一章(二)僕の知らない僕がいる
僕はしばらく食卓に置かれた夜食を眺めたあと、椅子に腰を下ろした。
普段なら、伊之坂が用意したものは食べる。腹が減っていようがいまいが、残せば翌朝に面倒なことを言われるからだ。
だが、その夜はどうにも食欲が湧かなかった。
「人間とは何だ、か」
口に出してみても、やはり馬鹿馬鹿しい。
人間とは何かなど、哲学者も宗教家も科学者も、長い年月をかけて散々考えてきた。それを、昨晩突然現れた猫に「答えを用意しておけ」と言われたのである。
理不尽にも程がある。
「……寝よう」
考えるだけ無駄だ。
そう結論づけて立ち上がったところで、廊下の向こうから爪の触れる音がした。
僕は足を止めた。
心臓が一度、大きく鳴る。
やがて暗がりから姿を現したのは、大きなゴールデンレトリバーだった。
「なんだ。ワトソン君か」
名前を呼ぶとワトソン君は尻尾を振り、こちらへ歩いてきた。
「まったく、驚かせないでくれたまえ」
頭を撫でると、当然のように鼻先を僕の手へ押しつけてくる。
その温かさに触れているうちに、少しだけ肩の力が抜けた。
「君はいいな。余計な質問をしない」
ワトソン君はこちらをじっと見つめた。
「それに、魂を食うなどと言わない」
分かってるのか分かってないのか、ワトソン君はパタパタと尻尾を振った。
「……もっとも、君なら僕の魂くらい食べても構わないが」
我ながら、かなり甘い発言だとは思う。
だが仕方がない。ワトソン君なのである。
あの猫とは違う。大いに違う。
僕はワトソン君を連れ、寝室へ向かった。
◇
翌朝。
一晩眠った結果、昨夜の出来事について僕は一つの結論を出した。
夢だったに違いない。
窓枠に残っていた足跡については説明がつかないが、世の中には説明のつかないことくらいある。その辺の野良猫が入り込んだのかもしれない。
僕の名前を呼び、人間とは何かと問い、幼少期の記憶にまで触れた部分については、夢。
そういうことにした。
「おはようございます、小太郎ぼっちゃま」
「おはよう」
朝食の席で、伊之坂がいつも通り紅茶を置いた。
「昨晩は、書斎の窓を開けておられたようですが」
僕はトーストへバターを塗る手を止めた。
「換気だ」
「雨天の深夜に?」
「空気というものは天候に関係なく入れ替えるべきだ」
「左様でございますか」
それ以上追及してこないところが、かえって気に障る。
「何だ」
「何も申しておりません」
「顔が言っている」
「長年お仕えしておりますと、顔でも会話ができるようになるもので」
「便利な技能だな。僕には不要だ」
足元ではワトソン君が伏せている。
僕がトーストを持ち上げるたび、視線だけが忠実についてきた。
「君にはやらないぞ」
尻尾が一度、床を叩いた。今にもくぅーんと鳴きそうな顔でこちらを見る。
「そんな顔をしても駄目だ」
もう一度。尻尾が大きく揺れた。
「……端だけだぞ」
「小太郎ぼっちゃま」
「何だ」
「先ほど、やらないと仰ったばかりでは」
「状況は常に変化するものだ」
ちぎったパンをワトソン君へ渡すと、伊之坂が小さく息を吐いた。
「それより、今日の予定は?」
「午前十一時に、お客様がお見えになります」
「聞いていないぞ」
「三日前にお伝えしました」
「そうか?」
「その際、小太郎ぼっちゃまは『適当に入れておいてくれ』と。記憶力のよい坊ちゃまのことですから、まさかお忘れになど」
「もちろん覚えているに決まってるだろう」
「はい」
伊之坂の返事には一分の隙もなかった。
一応、僕は作家であると同時に探偵でもある。
したがって、この家には名目上「犬山探偵事務所」なるものが存在している。
名目上、と言ったのは、実態としては応接間と僕の書斎、それから伊之坂の異様に行き届いた来客対応で成り立っているからだ。
看板だけは立派である。僕が頼んだ覚えはない。
「今回はどんな依頼だ。内容までは聞いてなかった」
「ええ。インターネット上のなりすましに関するご相談だそうです」
「伊之坂、今回は断ろう」
「まだ直接話を伺っておりませんが」
「僕はインターネットだのエスエヌ何たらに詳しくない」
「存じております」
「そこまで即答する必要はない」
ネット犯罪なら警察か専門家に相談すべきだ。探偵にできることとできないことがある。
「警察にも相談されたそうですが、今のところ金銭被害や脅迫などはないとのことです」
「なら運営会社だ」
「そちらにも連絡済みだそうです」
「ならば、ますます僕の出番はないはずだ」
「それが少々妙なことがあるそうで」
伊之坂の言葉に、紅茶を口へ運ぶ手を止めた。
「妙?」
「なりすましの投稿内容が、ご本人にあまりにも似ていると」
「本人になりすましているなら、似せるのは当然だろう」
「表面的な口調だけではないそうです。誰にも話していないことや、ご本人が心の中で考えていたことまで書かれている、と」
僕はカップを置いた。
「本人がそう思っているだけじゃないのか」
「その可能性も含めて調べてほしい、とのことです」
なるほど。
多少は探偵向きの話になってきた。
「そもそも、なりすましというのはそんなに簡単にできるものなのか?」
伊之坂が一瞬、黙った。
「何だ、その間は」
「名前と写真だけでしたら、それらしいものを作ること自体は難しくないかと」
「写真?」
「小太郎ぼっちゃまの公式アカウントにも多数ございます」
僕は眉を寄せた。
「僕の何だと?」
「公式アカウントでございます」
「……ああ」
そういえば、そんなものがあった。
出版社から、作家も発信が必要だと言われ、半ば強引に作られたものだ。
「あれ、まだあったのか」
「現在も更新されております」
「誰が?」
「編集部の方が」
「僕名義のアカウントなのにか?」
「運用をお任せになったのは、小太郎ぼっちゃまです」
伊之坂は端末を取り出し、画面をこちらへ向けた。
作家・犬山小太郎。
新刊の案内や掲載情報の合間に、僕の日常らしき投稿が並んでいる。
『今朝は少し冷えますね。ワトソン君は元気です。皆さまも暖かくしてお過ごしください』
「……僕はこんな薄ら寒いことを言ったか?」
「おっしゃってはいません」
「では、誰が書いた」
「編集ご担当者さまでしょう」
次の投稿には、見覚えのあるプリンが写っていた。
『締切前は甘いものが欲しくなります。今日は伊之坂が用意してくれたプリンで一息』
「おい、こんな情報どこから。……まさか、君まで関与しているのか」
「広報用のお写真が欲しいとのことでしたので」
「僕の知らないところで僕の日常を流通させるな」
さらに画面を進める。
『ワトソン君が原稿のそばから離れません。応援してくれているのでしょうか』
これは先月だ。
確かにワトソン君は、その日ずっと書斎にいた。
「文章は気に入らないが、内容としては間違っていないな」
「多くの読者の方から、小太郎ぼっちゃまらしいと好評だそうです」
「なお悪い」
僕はやや苛立ちながら、端末を伊之坂へ返した。
僕の名前で、僕の写真が使われ、僕が実際に経験したことが書かれている。
だが、僕は一文字も書いていない。
「本人が書いていないのに、本人らしいとはどういう意味だ」
「小太郎ぼっちゃまならこうお考えになるだろう、と皆さまがお考えになる内容なのでしょう」
「それは僕ではない。他人が考えた僕だ」
「そうとも申せますね」
――人間とは何だ?
昨夜の声が、不意に頭をよぎった。
僕は眉間を押さえた。
まったく、朝から不愉快な話ばかりだ。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
時計を見る。
十一時ちょうどだった。
「どうやら、お見えになったようですね」
伊之坂が立ち上がる。
僕はテーブルに置かれた端末をもう一度見た。
そこには、僕の知らない僕が、いかにも僕らしい顔をして存在している。
そして今から会う依頼人もまた、自分より自分らしい偽物に悩まされているという。
偶然にしては、少々出来すぎている。
――もっとも。
昨夜の猫に、そんな都合のいい筋書きを作る力があるとは思いたくなかったが。




