一章(三)本人より本人らしい偽物
伊之坂が玄関へ向かい、ほどなくして一人の女性を連れて戻ってきた。
三十歳前後だろうか。肩につく程度の髪を後ろでまとめ、大きめの鞄を膝の上に抱えている。
「こちらが探偵の犬山小太郎です」
伊之坂が紹介すると、女性は少し緊張した様子で頭を下げた。
「佐伯真帆と申します。今日はありがとうございます」
「どうぞ」
僕は向かいの椅子を示した。
彼女が腰を下ろすのを待ってから、僕も座る。
「それで、なりすましという話だったね」
「はい」
佐伯さんは鞄からスマートフォンを取り出した。
「これなんです」
差し出された画面には、一人の女性の名前と写真、それから短い文章がいくつも並んでいた。
「これが偽アカウント?」
「はい。アカウントの名前もアイコンも、私のものと同じです」
「写真も転載されてると?」
「ええ、たぶん。ほとんどは、自分のアカウントに載せたものです。でも……たまに、覚えがない写真が混じるんです」
「覚えがない?」
佐伯さんは画面を操作した。
映っていたのは、一杯のコーヒーと、小さな皿に載ったチーズケーキだった。
「これ、3日前の偽アカウントの投稿です」
「何か写真に問題が?」
「ちょうど3日前に仕事帰りに寄った店で、私が頼んだものと同じです」
僕は画面を見直した。よくある料理写真だ。
「君自身は写っていないな」
「はい」
「店の公式写真の転載という可能性は?」
「同じものがないか調べました。でも違いました」
「その日、誰かと一緒だった?」
「一人です。誰にも言ってません」
投稿には短い文章が添えられていた。
『疲れた日は、結局ここに来てしまう。頼むものまでいつも同じ』
「いつもの店なのか」
「昔からよく行ってます。でも、そんなことSNSには書いてません」
「以前にこういう写真を撮った覚えは?」
「ありません」
なるほど。
もし本当に3日前の写真なら、誰かが彼女の行動を知った上で投稿していたことになる。
同じ店にいたとしたら、やっていることはストーカー行為に近い。本当の目的は何なのだろうか。
「こういう投稿は他にも?」
「あります」
佐伯さんは別の画面を開いた。
『最近、何かを始めるたびに、どうせ途中で嫌になるんだろうなと思う。昔からそうだった。でも、始める前から諦めるのはもっと嫌いだ』
「これ、私が心の中でずっと思っていたことなんです」
「誰かに話したことは?」
「ないと思います」
「日記は?」
「書いてません」
「他に心当たりは?」
佐伯さんの目がわずかに泳いだ。
「……実は、ちょっとだけあります」
「あるんじゃないか」
「でも、とっくの昔にやめた鍵アカウントです。フォロワーも三人だけです」
「三人?」
「昔からの友達と、大学時代の知り合いです」
「そこには似たことを書いた?」
「そのままではないです。でも……」
佐伯さんはそのアカウントの画面を開いた。
『新しいことを始めたいと思うたび、また途中で飽きるんじゃないかと思ってしまう。自分でも嫌になる』
僕は二つの文章を見比べた。
同じではない。
だが、かなり近い。
「他にも?」
彼女は頷いた。
「私が嫌いなものとか、昔から気にしていることとか。投稿を見るたびに、自分で書いたんじゃないかって思うくらい似てるんです」
「最初から?」
「いえ。最初はもっと単純でした」
偽アカウントが作られたのは半年ほど前。
はじめのうちは、佐伯さんが公開している写真を転載し、本人の投稿を少し言い換える程度だったという。
それなら悪質ではあるが、珍しい話でもない。
ところが、数か月前から内容が変わった。
本人がまだ書いていないことを先に投稿するようになった。
自分でも言葉にしていなかった感情を、文章にするようになった。
そして最近では、3日前のカフェのように、実際の行動まで言い当てる。
「警察には、写真も見せた?」
「はい。でも、私が写っているわけでもないし、その日に撮ったものだとも証明できないって」
「それはそうだろうな」
「やっぱりそうですよね」
「警察の対応が間違っているわけではない。今ある情報だけでは、確かに事件だと断定する材料が少ない」
佐伯さんは少し肩を落とした。
「ただ」
僕は続けた。
「気味が悪いという君の感覚まで、間違っているわけじゃない」
顔を上げた彼女に、僕はスマートフォンを返した。
「君の行動を知っている人間がいる。あるいは、君の行動をかなり正確に予測できる人間がいる可能性がある」
「予測、ですか……」
三日前にカフェへ行ったことを直接知っていたとは限らない。
昔からよく行く店なら、真帆を知る人間が「そろそろ行くだろう」と考えた可能性もある。
もっとも、それを偶然で片づけるには投稿が多すぎる。
「投稿内容が似すぎていることの方が、僕は気になる」
「私もです」
佐伯さんはスマートフォンを握ったまま俯いた。
「最初は、ただの嫌がらせだと思ってました。気持ち悪いけど、無視すればいいって。でも最近は……」
「最近は?」
しばらく答えがなかった。
「私より、この人の方が私のことをわかってるんじゃないかって思うんです」
部屋が静かになった。
「それはない」
思わず、すぐに答えていた。
佐伯さんが顔を上げる。
「え?」
「他人が君の考えを当てたからといって、君より君自身を理解していることにはならない」
「でも」
「本人より本人らしい人間などいない」
言い切ったところで、朝見た自分の公式アカウントが頭に浮かんだ。
僕が書いていない文章を、多くの読者が僕らしいと言っている。
……まったく、嫌なタイミングで思い出す。
「とにかく」
僕は椅子の背にもたれた。
「誰がやっているのか調べよう。君のことを、どこまで知っている人間なのかも含めてね」
佐伯さんの表情が少しだけ緩んだ。
「お願いします」
「その前に一つだけ」
「何でしょう」
「君は、その偽者に何をされるのが一番怖い?」
彼女は答えに詰まった。
「写真を使われることか。秘密を知られることか。それとも、君のふりをして他人と話されることか」
沈黙のあと、佐伯さんはゆっくり首を振った。
「どれもすごく嫌ですが、一番とは違います」
「では?」
「私が、あの人みたいになってしまうことです」
僕は目を細めた。
「どういう意味だ」
「最近、投稿を見ると、そうだよねって思うんです。私、本当はこう思ってたんだって」
はスマートフォンを伏せた。
「自分で考える前に、あのアカウントを見て確かめたくなることがあって」
その声が、少しだけ震えた。
「このまま見続けていたら、どっちが本当の私なのかわからなくなりそうで」
昨夜の黒猫の声が、不意に蘇った。
――人間とは何だ?
僕は無意識に、机の端を指で叩いた。
偽者がいることが問題なのではない。
少なくとも、彼女が恐れているのはそこではない。
誰かが作った自分を見続けるうちに、自分自身の方が揺らぎ始めている。
だとすれば。
この事件で探すべきものは、なりすましの正体だけではなさそうだった。




