一章(一)たいへん古典的な脅迫
「……全く呆れた話だな」
僕は腕を組み、目の前の黒猫を睨んだ。
念のために言っておくが、僕は猫を招き入れたわけではない。
名前を呼ばれた瞬間、僕は多少なりとも驚いた。
それは認めよう。
しかし、驚いたことと怯えたことは、まったく別の問題である。
僕はただ、窓を開けて、二度と僕の名を呼ぶなと厳重に申し渡そうとしただけだった。
その隙に、黒猫は濡れた前脚を窓枠にかけた。
次の瞬間には書斎へ入り込み、床を横切り、ひらりと机の上へ飛び乗っていた。
しかも、よりによって原稿用紙の上に。
実に不愉快である。
「猫が喋る? ふん。そんなことがあるはずがない。つまりこれは夢だ」
僕は結論づけた。
「僕は今、非常にタチの悪い夢を見ている。そういうことだな」
「夢にしては」
黒猫が言った。
「お前の部屋は散らかりすぎていると思わんか」
「黙れ」
即答した。伊之坂の小言ならともかく、猫にまで口出しされる謂れはなかった。
「これは創作活動の副産物だ。整理整頓と引き換えに得られるものではない」
「床に転がっている、丸まった紙くずもか」
「没原稿だ。放っておけ」
黒猫は、ふ、と笑った。
——猫が笑うはずはない。
その常識は、この瞬間をもって静かに死んだ。
僕は机に手をついた。
落ち着け。こういうときこそ理性だ。
状況を整理する。
第一に、猫が喋った。
第二に、その猫は僕の名を知っている。
第三に、猫の態度が悪い。
「第四に」
黒猫が口を挟んだ。
「お前の整理は雑だ」
「人の思考に口を挟むな、黙ってろ」
「断る。お前の思考は他の人間よりも騒がしい上に、我々猫への偏見に満ちている」
僕は深く息を吸った。
……よろしい。ならば方針を変える。
夢であろうが幻覚であろうが、あるいは現実であろうが——
目の前に喋る猫が存在している以上、それを前提に思考するしかない。
「君は何だ」
僕は尋ねた。
「猫だと言っただろう」
「それは見ればわかる」
「ならば聞くな」
「僕が聞いているのは生物としての分類ではない。目的だ。なぜ僕の前に現れた」
黒猫は尻尾を一度だけ揺らした。
「お前に、問いに来た」
「問い?」
「そうだ」
猫は、ゆっくりと前脚をそろえた。
その仕草は妙に整っていた。
行儀がいい、というより——どこか儀式めいているように見えた。
「七つの問いだ」
その言葉で、部屋の空気がわずかに冷えた気がした。
雨音が遠のく。
時計の針の音だけが、やけに大きく響いた。
「一夜に一つ、我は問う。お前は答える」
黒猫は言った。
「答えられなければ、七日後にお前の魂を喰う」
「魂、ね」
僕は鼻で笑った。
「ずいぶん古典的な手法だな。悪魔ならもう少し現代的な契約様式を学びたまえ。電子署名の時代だぞ」
「安心しろ。契約など必要ない」
「なぜだ」
黒猫は、ほんのわずかに首を傾けた。
「お前の魂は、すでに半分ほど壁の中に置き忘れられている」
——壁の中。
喉が、ひゅっと鳴った。
指先が、知らず机の縁を掴んでいた。
その言葉はよくない。
非常に、よくない。
「……君は、何を知っている」
「さあな」
「答えろ」
「それはこちらの台詞だ」
猫は原稿用紙の上で姿勢を正した。
まるで裁判官だ。
いや、それよりも厄介だ。
裁判官は少なくとも、法律という枠組みに縛られている。
だがこいつには、それがない。
「第一の問いだ、犬山小太郎」
猫の言葉に、僕は椅子に座り直した。
逃げる、という選択肢は最初から存在しない。
逃げたところで、この手の連中は追ってくる。
それは文学的にも、そして経験則的にも明らかだった。
「いいだろう」
僕は万年筆を手に取った。
「君が問うというなら、答えてやる」
黒猫の目が、わずかに細くなる。
「ただし覚えておきたまえ。僕は犬山小太郎だ。そこらの凡庸な人間と一緒にされては困る」
「その自信が、いつまでもつかな」
「一晩では崩れんよ」
「七晩なら?」
僕は笑った。
笑うしかなかった。
「——受けて立とう」
黒猫は静かに言った。
「一つ目の問い。『人間とは何だ?』」
「ふん。ずいぶんと曖昧な問いだな。そんなものは昔から、人類がさまざまな側面から探求してきたことだ」
「知識で答えるな。定義で答えるな。お前の魂から出た言葉で答えろ。さもなければ、喰う」
「…………」
「ところで。お前はずいぶん幼いころに、ポーを読んだな」
僕の肩が、ぴくりと動いた。
「エドガー・アラン・ポー。とりわけ『黒猫』を」
「……ませた子どもだっただけだ」
「そうだな。ませた子どもは、怖いものに名前をつけたがる」
僕の肩が、ぴくりと動いた。
「壁の中から鳴く声を、お前は覚えているか、犬山小太郎」
静寂が落ちた。
雨の音だけが、窓の外で続いている。
僕の中から、余裕というものが消えていた。
「……何を言っている。誰なんだ、お前は」
「猫だと言ったろう」
「そんなことはわかっている」
「なら十分なはずだ。明日の夜、また来る。答えを用意しておけ」
猫はくるりと背を向け、開いたままの窓へ向かった。
「待て」
猫は止まらなかった。振り向きもしなかった。
ただ、夜の雨の中へと消えていった。
書斎に残された僕は、しばらく窓の外を見つめていた。
やがて、どさりと椅子に腰を下ろす。
「……夢だ。これは夢に違いない」
そう思いたかったが、窓枠には濡れた小さな足跡が残っていた。……そして、書斎の床にも。
僕は忌々しい痕跡を、丸めた没原稿で拭き取った。
ただでさえ出来の悪かった一文が、雨水で見るに堪えないものになった。
それでも、猫の足跡よりはましだったが。
書斎を出ると、伊之坂の姿はすでになかった。
食卓には、冷めかけた夜食だけが置かれていた。




