青春の領収書と逃亡した青のり
# 第2章 青春の領収書と逃亡した青のり
海の家「タコ焼きサンライズ」は、名前からしてだいぶ前のめりだった。まぁ、提供する食べ物はたこ焼きだけではなく、そんじょそこいらの海の家と対して変わらない。たこ焼きにちょっとだけ思い入れがあるだけだ。
なんでも、大阪に観光で行った際に、道頓堀で食べたたこ焼きの味が忘れられないらしい。
竜二、曰く、たこ焼きの電流が毛細結果を通して体中に駆け巡ったらしい。
サンライズ。つまり日の出。なのに営業開始はだいたい十時半。しかも店主代理の蛸島竜二は、毎朝「太陽より俺の鉄板のほうが熱い」と言い張る。実際には寝坊で鉄板の火入れが遅れ、海開きになると、開店前から店の前に焼きそば待ちの行列を作っていることもある。
それでも、この海の家には妙な引力があった。
赤いのれんは潮風で色あせ、木のカウンターにはソースの染みがいくつも残っている。天井の扇風機は、仕事をしているふりだけはうまい。油の匂い、焼けた小麦粉の匂い、青のりの青臭い香り、海から流れてくる塩の湿り気。それらが混ざると、夏は急に食べ物枠で彩をそえる。
凪斗と美波が店先に着いた時、竜二は鉄板の前でたこ焼きをひっくり返していた。
たこ焼き用のピックが鉄板を叩く音が、チン、チン、と乾いたリズムを作る。ピックは何でも髙儀のピックでないとダメらしい。
油が跳ねる。丸くなりかけた生地の中で、タコが熱に耐えながら沈黙している。
「来たな、ビーサン奉行」
「その呼び名、まだ正式採用ねーよ」
「海の家で一回呼ばれたら、もう夏の戸籍に載るんだよ」
「夏に戸籍制度を導入すんな」
凪斗は濡れたアロハシャツの裾をつまみながら、カウンターの端に座った。ドレッドヘアーの先からまだ少し水が落ちている。見た目だけなら、波から帰還したレゲエの英雄みたいだった。だが本人は、さっき助けた黄色いビーサンのことでまだ真剣に疲れている。
美波はその隣に座った。古いカメラは肩から下げたまま。スマホはポケットにしまわれていたが、さっきの動画を何度か確認した気配がある。画面を見ている時の美波は、いつも少し静かになる。目の奥だけが遠くへ行く。今ここにある夏を、未来のどこかへ手渡す準備をしているみたいに。
海の家の壁には、湘南商店街夏まつりのポスターが貼られていた。
**第38回 湘南商店街夏まつり**
**青春10秒動画コンテスト開催!**
**十秒あれば、夏は残る。**
その下には、手書きで追加されたイベント名が雑に並んでいる。
ビーサン飛ばし選手権。
青のり爆風たこ焼きグランプリ。
恋の足元VS目元占い頂上決戦。
落とし物思い出相談所。
夕暮れ影絵フォトコンテスト。
情報量が多すぎて、ポスターが軽く熱中症を起こしているように見えた。
美波はそのポスターを見上げたまま、少しだけ目を細めた。
「十秒って、短いけど長いよね」
凪斗は首をかしげた。
「短いだろ。俺のビーサン、足元整えるだけで十秒超える」
「そこは一秒に圧縮する」
「思想のファスト化、よくないぜ」
美波は笑った。けれどその笑いはすぐに、ポスターの文字へ吸い込まれていった。
十秒あれば、夏は残る。
その言葉は、軽いキャッチコピーみたいで、どこか祈りに近かった。残る、という言葉には、残らないものがあることを知っている人の匂いがする。消える前提の世界で、それでも何かを掴もうとする指先の感じがある。
美波はバッグから、小さな透明袋を取り出した。
ジッパー付きの、どこにでもある袋だ。けれど中身は、どこにでもあるようで、どこにも同じものがない。さっき買ったオレンジジュースのレシート。砂浜で拾った小さな貝殻。湘南商店街夏まつりのポスターの端を切った紙片。なぜか、かき氷屋のストロー袋まで入っていた。
袋の中で、それらは静かに光っていた。宝石ではない。高価でもない。むしろ、普通なら捨てられるものばかりだ。けれど美波の手にあると、それらは夏の欠片みたいに見えた。
「それ、何じゃ?」
凪斗が聞くと、美波は一瞬だけ迷った顔をした。
「青春の領収書」
その言い方は、少し照れくさそうだった。
凪斗は袋を見つめる。透明なビニール越しに、レシートのインクが少しだけにじんでいる。紙の端が潮風で丸まり、貝殻が小さく音を立てた。
領収書。
支払った証拠。そこにいた証拠。何かを受け取った証拠。
美波にとって、今日という日は、あとで確認しないと消えてしまうものなのかもしれない。楽しかった、笑った、海にいた、誰かが変なことを言った。その全部が、時間の波にさらわれないように、彼女は小さな袋へしまっている。
「変かな」
美波は小さく言った。
凪斗はすぐには答えなかった。鉄板の音がする。ソースの焦げる匂いが少し濃くなる。遠くで子どもが笑い、犬が吠え、波がいつも通り世界の端を洗っている。
「変だけど。ゴミにしか見えん」
凪斗は言った。
美波がこちらを見る。
「ひど。でも、変かもだけど、いい変だと思う。捨てられるものを、捨てないってことだろ」
凪斗は何も言わなかった。
その沈黙が、変にエモかった。言葉で説明すると軽くなる種類の沈黙だった。夏の空気はうるさいのに、その一瞬だけ、海の家の中が少し静かになった気がした。
竜二がたこ焼きにソースをかけた。甘辛い匂いがふわっと広がり、カツオがそのうえで踊っている。たこ焼きソースの甘い香りが、沈黙を雑に現実へ戻した。
「青春の領収書か。まぁいいじゃねえの」
竜二は紙皿を三つ並べた。
「青春ってのはな、だいたい支払いだけ先で、お釣りは何年もあとに来る」
「急に深いこと言いうねー」
「たこ焼き屋は、鉄板の前で悟るんだよ」
凪斗は信じていいのかわからない顔をした。
その時、事件は起きた。
竜二が青のりの袋を持ち上げた瞬間、海風が店の正面から吹き込んだ。のれんが大きくはためく。ポスターの端がばたばた鳴る。透明袋の中のレシートがバタつく。
そして、青のりの袋の口が、なぜか全開だった。
緑色の細かい粉が、ふわっと空へ舞った。
最初はきれいだった。
昼の光に照らされ、青のりは小さな惑星のかけらみたいに漂った。揚げ玉の匂いと海風の中で、緑の粒がゆっくり回る。スローモーションなら、たぶん泣ける映像になる。
「あぁ、青い粉雪が、夏の熱風にキラキラしてて綺麗~」
ただし、現実ではたこ焼き屋の軽い災害だった。
「青のりが空に逃げた!」
竜二の声が店中に響いた。
凪斗は反射的に立ち上がった。美波はスマホを取り出す。今度は隠すようにではなく、はっきりと構えた。画面の赤い録画マークが光る。
青のりは風に乗り、砂浜へ逃げた。
小学生が「妖精だ」と叫んだ。犬が鼻に青のりをつけてくしゃみをした。焼きそば待ちのおじさんの白い帽子に緑の粉が積もった。竜二はなぜか虫取り網を持って飛び出した。海の家に虫取り網が常備されている理由は、誰にもわからない。
凪斗も外へ出た。
「いや、それ無理だろ?」
砂が熱い。さっき濡れた足裏が、今度はじりじり焼かれる。アロハシャツに青のりが点々とつく。ドレッドヘアーの隙間にも、緑の粉が入り込んだ。見た目だけなら、南国の精霊に味付けされた男だった。
「旅をする青のりに帰る場所はあるのか」
凪斗は風の中でつぶやいた。
「ないと思う」
美波がスマホを構えたまま答えた。
「でも追ってるじゃん」
「逃げてるものを見ると、放っておけないんよ」
言ってから、凪斗は少しだけ黙った。
その言葉は青のりに向けたものだったのに、なぜか自分の胸にも当たった。逃げているもの。波にさらわれるビーサン。捨てられそうなレシート。言えずに喉の奥で固まる言葉。そういうものを、彼はなぜか見過ごせない。
けれど自分自身が逃げている時だけは、見ないふりがうまい。
美波はその横顔を撮っていた。
彼女のスマホ越しの凪斗は、笑えるくらい変だった。アロハにドレッド、頬に青のり、真剣な顔。だけど不思議と、ただのギャグでは終わらない。意味わかんないことに本気で手を伸ばしている姿は、どこかまぶしい。
美波は録画を止めなかった。
竜二が網を振り回し、青のりの粒を一網打尽にしようとして空振りした。犬がそれを遊びだと勘違いして追いかける。小学生が笑う。海の家ののれんがまた揺れる。
その時、凪斗の頬に青のりが一粒ついた。
美波が近づいた。
スマホを片手に持ったまま、空いた指でそっとそれを取る。動作は小さかった。ほんの一瞬、波音よりも静かな接触。
凪斗は動かなかった。
触れられた場所だけ、夏の温度が変わったようだった。けれど彼は何も言わない。ただ、目線を少しだけ泳がせ、足元の砂を見た。
美波は取った青のりを見つめた。普通なら、指先から払って終わりだ。けれど彼女は海の家へ戻ると、紙ナプキンの端を小さく破り、その青のりを包んだ。
そして、透明袋の中へ入れた。
レシート、貝殻、ポスターの切れ端、ストロー袋。
そこに、青のりが加わった。
凪斗は思わず聞いた。
「それも領収書?」
美波はうなずいた。
「今日のぶん」
たったそれだけの言葉だった。
でも凪斗には、なぜかその一言が長く残った。
今日のぶん。
今日、ここにいたこと。誰かがビーサンを拾ったこと。青のりが逃げたこと。犬がくしゃみをしたこと。頬に触れた指先が、ほんの少しだけ冷たかったこと。
美波は、それを雑に笑って終わらせない。
世界が「そんなの別にどうでもいいじゃん」と言うような一瞬を、彼女だけは拾い上げる。しかも、めっちゃ大事そうに。
それは、少しずるい。
人は、自分のどうでもよさそうな部分を誰かに大事にされると、急に自分の輪郭がわからなくなる。
騒ぎが落ち着いた頃、竜二が三皿のたこ焼きを出した。青のりは少なめだった。さっき大量に逃亡したからだ。
たこ焼きの表面でソースが光っている。かつお節が熱でゆらゆら踊り、マヨネーズの白い線が、夏の道路標示みたいに皿の上を横切っている。割り箸を入れると、中から熱い湯気が出た。
竜二は急に、眉間に皺を寄せ、人生の一大事を語るように真面目な顔になった。
「本音はな、冷ますと固くなる」
凪斗は箸を止めた。
美波も、たこ焼きを見たまま少し黙った。
竜二は続けない。言うだけ言って、次のたこ焼きをひっくり返し始める。人生の核心を、ソースの横に平気で置いていく男だった。
凪斗は湯気を見る。
心のなかで、
「次のセリフはないんかい!」
と突っ込んでいた。
でも確かに、たこ焼きの外側は少し固まり、中はまだ熱く柔らかい。口に入れるタイミングを間違えれば火傷する。でも待ちすぎれば、さっきまでのとろっとした感じは失われる。
本音や心の中に住む感情の何かも、そういうものなのかもしれない。
凪斗は何かを思いかけた。
しかし、その何かにはまだ名前がない。名前をつけた瞬間、今の距離が変わってしまいそうで、怖い。だから彼は、たこ焼きを少し冷ますふりをして、黙っていた。
美波はスマホの画面を確認していた。
青のりが逃げるところ。竜二が虫取り網を振るところ。犬のくしゃみ。凪斗が頬に青のりをつけたまま、妙に真剣な顔で青のりを追っかけるところ。
十秒ずつ切り出せそうな場面が、いくつもあった。
その時、海の家の奥にある小さなモニターが急に光った。
店内BGM用に置かれた古いテレビだ。普段は天気予報か野球中継しか映らない。だが今、画面には見覚えのある映像が映っていた。
片方だけのビーサンの前でしゃがみ込む凪斗。
黄色いビーサンを追って海へ走る凪斗。
指先が触れて、少しだけ固まる凪斗。
ブレた写真を見つめる美波。
さっき撮られた、あの動画だった。
凪斗の思考が止まった。
美波も目を見開いた。
どうやら、美波のスマホが店のWi-Fiモニターに勝手に接続されていたらしい。さっき動画を確認していた時、海の家の古い機械が、謎のやる気を出して画面共有を始めてしまったのだ。
店内にいた小学生も、焼きそば待ちのおじさんも、竜二も、みんなモニターを見た。
凪斗はゆっくりと顔を覆った。
「終わった……な」
だが、誰も笑わなかった。
いや、少しは笑った。ビーサンに向かって真顔で語るアロハのドレッド男子は、普通に面白い。そこは避けられない。けれど、その笑いは雑な嘲笑ではなかった。海の家にいた人たちは、画面の中の凪斗を見て、どこか優しい顔をしていた。
小学生の一人が言った。
「この人、ビーサン助けててかっこいい」
焼きそば待ちのおじさんが、青のりのついた帽子を押さえながらうなずいた。
「変だけど、面白い映像だ。いいな」
竜二が鉄板の前で笑った。
「それだな。変だけど、いい。それが青春だ」
美波は慌ててスマホを操作し、接続を切った。
「ごめん、凪斗。本当にごめん。勝手に流すつもりじゃなかった」
美波の声は、ちゃんと焦っていた。茶化す感じはまったくなかった。
凪斗はしばらく黙っていた。
自分の変なところが、知らない人たちに見られた。普通なら最悪だ。黒歴史の公開上映会。メンタル爆死案件。今すぐ砂浜に穴を掘って、アロハごと埋まりたい。墓標には海のビーサンマンここに眠る。
でも、不思議と胸の奥は、思ったほど痛くなかった。
むしろ、変な感じがした。
自分では恥ずかしくて隠したい十秒を、誰かが笑いながらも、ちゃんと受け取ってくれた。美波が拾った十秒が、モニターを通して、ほんの少しだけ他の人にも届いた。
それは、晒されたというより、拾われた、に近かった。
凪斗は透明袋の中の青のりを見た。
レシートや貝殻と同じ場所に、どうでもいいはずの緑の粉が大事そうに入っている。捨てられるものが、捨てられなかった証拠。
もしかしたら、自分の変なところも、同じなのかもしれない。
誰かに笑われるだけのものではなく、誰かに拾われるものになることもある。
凪斗は小さく息を吐いた。
「タイトル」
美波が顔を上げる。
「え?」
「あの動画のタイトル。前に言ってたやつでいい」
美波は少しだけ驚いた顔をした。
「片方だけの夏を拾う人?」
凪斗は視線をそらした。
「……それなら、まだ人間として耐えられる」
美波は、ほんの少し泣きそうな顔で笑った。
店の外では、青のりがまだ一粒、風に乗って飛んでいた。
たぶん、捕まらない。
でもそれでいい気もした。
夏は全部を拾えない。全部を保存できない。十秒に入りきらないものの方が、きっと多い。
それでも美波は撮る。
凪斗は拾う。
竜二はたこ焼きを焼く。
そして逃げた青のりは、どこか知らない誰かの肩に落ちて、その人の今日を少しだけ変にする。
肩に青のりついてるよって。
凪斗は熱いたこ焼きを一つ、慎重に口へ運んだ。
まだ少し熱かった。
けれど、冷める前に食べた方がいいものもあるのだと、なんとなく思った。
いや、実際には作り立てが一番おいしいのだが。




