制度はないぞ」
「じゃあ家臣!」
「余計にない」
美波はその様子を撮りながら、声を出さずに笑っていた。笑うとカメラが揺れるから、口元だけで笑っている。その遠慮が、凪斗には妙に優しく見えた。
商店街の奥から、冷やしきゅうり屋の浅漬けリュウが現れた。
麦わら帽子に白い前掛け。手には冷やしきゅうり。表情は俳句そのものだった。
「青春や、十秒あれば、塩しみる」
凪斗は少し考えた。
「今のは宣伝っすか?」
リュウはうなずいた。
「人生も、浅漬け」
意味はわからない。
でも不思議と、否定する気にはなれなかった。湘南商店街では、意味より先に味が来る。理屈より先に風が吹く。そういう場所なのだ。
美波はリュウも、双子も、銀次郎も、錆びた看板も、閉じた映画館も撮った。
十秒ずつ。
全部を残せるわけではない。全部を救えるわけでもない。けれど、レンズを向けるたびに、そこにあるものは「なかったこと」にはならなくなる。
凪斗は思った。
美波が撮るという行為は、誰かの存在確認みたいだ。
あなたはここにいた。
この店はここにあった。
この夏は、ちゃんとあった。
そんな判子を、彼女は静かに押している。
そして自分も、その中に入っている。
そう思うと、凪斗の足元が少しだけ落ち着かなくなった。嬉しいのか、怖いのか、まだわからない。ビーサンの鼻緒が親指の間で少し擦れた。
美波が言った。
「凪斗、手伝ってくれる?」
声は軽かった。でも、その軽さの裏に少しだけ本気があった。
「私一人だと、撮れない十秒があると思うから」
凪斗はすぐには答えられなかった。
撮れない十秒。
それは、彼女自身が画面の外にいるからかもしれない。誰かを撮る人は、自分が映らない。美波はいつも、夏を残す側にいて、夏の中にいる自分を少しだけ後回しにしている。
凪斗は、そこまで考えてから、考えすぎたことに気づいた。
いつものように足元へ逃げようとした。でも、商店街の床には、砂が薄くたまっていて、そこに二人の足あとが並んでいた。凪斗の足あとだけ、少し外側に向かっている。
それを見て、彼はため息をついた。
「手伝う」
美波がこちらを見る。
「ただし、俺のビーサン思想は編集で薄めて」
「そこは濃いめでいく」
「話が違う」
「だって濃いほうが凪斗っぽい」
その言葉は、なぜか嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥に小さく残った。
凪斗っぽい。
自分では面倒くさいと思っている部分を、彼女はそう呼んだ。欠点ではなく、味みたいに。
銀次郎が拡声器を掲げた。
「よし、決まりだ! 今年の湘南商店街夏まつり、若者とビーサンと十秒動画で波を起こすぞ!」
その瞬間だった。
背後の元映画館「湘南座」のシャッターが、がらがら、と音を立てた。
全員が振り向く。
閉じていたはずのシャッターが、少しずつ上がっていく。錆びた金属の音がアーケードに響く。埃の匂いがふわっと流れ出し、暗い入口の奥から、古い紙と木材とフィルムのような匂いがした。
銀次郎が慌てて走った。
「おっと、そうだった。プロジェクターを出すんだった」
「閉館してるんじゃないんですか?」
凪斗が聞くと、銀次郎は鍵束を振った。
「表向きはな。中は祭りの倉庫だ」
シャッターが完全に上がると、中の暗がりが見えた。
古い映画館のロビーだった。壁には色あせたポスターが何枚も貼られている。木製のチケットカウンターは埃をかぶり、床には昔の赤いカーペットが残っている。湿った空気の中に、何年も閉じ込められていた古い昔の夏の匂いがした。
美波は、吸い寄せられるように一歩入った。
スマホの録画は、まだ続いていた。
ロビーの壁に、古い手書きのポスターがあった。
今の祭りのものではない。紙は黄ばみ、端が破れ、文字は少しにじんでいる。
**第1回 湘南商店街 十秒映画祭**
**グランプリ作品**
**『片方だけの夏』**
**撮影 潮見春樹**
美波の足が止まった。
凪斗はその名前を見た。
潮見。
美波と同じ名字。
美波の指が、スマホを握ったまま少し震えた。画面の赤い録画マークだけが、小さく光り続けている。彼女の横顔から、さっきまでの笑顔がすっと消えた。
銀次郎も、そのポスターに気づいて、言葉を止めた。
商店街のざわめきが遠くなる。
古い映画館の中で、埃だけが光の筋に浮いていた。
凪斗は何も聞けなかった。
美波も何も言わなかった。
ただ、十秒どころではない長い沈黙が、二人の間に落ちた。
この商店街は、初めて美波が撮る場所ではなかった。
この町には、もうずっと前に、誰かが残そうとした夏があった。
そしてそのタイトルは、偶然にも、美波が凪斗の動画につけようとした言葉と、ほとんど同じだった。
片方だけの夏。
閉じた映画館の奥で、過去がひっそりとシャッターを開けた。
美波のスマホは、その瞬間まで録画していた。




