表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/5

青春の領収書と逃亡した青のり

# 第2章 青春の領収書と逃亡した青のり


 海の家「タコ焼きサンライズ」は、名前からしてだいぶ前のめりだった。まぁ、提供する食べ物はたこ焼きだけではなく、そんじょそこいらの海の家と対して変わらない。たこ焼きにちょっとだけ思い入れがあるだけだ。

なんでも、大阪に観光で行った際に、道頓堀で食べたたこ焼きの味が忘れられないらしい。

竜二、曰く、たこ焼きの電流が毛細結果を通して体中に駆け巡ったらしい。


 サンライズ。つまり日の出。なのに営業開始はだいたい十時半。しかも店主代理の蛸島竜二は、毎朝「太陽より俺の鉄板のほうが熱い」と言い張る。実際には寝坊で鉄板の火入れが遅れ、海開きになると、開店前から店の前に焼きそば待ちの行列を作っていることもある。


 それでも、この海の家には妙な引力があった。


 赤いのれんは潮風で色あせ、木のカウンターにはソースの染みがいくつも残っている。天井の扇風機は、仕事をしているふりだけはうまい。油の匂い、焼けた小麦粉の匂い、青のりの青臭い香り、海から流れてくる塩の湿り気。それらが混ざると、夏は急に食べ物枠で彩をそえる。


 凪斗と美波が店先に着いた時、竜二は鉄板の前でたこ焼きをひっくり返していた。


 たこ焼き用のピックが鉄板を叩く音が、チン、チン、と乾いたリズムを作る。ピックは何でも髙儀のピックでないとダメらしい。

油が跳ねる。丸くなりかけた生地の中で、タコが熱に耐えながら沈黙している。


「来たな、ビーサン奉行」


「その呼び名、まだ正式採用ねーよ」


「海の家で一回呼ばれたら、もう夏の戸籍に載るんだよ」


「夏に戸籍制度を導入すんな」


 凪斗は濡れたアロハシャツの裾をつまみながら、カウンターの端に座った。ドレッドヘアーの先からまだ少し水が落ちている。見た目だけなら、波から帰還したレゲエの英雄みたいだった。だが本人は、さっき助けた黄色いビーサンのことでまだ真剣に疲れている。


 美波はその隣に座った。古いカメラは肩から下げたまま。スマホはポケットにしまわれていたが、さっきの動画を何度か確認した気配がある。画面を見ている時の美波は、いつも少し静かになる。目の奥だけが遠くへ行く。今ここにある夏を、未来のどこかへ手渡す準備をしているみたいに。


 海の家の壁には、湘南商店街夏まつりのポスターが貼られていた。


 **第38回 湘南商店街夏まつり**

 **青春10秒動画コンテスト開催!**

 **十秒あれば、夏は残る。**


 その下には、手書きで追加されたイベント名が雑に並んでいる。


 ビーサン飛ばし選手権。

 青のり爆風たこ焼きグランプリ。

 恋の足元VS目元占い頂上決戦。

 落とし物思い出相談所。

 夕暮れ影絵フォトコンテスト。


 情報量が多すぎて、ポスターが軽く熱中症を起こしているように見えた。


 美波はそのポスターを見上げたまま、少しだけ目を細めた。


「十秒って、短いけど長いよね」


 凪斗は首をかしげた。


「短いだろ。俺のビーサン、足元整えるだけで十秒超える」


「そこは一秒に圧縮する」


「思想のファスト化、よくないぜ」


 美波は笑った。けれどその笑いはすぐに、ポスターの文字へ吸い込まれていった。


 十秒あれば、夏は残る。


 その言葉は、軽いキャッチコピーみたいで、どこか祈りに近かった。残る、という言葉には、残らないものがあることを知っている人の匂いがする。消える前提の世界で、それでも何かを掴もうとする指先の感じがある。


 美波はバッグから、小さな透明袋を取り出した。


 ジッパー付きの、どこにでもある袋だ。けれど中身は、どこにでもあるようで、どこにも同じものがない。さっき買ったオレンジジュースのレシート。砂浜で拾った小さな貝殻。湘南商店街夏まつりのポスターの端を切った紙片。なぜか、かき氷屋のストロー袋まで入っていた。


 袋の中で、それらは静かに光っていた。宝石ではない。高価でもない。むしろ、普通なら捨てられるものばかりだ。けれど美波の手にあると、それらは夏の欠片みたいに見えた。


「それ、何じゃ?」


 凪斗が聞くと、美波は一瞬だけ迷った顔をした。


「青春の領収書」


 その言い方は、少し照れくさそうだった。


 凪斗は袋を見つめる。透明なビニール越しに、レシートのインクが少しだけにじんでいる。紙の端が潮風で丸まり、貝殻が小さく音を立てた。


 領収書。


 支払った証拠。そこにいた証拠。何かを受け取った証拠。


 美波にとって、今日という日は、あとで確認しないと消えてしまうものなのかもしれない。楽しかった、笑った、海にいた、誰かが変なことを言った。その全部が、時間の波にさらわれないように、彼女は小さな袋へしまっている。


「変かな」


 美波は小さく言った。


 凪斗はすぐには答えなかった。鉄板の音がする。ソースの焦げる匂いが少し濃くなる。遠くで子どもが笑い、犬が吠え、波がいつも通り世界の端を洗っている。


「変だけど。ゴミにしか見えん」

 凪斗は言った。


 美波がこちらを見る。

「ひど。でも、変かもだけど、いい変だと思う。捨てられるものを、捨てないってことだろ」


 凪斗は何も言わなかった。


 その沈黙が、変にエモかった。言葉で説明すると軽くなる種類の沈黙だった。夏の空気はうるさいのに、その一瞬だけ、海の家の中が少し静かになった気がした。


 竜二がたこ焼きにソースをかけた。甘辛い匂いがふわっと広がり、カツオがそのうえで踊っている。たこ焼きソースの甘い香りが、沈黙を雑に現実へ戻した。


「青春の領収書か。まぁいいじゃねえの」


 竜二は紙皿を三つ並べた。


「青春ってのはな、だいたい支払いだけ先で、お釣りは何年もあとに来る」


「急に深いこと言いうねー」


「たこ焼き屋は、鉄板の前で悟るんだよ」


 凪斗は信じていいのかわからない顔をした。


 その時、事件は起きた。


 竜二が青のりの袋を持ち上げた瞬間、海風が店の正面から吹き込んだ。のれんが大きくはためく。ポスターの端がばたばた鳴る。透明袋の中のレシートがバタつく。


 そして、青のりの袋の口が、なぜか全開だった。


 緑色の細かい粉が、ふわっと空へ舞った。


 最初はきれいだった。


 昼の光に照らされ、青のりは小さな惑星のかけらみたいに漂った。揚げ玉の匂いと海風の中で、緑の粒がゆっくり回る。スローモーションなら、たぶん泣ける映像になる。


 「あぁ、青い粉雪が、夏の熱風にキラキラしてて綺麗~」


 ただし、現実ではたこ焼き屋の軽い災害だった。


「青のりが空に逃げた!」


 竜二の声が店中に響いた。


 凪斗は反射的に立ち上がった。美波はスマホを取り出す。今度は隠すようにではなく、はっきりと構えた。画面の赤い録画マークが光る。


 青のりは風に乗り、砂浜へ逃げた。


 小学生が「妖精だ」と叫んだ。犬が鼻に青のりをつけてくしゃみをした。焼きそば待ちのおじさんの白い帽子に緑の粉が積もった。竜二はなぜか虫取り網を持って飛び出した。海の家に虫取り網が常備されている理由は、誰にもわからない。


 凪斗も外へ出た。

 「いや、それ無理だろ?」


 砂が熱い。さっき濡れた足裏が、今度はじりじり焼かれる。アロハシャツに青のりが点々とつく。ドレッドヘアーの隙間にも、緑の粉が入り込んだ。見た目だけなら、南国の精霊に味付けされた男だった。


「旅をする青のりに帰る場所はあるのか」


 凪斗は風の中でつぶやいた。

「ないと思う」


 美波がスマホを構えたまま答えた。


「でも追ってるじゃん」


「逃げてるものを見ると、放っておけないんよ」


 言ってから、凪斗は少しだけ黙った。


 その言葉は青のりに向けたものだったのに、なぜか自分の胸にも当たった。逃げているもの。波にさらわれるビーサン。捨てられそうなレシート。言えずに喉の奥で固まる言葉。そういうものを、彼はなぜか見過ごせない。


 けれど自分自身が逃げている時だけは、見ないふりがうまい。


 美波はその横顔を撮っていた。


 彼女のスマホ越しの凪斗は、笑えるくらい変だった。アロハにドレッド、頬に青のり、真剣な顔。だけど不思議と、ただのギャグでは終わらない。意味わかんないことに本気で手を伸ばしている姿は、どこかまぶしい。


 美波は録画を止めなかった。


 竜二が網を振り回し、青のりの粒を一網打尽にしようとして空振りした。犬がそれを遊びだと勘違いして追いかける。小学生が笑う。海の家ののれんがまた揺れる。


 その時、凪斗の頬に青のりが一粒ついた。


 美波が近づいた。


 スマホを片手に持ったまま、空いた指でそっとそれを取る。動作は小さかった。ほんの一瞬、波音よりも静かな接触。


 凪斗は動かなかった。


 触れられた場所だけ、夏の温度が変わったようだった。けれど彼は何も言わない。ただ、目線を少しだけ泳がせ、足元の砂を見た。


 美波は取った青のりを見つめた。普通なら、指先から払って終わりだ。けれど彼女は海の家へ戻ると、紙ナプキンの端を小さく破り、その青のりを包んだ。


 そして、透明袋の中へ入れた。


 レシート、貝殻、ポスターの切れ端、ストロー袋。


 そこに、青のりが加わった。


 凪斗は思わず聞いた。


「それも領収書?」


 美波はうなずいた。


「今日のぶん」


 たったそれだけの言葉だった。


 でも凪斗には、なぜかその一言が長く残った。


 今日のぶん。


 今日、ここにいたこと。誰かがビーサンを拾ったこと。青のりが逃げたこと。犬がくしゃみをしたこと。頬に触れた指先が、ほんの少しだけ冷たかったこと。


 美波は、それを雑に笑って終わらせない。


 世界が「そんなの別にどうでもいいじゃん」と言うような一瞬を、彼女だけは拾い上げる。しかも、めっちゃ大事そうに。


 それは、少しずるい。


 人は、自分のどうでもよさそうな部分を誰かに大事にされると、急に自分の輪郭がわからなくなる。


 騒ぎが落ち着いた頃、竜二が三皿のたこ焼きを出した。青のりは少なめだった。さっき大量に逃亡したからだ。


 たこ焼きの表面でソースが光っている。かつお節が熱でゆらゆら踊り、マヨネーズの白い線が、夏の道路標示みたいに皿の上を横切っている。割り箸を入れると、中から熱い湯気が出た。


 竜二は急に、眉間に皺を寄せ、人生の一大事を語るように真面目な顔になった。


「本音はな、冷ますと固くなる」


 凪斗は箸を止めた。


 美波も、たこ焼きを見たまま少し黙った。


 竜二は続けない。言うだけ言って、次のたこ焼きをひっくり返し始める。人生の核心を、ソースの横に平気で置いていく男だった。


 凪斗は湯気を見る。

 心のなかで、

「次のセリフはないんかい!」

 と突っ込んでいた。


 でも確かに、たこ焼きの外側は少し固まり、中はまだ熱く柔らかい。口に入れるタイミングを間違えれば火傷する。でも待ちすぎれば、さっきまでのとろっとした感じは失われる。


 本音や心の中に住む感情の何かも、そういうものなのかもしれない。


 凪斗は何かを思いかけた。


 しかし、その何かにはまだ名前がない。名前をつけた瞬間、今の距離が変わってしまいそうで、怖い。だから彼は、たこ焼きを少し冷ますふりをして、黙っていた。


 美波はスマホの画面を確認していた。


 青のりが逃げるところ。竜二が虫取り網を振るところ。犬のくしゃみ。凪斗が頬に青のりをつけたまま、妙に真剣な顔で青のりを追っかけるところ。


 十秒ずつ切り出せそうな場面が、いくつもあった。


 その時、海の家の奥にある小さなモニターが急に光った。


 店内BGM用に置かれた古いテレビだ。普段は天気予報か野球中継しか映らない。だが今、画面には見覚えのある映像が映っていた。


 片方だけのビーサンの前でしゃがみ込む凪斗。


 黄色いビーサンを追って海へ走る凪斗。


 指先が触れて、少しだけ固まる凪斗。


 ブレた写真を見つめる美波。


 さっき撮られた、あの動画だった。


 凪斗の思考が止まった。


 美波も目を見開いた。


 どうやら、美波のスマホが店のWi-Fiモニターに勝手に接続されていたらしい。さっき動画を確認していた時、海の家の古い機械が、謎のやる気を出して画面共有を始めてしまったのだ。


 店内にいた小学生も、焼きそば待ちのおじさんも、竜二も、みんなモニターを見た。


 凪斗はゆっくりと顔を覆った。


「終わった……な」


 だが、誰も笑わなかった。


 いや、少しは笑った。ビーサンに向かって真顔で語るアロハのドレッド男子は、普通に面白い。そこは避けられない。けれど、その笑いは雑な嘲笑ではなかった。海の家にいた人たちは、画面の中の凪斗を見て、どこか優しい顔をしていた。


 小学生の一人が言った。

「この人、ビーサン助けててかっこいい」


 焼きそば待ちのおじさんが、青のりのついた帽子を押さえながらうなずいた。

「変だけど、面白い映像だ。いいな」


 竜二が鉄板の前で笑った。

「それだな。変だけど、いい。それが青春だ」


 美波は慌ててスマホを操作し、接続を切った。

「ごめん、凪斗。本当にごめん。勝手に流すつもりじゃなかった」


 美波の声は、ちゃんと焦っていた。茶化す感じはまったくなかった。


 凪斗はしばらく黙っていた。


 自分の変なところが、知らない人たちに見られた。普通なら最悪だ。黒歴史の公開上映会。メンタル爆死案件。今すぐ砂浜に穴を掘って、アロハごと埋まりたい。墓標には海のビーサンマンここに眠る。


 でも、不思議と胸の奥は、思ったほど痛くなかった。


 むしろ、変な感じがした。


 自分では恥ずかしくて隠したい十秒を、誰かが笑いながらも、ちゃんと受け取ってくれた。美波が拾った十秒が、モニターを通して、ほんの少しだけ他の人にも届いた。


 それは、晒されたというより、拾われた、に近かった。


 凪斗は透明袋の中の青のりを見た。


 レシートや貝殻と同じ場所に、どうでもいいはずの緑の粉が大事そうに入っている。捨てられるものが、捨てられなかった証拠。


 もしかしたら、自分の変なところも、同じなのかもしれない。


 誰かに笑われるだけのものではなく、誰かに拾われるものになることもある。


 凪斗は小さく息を吐いた。


「タイトル」


 美波が顔を上げる。


「え?」


「あの動画のタイトル。前に言ってたやつでいい」


 美波は少しだけ驚いた顔をした。


「片方だけの夏を拾う人?」


 凪斗は視線をそらした。


「……それなら、まだ人間として耐えられる」


 美波は、ほんの少し泣きそうな顔で笑った。


 店の外では、青のりがまだ一粒、風に乗って飛んでいた。


 たぶん、捕まらない。


 でもそれでいい気もした。


 夏は全部を拾えない。全部を保存できない。十秒に入りきらないものの方が、きっと多い。


 それでも美波は撮る。


 凪斗は拾う。


 竜二はたこ焼きを焼く。


 そして逃げた青のりは、どこか知らない誰かの肩に落ちて、その人の今日を少しだけ変にする。

 肩に青のりついてるよって。


 凪斗は熱いたこ焼きを一つ、慎重に口へ運んだ。


 まだ少し熱かった。


 けれど、冷める前に食べた方がいいものもあるのだと、なんとなく思った。

 いや、実際には作り立てが一番おいしいのだが。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ