砂浜には、だいたい片方だけ何かが落ちている
夏の砂浜には、人生の落とし物が多すぎる。
食べ終わったかき氷のカップ。誰かの浮き輪の空気栓。片耳だけのイヤホン。日焼け止めのキャップ。恋人たちの気まずい沈黙。あと、だいたい片方だけのビーサン。
砂原凪斗は、その片方だけのビーサンの前でしゃがみ込んでいた。
派手な青のアロハシャツ。胸元にはヤシの木と謎のフラミンゴ。髪はドレッドヘアーで、潮風を受けるたびに小さな黒いロープみたいに揺れている。遠目で見れば、夏フェス帰りの陽キャか、海辺でウクレレを売っている謎の若者に見えなくもない。
だが、その口から出る言葉は、だいぶ違った。
「右足用なのに、左を向いている……これは、進路に迷ってるな」
凪斗は真剣だった。
目の前のビーサンは、砂に半分埋まり、鼻緒に小さな貝殻を引っかけている。波に濡れたせいで、全体的にしょんぼりしていた。凪斗にはそれが、人生の帰り道を見失った者の背中に見えた。
「ビーサンって、そんな重めのキャラだっけ?」
背後から声がした。
振り向かなくてもわかる。潮見美波だ。
白いシャツの裾が潮風で揺れている。肩から古いカメラを下げ、片手にはオレンジジュース。前髪が風で少し乱れていて、本人は気にしていない。その無防備さが、凪斗の心臓に毎回しれっと矢を刺す。
「重くない。俺たちが軽く扱いすぎているだけだ」
「出た。ビーサン人権派」
「人権じゃない。ビーサン権だ」
「ビーサン権てなに?」
「私に聞くな!」
美波は笑った。
その笑い声は、波より近くて、太陽よりたちが悪い。凪斗はいつも思う。美波の笑顔には、こっちの防御力をゼロにするバグがある。ゲームだったら即修正パッチ適用案件だ。
「凪斗さ」
「なに」
「見た目は完全に夏を支配してるのに、中身がビーサン担当の小役人なんだよね」
「小役人って言うな。せめて奉行にしてくれ」
「じゃあ、ビーサン奉行?」
美波が面白がるように言った。
その瞬間、凪斗は少しだけ嫌な予感がした。こういう呼び名は、海風より広がるのが早い。いったん商店街に流れたら最後、たこ焼き屋の竜二先輩あたりが拡声器で叫ぶ未来まで見える。
「今のはなしで」
凪斗は軽く手刀を切った
「ごめん。もう保存しちゃった」
「何を?」
「心のメモに」
「削除して」
「無理。クラウド同期済み」
美波はそう言って、カメラの電源を入れた。
凪斗はカメラを見るたび、少しだけ緊張する。美波はなんでも撮る。波打ち際の光、商店街の錆びた看板、青のりが飛んだ瞬間、誰かが笑った顔。まるで、この世界がいつか消えることを最初から知っているみたいに、彼女はシャッターを切る。
「今日は何撮ってるの」
「夏」
「ざっくり」
「でも、だいたい合ってるでしょ」
美波は波の方へレンズを向けた。
砂浜はうるさかった。子どもたちの叫び声。パラソルを広げる音。遠くの海の家から流れてくる古いポップス。焼きそばのソースの匂い。日焼け止めの甘い匂い。足裏をじりじり焼く砂の熱。
全部が夏だった。
雑で、眩しくて、逃げ場がない。
凪斗は美波の横顔を盗み見た。
好きだ、と思った。
毎回思う。ほぼ呼吸と同じ頻度で思う。でも言えない。言おうとすると、言葉が喉の奥で急に重くなる。好きという二文字は、見た目より質量がある。たぶん鉄アレイくらいある。
言ったら、どうなるんだろう。
今の距離が壊れたら?
美波が困った顔をしたら?
笑ってくれなくなったら?
そう考えた瞬間、凪斗の中の臆病な自分が、全力で非常ベルを鳴らす。
「ねえ、凪斗」
美波がふいに波打ち際を見た。
「私の黄色いビーサン、片方ない」
凪斗もそれを確認すると表情が変わった。
さっきまで恋に怯えていた顔から、完全に職務中の顔になる。アロハのフラミンゴまで緊張した気がした。
「緊急事態だ」
「そんなに?」
「美波の足元の守護神が失踪した」
「千円くらいの守護神だけど」
「値段で神格を測るな」
黄色いビーサンは、既に波に流されて行く途中だった。
貝殻の飾りがついた、いかにも美波らしいビーサンだ。寄せる波に押され、少しずつ沖へ逃げようとしている。小さな黄色が、青い海に飲み込まれそうになっていた。
「待て!」
凪斗は走った。
砂が熱い。黒いビーサン越しににじゅっとくるのが分かる。ビーサンが砂を蹴る。アロハの裾がばたばた揺れ、ドレッドが風で跳ねる。見た目だけなら、南国映画の主役がクライマックスへ向かっているみたいだった。
ただし救うのは人命ではなく、ビーサンである。
「凪斗、無理しないで!」
「よくない! この子はまだ帰り道を知らない!」
「ビーサンを迷子の園児みたいに言わないで!」
波が足首をさらう。冷たい。砂が指の間に入り込む。黄色いビーサンは、波の上でひらひら回っている。あと少し。凪斗は膝まで海に入り、手を伸ばした。
指先が、鼻緒に届いた。
「確保!」
近くの子どもが拍手した。知らない犬が吠えた。たぶん応援ではなく、海藻にキレている。
凪斗は黄色いビーサンを掲げ、砂浜へ戻った。アロハは濡れ、ドレッドの先が水が少し海水に浸かった。足元は砂まみれ。だが表情だけは、世界を救った勇者のそれだった。
「帰還しました」
美波は笑いをこらえきれない顔で、ビーサンを受け取ろうとした。
「ご苦労様、ビーサン奉行」
「だから、それなしだって」
その瞬間。
美波の指先が、凪斗の指に触れた。
たったそれだけだった。
なのに凪斗の脳内では、湘南商店街夏まつりが勝手に前倒し開催された。太鼓が鳴り、花火が上がり、どこかの誰かが「南無サマー!」と叫び、青のりが空を舞い、白スーツの知らない男が「涙は心の潮位計でございます」と言った気がした。
心臓がバカみたいにうるさい。
指先はほんの一秒も触れていなかったのに、そこだけ夏の温度が残っている。
「凪斗?」
「はい」
「顔、すごいよ」
「今、顔の中で緊急会議してる」
「議題なに?」
「青少年の指先接触に関する危機管理」
「なんじゃ、そりゃ?」
美波は笑った。
でも、ほんの少しだけ頬が赤かった。
凪斗はそれを見て、心のどこかが変に静かになるのを感じた。
今なら言えるかもしれない。
好きだ。
その言葉が、喉まで来た。
波音が遠くなる。砂浜のざわめきも、犬の声も、海の家の音楽も、全部ぼやける。美波の顔だけが、ピントの合った映像みたいにはっきり見えた。
「美波、俺――」
「うん」
美波がこちらを見る。
まっすぐに。
その目を見た瞬間、凪斗の勇気は急に土下座した。
「俺……ビーサンって、濡れるとちょっと性格変わると思う」
「今、その話いる?」
「今だからこそ」
「絶対違う」
美波は呆れたように笑った。
凪斗も笑った。笑うしかなかった。自分の弱さにツッコミを入れる代わりに、ビーサンへ話題を逃がした。いつものやつだ。自分でもわかっている。ダサい。普通にダサい。アロハとドレッドで誤魔化しきれないレベルでダサい。
美波はスマホを取り出した。
「写真撮ろ」
「今?」
「今」
「俺、だいぶ砂まみれで、海に負けてるけど」
「凪斗はいつも夏に勝ってる見た目してるから大丈夫」
「中身は常に予選落ちだけど」
「そこがいいんじゃん」
さらっと言われて、凪斗は一瞬フリーズした。
そこがいい。
今のは、どういう意味だ。
ただのツッコミか。慰めか。友情か。それとも、もっと別の何かか。
考えるな。考えると足元をすくわれる。いや、すくうのは波だ。落ち着け。
美波が隣に寄ってきた。
近い。
肩と肩の間に、風が一枚だけ挟まっている。美波の髪から、潮とシャンプーが混ざった匂いがした。画面の中で、凪斗のアロハはやたら派手で、美波の笑顔はやたら眩しい。
「もっと寄って」
「これ以上は、条例に」
「何条例?」
美波が笑いながら、ほんの少し肩を寄せた。
肩が触れた瞬間、凪斗はびくっと体を強張らせた。
シャッター音が鳴った。
写真は、ブレていた。
海も空も、二人の顔も、少しだけ揺れている。凪斗は完全に挙動不審で、美波は笑いすぎて目が細くなっている。肩は触れそうで、触れていない。
凪斗が言った。
「ブレた…ね」
「撮り直す?」
美波は画面を見たまま、少し黙った。
それから、首を振った。
「ううん。これでいい」
「いいの?」
「うん。なんか、今っぽい」
今っぽい。
凪斗はその言葉を心の中で転がした。
ブレている。近いのに、決まらない。言いたいことがあるのに、言えない。笑っているのに、どこか心臓が痛い。
たしかに、それは今の自分たちだった。
その時、海の家の方から大声が飛んできた。
「おーい、凪斗! 美波! 大変だぞ!」
蛸島竜二だった。
ガタイのいい、いっこ上の先輩だが、年の割には、老けて見える。二十代後半と言われても納得するだろう。
頭にタオルを巻き、たこ焼き用のヘラを片手に持っている。遠目には完全に怪しい屋台のオヤジだ。
「湘南商店街夏まつりのポスター貼るの手伝え! 今年は青春10秒動画コンテストもあるぞ!」
美波の目が光った。
「青春10秒動画?」
「十秒で夏を撮るやつだ! あとビーサン飛ばし選手権もある!」
凪斗はぴくりと反応した。
「ビーサンを、飛ばす?」
声が低くなる。
美波が横でにやっと笑った。
「凪斗、今すごい顔してる。足元の治安が乱れた時の顔」
「足元への反逆が、公式行事になろうとしている」
「めっちゃ撮りたい」
「撮らないでくれ。思想が漏れる」
凪斗がそう言った時、美波のスマホが小さく震えた。
画面には、さっきのブレた写真――ではなく、動画のサムネイルが表示されていた。
凪斗は眉をひそめた。
「え、動画?」
美波は一瞬だけ気まずそうに笑った。
「ごめん」
「何が?」
「実はさっき、動画回してた」
凪斗は固まった。
美波は少しだけ気まずそうに、でもごまかさずにうなずいた。
「いつから?」
「最初から」
「最初って、どの最初?」
「凪斗が片方だけのビーサンに『進路に迷ってる』って言ったところから」
凪斗は固まった。
「な、なるほど…かなり最初だな」
「うん。かなり最初」
「じゃあ、黄色いビーサンを取りに行ったところも?」
「撮れてる」
「指が触れて俺が変なこと言ったところも?」
「撮れてる」
「写真撮るところも?」
「それは、いったん動画止めて写真撮った感じ」
凪斗は頭を抱えた。
「俺の人間としての不安定さが、スマホに保存された」
「不安定じゃないよ」
美波は言った。
その声が思ったより真面目で、凪斗は顔を上げた。
「じゃあ何」
「大事にしてるだけだと思う」
「ビーサンを?」
「ビーサンも。落ちてるものも。誰かが忘れたものも。そういうのを、凪斗は笑わないで拾うじゃん、几帳面と言うか。」
「まぁ、見てみよ?」
美波はスマホの画面を見た。
そこには、派手なアロハとドレッドの少年が、片方のビーサンにしゃがみ込み、真顔で向きを直し、黄色いビーサンを追って海へ走る姿が映っていた。
たった一つの動画なのに、夏の匂いがした。
波の音がして、砂の熱があって、意味わかんないくらい本気な人がいて、それを見ている誰かの小さな感情まで、画面の端で揺れている。
「これ、青春10秒動画コンテストの素材にしたい」
美波は言った。
「十秒に収まる?」
「最初から撮ってたから、編集する。十秒ぶん」
「俺のどの十秒が使われるんだ……」
「まだ決めてない」
「せめて人間として尊厳のある十秒にして」
「うん。ちゃんと大事に編集するし」
その言葉に、凪斗は何も言えなくなった。
美波は、面白いから撮ったのではない。
たぶん、残したかったのだ。
片方だけのビーサンにしゃがみ込む凪斗を。黄色いビーサンを本気で追いかける凪斗を。ブレた写真を見て、少し困ったように笑う凪斗を。
凪斗は、自分のどこがそんなに残す価値があるのかわからなかった。
でも美波は、わかっているような顔をしていた。
拾ったのは黄色いビーサンだと思っていた。
けれど本当は、凪斗自身の変で不器用な瞬間が、美波に拾われていた。
波が寄せて、足あとを少しだけ消した。
でも、スマホの中の動画は消えない。
美波は動画を保存し、そっと名前をつけた。
「タイトル、どうしようかな」
「変なのはやめて」
「じゃあ……『片方だけの夏を拾う人』」
凪斗は一瞬、黙った。
それから、照れ隠しのように足元の黒いビーサンを直した。
「……それなら、まあ?」
美波は小さく笑った。
夏は、まだ始まったばかりだった。
そして凪斗はまだ知らない。
このスマホで撮られた何気ない動画が、やがて美波の父へ届く一本の映像になることを。




