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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: 玉響すばる


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第37話「ミレーユ・ド・ロシャールの場合、その後」

 ミレーユの初恋は、六歳だった。


 ロシャール家の庭で、黒髪の少女が老騎士を転がした。


 その瞬間だった。


 名前も知らなかった。身分も知らなかった。


 ただ、目が離せなかった。


 それが始まりだった。


---


 三学期が始まって一週間が経った。


 学院の日常は変わっていた。


 イリスと四人の剣士が加わり、道場はさらに賑やかになっていた。


 ミレーユはその変化を、少し離れたところから見ていた。


 エルフィーナが道場でイリスに稽古をつけていた。


 イリスは熱心だった。高圧的なプライドを持ちながら、負けを認めて学ぼうとする姿勢があった。


 それはエルフィーナが初めて出会う種類の弟子だった。


 エルフィーナも、少し楽しそうだった。


 ミレーユはその顔を見た。


 好きだ、と思った。


 八年間、ずっとそう思ってきた。


---


 ミレーユには、決めていることがあった。


 誰にも言っていないことだった。


 レオンにも、言っていなかった。


 エルフィーナが幸せであれば、それでいい。


 それが表の答えだった。


 しかし裏に、もう一つの答えがあった。


 シグルトが不甲斐なければ、エルフィーナを連れて逃げる。


 それがミレーユの密かな決意だった。


---


 不甲斐ない、というのは具体的にどういうことか。


 ミレーユは自分なりに定義していた。


 エルフィーナを傷つけること。


 エルフィーナの武術を否定すること。


 エルフィーナが笑えなくなること。


 その時は、迷わない。


 エルフィーナの手を取って、二人で旅に出る。


 行き先はどこでもいい。


 エルフィーナが「強い相手がいる」と言った場所ならどこでも。


 それがミレーユの覚悟だった。


---


 現実のシグルトは、不甲斐なかった。


 不甲斐ない、という意味ではなかった。


 誠実だった。エルフィーナを真剣に見ていた。エルフィーナの武術を尊重していた。


 エルフィーナが笑える環境を、自然に作っていた。


 ミレーユはそれを認めていた。


 認めたくないところもあったが、認めていた。


 シグルトはエルフィーナに相応しい人間だった。


 それが、ミレーユにとって唯一の不満だった。


---


 昼食の時間、ミレーユはエルフィーナの隣に座った。


「エルフィーナ様、今日の稽古はいかがでしたか」


「よかった。イリス殿下の守りが少し固くなっていた」


「成長していますね」


「ああ。筋がある」


「四人はどうですか」


「クラウディアが守備型なのに攻めようとしている。それが面白い」


「課題を出したんですか」


「守りだけでは勝てないと言った。攻めを学ぶのに苦労している」


「そうですか」


 ミレーユはエルフィーナを見た。


 稽古の話をする時のエルフィーナの顔が好きだった。


 真剣で、迷いがなくて、少し嬉しそうで。


 この顔を守りたいと、ミレーユは思った。


 誰かが傷つけようとするなら、その前に連れて逃げる。


 それが今も変わらない覚悟だった。


---


 しかし今日は、別の顔も見た。


 昼食が終わって、シグルトがエルフィーナの隣に来た。


「今日の午後の稽古、一緒にいいか」


「ああ。二刀への対応を続けよう」


「ああ」


 シグルトが並んで歩き始めた。


 エルフィーナが少し、シグルトを見た。


 その顔が、稽古の顔とは少し違った。


 ミレーユはその顔を見た。


 何かを感じている顔だった。


 稽古相手を見る顔ではなかった。


 ミレーユはしばらくその背中を見ていた。


---


 レオンが隣に来た。


「ミレーユ様、どうですか」


「何がですか」


「今の顔です」


「どんな顔でしたか」


「複雑な顔でした」


 ミレーユは少し間を置いた。


「……エルフィーナ様の顔が変わっていますね」


「ええ」


「シグルト殿下を見る時の顔が、少し前と違います」


「気づいていましたか」


「気づいていました。少しずつ変わっています」


「それは……複雑ですか」


 ミレーユはしばらく考えた。


「複雑です。しかし」


「しかし?」


「嬉しいです。それも本当のことです」


「嬉しい、というのは」


「エルフィーナ様が変わっていくのを見るのは、嬉しいです。たとえそれが殿下への気持ちであっても」


「ミレーユ様は強いですね」


「強くなりました。エルフィーナ様に鍛えてもらったので」


 レオンは少し笑った。


「それは武術ですか」


「武術だけではありません」


---


 夕方、ミレーユは一人で中庭に出た。


 道場から稽古の音が聞こえた。


 エルフィーナとシグルトの二刀と剣の音だった。


 その音を聞きながら、ミレーユは考えた。


 駆け落ち、という言葉を、自分はどこで覚えたのか。


 前世の記憶はない。この世界で読んだ本の中にあった言葉だった。


 愛する人と、全てを捨てて逃げる。


 ミレーユはその言葉を読んだ時、エルフィーナのことを思った。


 しかし今日、もう一度その言葉を考えた。


 エルフィーナと逃げて、どこへ行くのか。


 エルフィーナが「強い相手がいる」と言った場所へ行く。


 ミレーユはその場所で何をするのか。


 エルフィーナの傍にいる。


 それだけだった。


 それだけで十分だった。


 しかし今のエルフィーナには、傍にいる人間がいた。


 シグルトがいた。


 その事実が、ミレーユの覚悟を少しずつ変えていた。


---


 変わった、というのはこういうことだった。


 以前の覚悟は、いつでも手を取れるように準備していた。


 しかし今の覚悟は、違う形になっていた。


 エルフィーナが幸せであれば、それでいい。


 シグルトが不甲斐なければ、連れて逃げる。


 この二つは変わっていなかった。


 しかし今は、もう一つ加わっていた。


 シグルトが誠実であれば、二人の幸せを見守る。


 それが新しい覚悟だった。


 見守る、というのは諦めではなかった。


 ミレーユはそう思っていた。


 エルフィーナが幸せな顔をする時、ミレーユも幸せだった。


 それが事実だった。


 だから見守ることも、ミレーユなりの愛し方だった。


---


 しかし。


 ミレーユは道場の音を聞きながら思った。


 シグルトが不甲斐ない日が来たら、迷わない。


 その覚悟は消えていなかった。


 消すつもりもなかった。


 それがミレーユの矜持だった。


 エルフィーナを傷つけることを許さない。


 誰であっても。


 たとえ王太子であっても。


---


 イリスが中庭に来た。


 ミレーユの隣に立った。


「一人でいましたか」


「ええ」


「道場の音を聞いていたのですか」


「そうです」


 イリスは道場を見た。


「エルフィーナと王太子の音ですね」


「ええ」


「あなたはエルフィーナのことが好きなのですか」


 ミレーユは少し間を置いた。


「はい」


「認めるのですか」


「認めています。六歳からです」


「長いですね」


「ええ」


 イリスはしばらく道場を見ていた。


「あなたは諦めているのですか」


「諦めていません」


「しかし王太子がいます」


「それでも諦めていません。ただ」


「ただ?」


「エルフィーナ様が幸せであることが、今は一番大事です」


「幸せであれば、それでいいということですか」


「そういうことです」


 イリスはしばらく黙った。


「……強い考え方ですね」


「エルフィーナ様に鍛えてもらいましたから」


「武術でなく」


「武術ではなく、気持ちの持ち方を」


「なるほど」


 イリスは少し間を置いた。


「私には、そういう人間がいません」


「誰かを好きになったことがないということですか」


「ありません。強い相手を求めているが、それは婿の条件であって、好きということとは違います」


「そうですか」


「あなたが言う好きというのは、どういうものですか」


 ミレーユはしばらく考えた。


「見ていたい、ということです」


「見ていたい」


「どこにいても、何をしていても、見ていたい。その人が笑っていると嬉しい。困っていると助けたい」


「……それが好きということですか」


「私にとっては、そうです」


 イリスはしばらく黙っていた。


「私にそういう感情があるかどうか、わかりません」


「わからなくていいと思います。いつかわかる日が来るかもしれません」


「エルフィーナも同じことを言っていました」


「言っていましたか」


「言葉は後から来る、と」


「……そうですね」


 二人は道場の音を聞いていた。


 二刀と剣の音が続いていた。


---


 夜、ミレーユは自室に戻った。


 窓を開けた。


 道場から素振りの音が聞こえていた。


 エルフィーナの音だった。


 一人の音だった。


 シグルトは戻ったのだろう。


 エルフィーナは一人で素振りをしていた。


 ミレーユはその音を聞いた。


 六歳の時から聞いてきた音だった。


 いつも変わらなかった。


 雨の日も、風の日も、暑い夏も、寒い冬も、エルフィーナは素振りをしていた。


 その変わらなさが、ミレーユには眩しかった。


 好きだ、と思った。


 諦めていない、と思った。


 しかし今夜は、それと同じくらい別のことも思った。


 エルフィーナが幸せでありますように。


 それが一番大事なことだった。


 駆け落ちの覚悟は、消えていなかった。


 しかしその覚悟が必要ない未来が来ることを、ミレーユは静かに願っていた。

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