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物語のはじまり

 猫が嫌いだ。

 ——と、昨日までは思っていた。


 理由はいくらでもある。


 まず目つきが悪い。

 あの獣は、人間社会に一切貢献していないくせに、こちらの愚かさだけは最初から承知しているような顔をする。


 気に入らない。


 次に足音がしない。

 これは文明的な態度ではない。

 廊下を歩くなら歩くで、せめて存在を主張するべきだ。床を鳴らすなり、咳払いをするなり、最低限の礼節というものがあるはずだ。


 ——要するに、礼儀がなっていない。


 そして何より、猫は働かない。


 犬は働く。

 少なくとも、働こうという意志を見せる。


 吠える。嗅ぐ。待つ。尻尾を振る。


 人間という不完全な生き物に対して、実に寛大な態度で接してくれる。


 しかし猫は違う。


 あれは人間の庇護を受けながら、人間を庇護してやっているような顔をする。

 家に住みながら家主のように振る舞い、餌をもらいながら施しを受けてやったという顔をする。


 この点において、猫は僕と相性が悪い。


 なぜなら、僕こそがこの家の主であり、施しを与える側の人間だからである。


「小太郎ぼっちゃま。お夕食の支度が整いました」


 書斎の扉の向こうから声がした。伊之坂幸三だ。


 時刻は午後八時を少し過ぎたところ。

 窓の外では雨が降っている。細いが、妙に執念深い雨だ。空全体が誰かの悪口を小声で言い続けているような、陰気で湿った雨である。


 僕は机の上の原稿用紙から顔を上げた。


「伊之坂」


「はい」


「その呼び方はやめたまえ。僕はもう二十六だ。小太郎ぼっちゃまなどと呼ばれる年齢ではない」


「失礼いたしました、小太郎様」


「それも気色が悪い。戻せ」


「はい、小太郎ぼっちゃま」


「君は人の話を聞いているのか?」


「いつも拝聴しております」


 この老人の恐ろしいところは、こういうことを真顔で言う点にある。


 伊之坂幸三は、かつて犬山家に仕えていた執事である。

 今は定年を迎え、この三鷹の邸宅の離れで暮らしている。


 表向きには、僕が彼の生活費を出して面倒を見ているということになっている。

 実に美しい主従愛であり、僕の寛大さを示す佳話と言っていい。


 ——もっとも、世間は往々にして真実を逆さまに見る。


 たとえば編集者の影沼はこう言った。


「犬山さん、伊之坂さんがいなかったら三日で死にますよね」


 失礼な話だ。


 三日で死ぬはずがない。五日は持つ。


 ……いや、待て。洗濯機の使い方がわからないから四日かもしれない。


 ともかく問題は日数ではない。

 人間の価値は洗濯機の操作能力で決まるものではないのだ。


 少なくとも、世界文学は洗濯表示を読める人間によってのみ書かれてきたわけではない。


「ぼっちゃま」


「原稿は進んでおいでですか」


「愚問だな」


「では、進んでいらっしゃらないのですね」


「伊之坂。君は昔から結論に飛びつく癖がある」


「恐れ入ります」


 僕は椅子の背にもたれ、息を吐いた。


 机の上には、万年筆、原稿用紙、冷えた珈琲、そして白紙があった。


 ——白紙。


 小説家にとって、白紙ほど無情なものはない。


 こちらがこれほど知性と情熱を持って向き合っているというのに、向こうはただ白い。

 何ひとつ譲歩しない。誘惑もしない。妥協もしない。


 まるで、すでにこちらの敗北を知っているような顔をしている。


 白紙は、実に猫に似ている。


 そのとき。


 窓の外で、何かが鳴いた。


「にゃあ」


 低く、湿った声だった。


 僕は顔を上げた。


 書斎の窓の外。濡れた庇の上に、一匹の黒猫が座っていた。


 見事なほど黒い猫だった。

 夜の切れ端を丸めたような黒。雨に濡れているはずなのに、毛並みは妙に整って見える。


 二つの目だけが、暗がりの中で古い金貨のように光っていた。


 猫は僕を見ていた。


 実に失礼な態度である。


「ここは君の来る場所ではない」


 僕は窓越しに言った。


「僕は猫を招待した覚えがない。速やかに退去したまえ」


 黒猫は瞬きをした。


 ゆっくりと。


 まるで、こちらの発言を最後まで聞いたうえで、価値なしと判断したような瞬きだった。


「……全く」


 僕は舌打ちした。


 その目。


 昔も、そんなふうに思ったことがある。


 こちらの奥にあるものを、こちらより先に知っているような目。

 言い訳をする前から、すでに有罪を告げているような目。


 僕はカーテンを閉めようとした。


 そのときだった。


「犬山小太郎」


 猫が言った。

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