一章(四)たぶん監視されているわけではない
その日の夜。
僕は書斎の机に向かい、腕を組んでいた。
原稿用紙は相変わらず白いままだった。
別に書けないわけではない。ただ、どうにも気が散るのだ。
理由はわかっている。
時計を見る。
十一時四十二分だった。
「……来るなら来い」
誰に言うでもなく呟いた。
その直後、窓の外で、かすかに何かが鳴いた。
全身が強張る。
分かってても、嫌なものは嫌だ。
窓辺に、黒い影が現れた。
「待たせたな」
「誰も待ってなどいない」
僕は即答した。
黒猫は昨日と同じように窓枠へ乗り、こちらを見た。
「顔色が悪いな」
「君のせいだ」
「我は何もしていない」
「毎晩来るという時点で十分な迷惑だ」
猫は気にした様子もなく、机へ飛び乗った。
「それで」
「何だ」
「答えは出たのか」
僕は椅子の背にもたれた。
考えていなかったわけではない。
むしろ一日中、何度も頭に浮かんだ。
一応の答えはまとめてある。
「人間とは、理性と欲望のあいだで揺れながら、それでも自分で選ぼうとする生き物だ」
黒猫はしばらく黙っていた。あまりに回答が素晴らしくて感動しているのかもしれない。僕は自慢げに尋ねた。
「どうだ」
「つまらんな」
「……は?」
「どこかで聞いたような答えだ」
「僕の言葉だぞ」
「本当にそうか?」
猫の目が細くなる。
「お前が今まで読んできた本の中身を、少し並べ替えただけではないのか」
「一般論を自分の言葉に言い換えることの何が悪い」
「悪いとは言っていない」
黒猫は前脚を舐めながら言った。
「ただ、所詮その程度かと思っただけだ」
腹が立つ。
非常に、腹が立つ。
「君はずいぶんと偉そうだな」
「お前ほどではないと思うが」
「帰れ!」
「まだ用件は終わっていない」
「終わった。いや、こちらは元より君に用件などない」
「まあそう言うな。ところで、あの女はなぜ怯えていた」
僕は眉を寄せた。
「何の話だ」
「今日、お前のところへ来た女だ」
「……君はどこまで知っている。どこかから見ていたのか?」
「我の問いに答えろ」
「先に僕が聞いている」
「あの女もお前も、自分より自分らしい誰かを見て、なぜ怯える?」
猫は僕を見た。
「他人に理解されるのは、そんなに恐ろしいことか?」
言葉が詰まった。
昼間の佐伯さんの顔が浮かぶ。
どちらが本当の自分かわからなくなりそうだ、と彼女は言った。
「それと人間の定義に何の関係がある」
「わからぬなら考えろ」
「いちいち癪に障る言い方をするな」
「明日の夜も来る」
「来なくていい」
「答えが出るまでは来る」
黒猫はひらりと窓枠へ戻った。
「待て」
振り向かない。
「本当に毎晩来る気か?」
「そう言った」
「質問は七つだと聞いたはずだが」
「一つも答えられぬうちから、次を欲しがるな」
そう言い残して、黒猫は夜の中へ消えた。
僕はしばらく窓を見つめていた。
「……誰が欲しがった」
返事はなかった。
◇
翌朝。
「小太郎ぼっちゃま。紅茶を」
「そこに置いてくれ」
「昨夜はよくお休みになれましたか」
「そんなもの、見ればわかるだろう」
自分でも機嫌が悪いのはわかっていた。
伊之坂は何も言わず、カップを置いた。
「目の下に隈がございますね」
「ああ、僕も鏡なら見た」
「では今日はもう少し、ゆっくりお休みになられては」
「仕事がある」
「おやおや、それは珍しいことを仰いますね」
僕は顔を上げた。
「君は僕を何だと思っている」
「小太郎ぼちゃま……いえ、作家兼探偵でございます」
「なら働いていて当然だろう」
「普段からそうであれば申し上げません」
「朝から腹が立つ言い方をするな」
足元にいたワトソン君が顔を上げた。
「君はいい。君だけは本当に僕の味方だ」
ワトソンくんはそうだと言いたげに目を細めた。
「うむ。やはりそうだ。君は素晴らしい」
僕がワトソンくんを褒めると、伊之坂は小さく笑ったのがやや癪に障る。
だが、その程度には、まだいつもの平和な朝だった。
「ところで、昨日の佐伯様の件でございますが」
「ああ。ひとまず投稿を全部見たい」
「すでに一覧にしてございます」
「仕事が早いな」
「小太郎ぼっちゃまが端末の操作で時間を浪費されるよりはよろしいかと思いまして」
「一言余計だ」
伊之坂が用意した資料には、偽アカウントの投稿が時系列に並べられていた。
公開済みの写真を使ったもの。
真帆本人の投稿を少し言い換えたもの。
本人しか知らないはずの考えに近いもの。
そして、行動を先回りしたように見えるもの。
「例のカフェの件が一番気になるな」
「実際にお店へ参りますか」
「そうしよう」
真帆がよく立ち寄るという店は、駅から少し離れた細い通りにあった。
昼前ということもあり、店内はまだ空いている。
窓際の席へ座り、真帆が頼んだというコーヒーとチーズケーキを注文した。
「伊之坂。探偵という仕事も、時には優雅なものだな」
「ええ。ですが調査であることをお忘れなく」
「わかっている」
ほどなくして、皿が運ばれてきた。
僕はスマートフォンに保存した偽アカウントの写真と、目の前の皿を見比べた。
「……違うな」
「何がでしょう」
「皿の模様だ」
写真では、ケーキの皿に細い青い線が入っている。
だが今、目の前にある皿は無地だった。
店員を呼び止め、訊く。
「この皿、最近変えましたか?」
「はい。先週から新しくしました」
「その前は青い線が入ったものを?」
「そうです」
僕は伊之坂を見た。
「……例の写真は先週より以前に撮られたものかもしれない」
「ええ。少なくとも、佐伯さんご自身がその日に撮影された可能性は低いですね」
「佐伯さんは三日前……いや、今日より四日前にここへ来た。犯人も同じことを書いた。だから僕らは、誰かがその場を見ていたと考えた」
「しかし実際には」
「写真はもっと前に撮られていた」
僕はもう一度、投稿を見た。
『疲れた日は、結局ここに来てしまう。頼むものまでいつも同じ』
「この偽アカウントの犯人は、この日に佐伯さんを見たんじゃない」
「では、なぜ同じ店で同じ注文を?」
「知っていたからだ」
「佐伯様が、疲れた日にここへ来ることを?」
「それだけじゃない」
僕は資料をめくった。
新しいことを始める前に弱気になる。
嫌なことがあると甘いものを頼む。
人に腹を立てたときほど、表では平静な文章を書く。
ひとつひとつは些細な癖だ。
だが、長く付き合っていれば知ることもある。
「確かに。人の行動は、長く見ていれば読めるものですからね」
伊之坂が何気なく言った。
僕は顔を上げた。
「君は僕の行動も読めるというのか」
「ええ。ある程度は、でごさいますが」
「どの程度だ」
「そうですね。例えば今、そのケーキを半分ほど召し上がってから、残りを私の皿へ移そうか迷っておられるのが分かる程度には」
僕はフォークを止めた。
「……そこまで読まれると、薄気味が悪い」
「長年お仕えしておりますので」
昨日も似たようなことを聞いた気がする。
本人より、本人をよく知っている他人。
ふと、黒猫の声が蘇った。
――他人に理解されるのは、そんなに恐ろしいことか?
「小太郎ぼっちゃま?」
「何でもない」
僕は資料へ視線を戻した。
もし犯人が真帆を四六時中監視しているのではないとしたら。
必要なのは、現在の居場所を知ることではない。
真帆が何を選び、何を嫌い、どういうときにどう動くのか。
それを知っていることだ。
「犯人は、真帆さんの現在をずっと監視しているわけじゃない」
「では?」
「昔から彼女のことをよく知っている人間だ」
そう口にした瞬間、一つだけ引っかかっていたものが形になった。
投稿の文章、考え方、行動の予測。
どれも、最近知り合った人間には難しい。
だが、長い時間を一緒に過ごした相手なら。
「伊之坂」
「はい」
「佐伯さんに連絡を取ってくれ」
「何と?」
「以前から彼女の文章をよく読んでいた人間がいなかったか訊いてほしい」
「文章を?」
「日記でも、手紙でも、長文のメッセージでもいい」
僕は偽アカウントの画面を見た。
昔から知っていた。
だから、似せられるし、先回りできる。
「――たぶん、犯人はずっと前から彼女のことを知っている」




