第35話「三学期開始、あるいは隣国から剣姫が来た」
三学期が始まった。
学院に戻った初日、掲示板の前に人だかりができていた。
レオンが確認した。
「本学期より、隣国ヴァルハイム王国より王女殿下が留学される。全学院生は礼を尽くすこと。」
レオンは少し間を置いた。
「姉上、隣国から王女が留学してくるそうです」
「そうか」
「何か思うことはありますか」
「強いのか」
「……それだけですか」
「剣姫と呼ばれているそうだ。掲示板に書いてある」
「どこに書いてありますか」
「一番下だ」
レオンは掲示板の一番下を見た。
「なお、同殿下は剣姫の異名を持ち、ヴァルハイム王国最強の剣士として知られる。」
「……姉上、この一文を先に読んでいたんですね」
「そうだ」
「他は読まなかったんですか」
「剣姫かどうかが一番重要だ」
レオンは少し遠い目をした。
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昼前に、王女が学院に到着した。
正門から入ってきた時、学院中の生徒が見ていた。
銀髪だった。シグルトとは違う種類の銀色で、もっと明るく輝いていた。長く、腰まで流れていた。
背が高かった。エルフィーナと同じくらいの長身だった。
腰に剣を差していた。留学初日から帯剣していた。
顔が整っていた。しかし笑っていなかった。
護衛が二人、後ろについていた。
学院長が出迎えた。
「ようこそいらっしゃいました、イリス・フォン・ヴァルハイム殿下」
「案内しろ」
短かった。
挨拶がなかった。
学院長が少し固まった。
「は、はい。では教室へ」
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昼食の時間、談話室にレオン、ミレーユ、カイが集まった。
「見ましたか、王女殿下」カイが言った。
「見ました」レオンが言った。
「迫力がありましたね」
「ええ」
「銀髪で、背が高くて、剣を差していて」
「エルフィーナ様と似た雰囲気がありましたね」ミレーユが言った。
「確かに」カイが言った。「しかし違いますね」
「何が違いますか」
「エルフィーナさんは無自覚ですが、王女殿下は自覚している感じがします。自分が強いということを」
「なるほど」
レオンは少し考えた。
「今日中に、姉上と接触すると思います」
「なぜですか」
「剣姫と呼ばれている人間が、この学院に来れば、必ずエルフィーナ様を探します」
「エルフィーナさんもそうしますね」ミレーユが言った。
「姉上は既に探しています。今朝から」
「どうやって」
「気配を探っています。おそらく今日の午後には会います」
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午後の授業が終わった後だった。
廊下でイリスがエルフィーナの前に立った。
どちらが先に気づいたかは、わからなかった。
ただ、気づいた瞬間に二人が向き合っていた。
しばらく沈黙があった。
イリスが先に口を開いた。
「お前がアルカディアの令嬢か」
「そうだ」
「剣を使うと聞いた」
「使う」
「どのくらい使えるのか」
「使ってみれば分かる」
イリスはエルフィーナを見た。
品定めをする目だった。しかし品定めをされることに慣れていない目でもあった。
こちらを見てこない人間には慣れていても、真っ直ぐ見返してくる人間には慣れていない。
そういう目だった。
「手合わせを申し込む」
「いつだ」
「今すぐでも構わない」
「道場か、外か」
「どちらでも」
「では道場だ。木刀でいいか」
「真剣でも構わない」
「木刀にする。真剣は互いが本物だと確認してからだ」
イリスは少し間を置いた。
「……わかった」
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道場に人が集まった。
話が広まるのは速かった。
レオンが来た。ミレーユが来た。カイが来た。アロイスが来た。シグルトも来た。
シグルトはイリスを見て、少し目が変わった。
王族としての目だった。隣国の王女を見る、外交的な目だった。
「ヴァルハイムの王女殿下か」
「ヴァレンティアの王太子か」
「シグルト・フォン・ヴァレンティアです」
「イリス・フォン・ヴァルハイムだ。挨拶は後でいい。今は手合わせを見る」
シグルトは少し間を置いた。
「……わかりました」
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エルフィーナとイリスが向かい合った。
木刀を持った。
二人とも構えた。
イリスの構えは正統だった。ヴァルハイム流の剣術だろう。腰が低く、踏み込みの準備ができていた。
エルフィーナは居合の構えを取った。
イリスがそれを見て、少し目が動いた。見たことのない構えだった。
始まった。
イリスが踏み込んだ。速かった。
エルフィーナが動いた。
音が鳴った。
イリスの木刀がエルフィーナの木刀に当たって、弾かれた。
一合だった。
イリスが下がった。
また踏み込んだ。今度は角度を変えた。
エルフィーナが受けた。
二合。三合。十合。
二十合目で、エルフィーナの木刀がイリスの剣を絡め取り、首筋に当たった。
静止。
「……参った」
イリスは木刀を下げた。
顔が変わっていた。
驚いていた。驚くことに慣れていない顔だった。
「……もう一本」
「いいぞ」
三本打ち合った。
三本とも、エルフィーナが制した。
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イリスは木刀を置いた。
しばらく黙っていた。
「強い」
「そうか」
「私より強い。本国でこれほどの相手はいなかった」
「そうか」
「なぜそんなに強いのか」
「前世の記憶がある」
「前世」
「別の世界で武術を学んでいた。その記憶がある」
イリスはしばらく考えた。
「……信じがたい話だが、お前の動きを見れば信じざるを得ない」
「信じなくていい。事実として強さがある。それだけだ」
「一つ聞いていいか」
「言え」
「お前は何のために強くなるのか」
エルフィーナはしばらく考えた。
「強くなりたいから強くなる」
「それだけか」
「それだけだ」
「誰かのためではないのか」
「誰かのためという考えが、よくわからない」
イリスは少し間を置いた。
「私は婿を探しに来た」
道場が静かになった。
「婿か」
「そうだ。私より強い男でなければ、婿にしない。そう決めている」
「なるほど」
「おかしいか」
「おかしくない」エルフィーナは言った。「私も似たようなことを考えていた」
イリスは少し驚いた顔をした。
「お前も婿を探しているのか」
「婿ではない。しかし前世で、兄たちがそう言っていた」
「どう言っていたのか」
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エルフィーナは少し考えた。
「前世の兄たちは、私を嫁にやるには兄たちより強い男でなければ嫁に出さないと言っていた」
「兄たちより強い男か」
「ああ。しかし私は前世で兄たちに勝てなかった」
「では嫁に行けなかったということか」
「そうだ。前世では誰にも嫁がなかった。十八で死んだ」
イリスはしばらくエルフィーナを見た。
「……それは、お前が強すぎたからか」
「兄たちが強すぎたのかもしれない」
「その兄たちより強い男が現れたら、どうするつもりだったのか」
「わからない。しかし兄たちが認めた人間なら、信頼できると思っていた」
イリスは少し黙った。
「私も同じだ。私が認めた人間でなければ、信頼できない」
「そうか」
「しかし今のところ、私に勝てる男はいなかった」
「この学院にいるか」
「わからない。だから来た」
エルフィーナはしばらく考えた。
「手合わせをすればわかる」
「そうだ」
「この学院には強い人間がいる」
「お前が保証するのか」
「ああ」
イリスはエルフィーナを見た。
「……お前は正直だな」
「嘘をついても意味がない」
「そうだな」
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シグルトが進み出た。
「イリス殿下、よろしければ手合わせを」
イリスはシグルトを見た。
「ヴァレンティアの王太子か」
「はい」
「婿候補として申し込むわけではないだろう」
「純粋に手合わせを、ということです」
「わかった」
始まった。
シグルトは本気だった。
冬休みの稽古の成果が出ていた。
イリスも本気だった。先ほどエルフィーナに三本負けて、引いていた気持ちを切り替えていた。
十合。二十合。三十合。
三十五合目で引き分けになった。
二人が同時に木刀を下げた。
イリスはシグルトを見た。
「……強い」
「ありがとうございます」
「エルフィーナほどではないが、本物だ」
「エルフィーナに稽古をつけてもらっています」
「なるほど。道理で」
イリスは少し考えた。
「ヴァレンティアの王太子は婚約者がいると聞いた」
「はい。エルフィーナです」
イリスはエルフィーナを見た。
「……お前が婚約者か」
「そうだ」
「お前より弱い男を婚約者にしたのか」
「殿下は別の意味で強い」
「別の意味とは」
「計算ができる。場を読める。待つことができる。私にはないものだ」
イリスはしばらく黙った。
「……なるほど。武術だけが強さではない、ということか」
「私もそれを最近知った」
「最近か」
「ああ。前世では武術だけが強さだと思っていた。しかし今世で、別の強さがあると気づいた」
イリスはエルフィーナを見た。
その目が少し変わっていた。
敵意でも、ライバル心でもなく、何か別のものが混ざっていた。
「……お前と話すのは、面白い」
「そうか」
「この学院にいる間、手合わせを続けていいか」
「いいぞ。強くなりたいなら来い」
「負けたままでいるつもりはない」
「それでいい」
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レオンはその会話を聞きながら、少し遠い目をしていた。
ミレーユが隣に来た。
「レオン様、大丈夫ですか」
「何がですか」
「また面倒なことになりそうな顔をしています」
「面倒なことになりそうです」
「何がですか」
「イリス殿下が、エルフィーナ様の道場生になる気がします」
「まだ手合わせをしただけですよ」
「姉上が『強くなりたいなら来い』と言いました」
「ええ」
「これはもう道場生です」
ミレーユは少し間を置いた。
「……そうですね」
「外国の王女が道場生になるんですよ」
「エルフィーナ様らしいですね」
「ゴドフリーはまた覚書を書き足しますね」
「七冊目がすぐに終わりそうですね」
レオンは空を見た。
三学期が始まって初日だった。
仕方ない、と思った。
今日の「仕方ない」は、呆れた色が強かった。
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カイがアロイスに小声で言った。
「アロイス様、王女殿下、強かったですね」
「ああ。エルフィーナには負けたが、本物だった」
「婿を探しに来たと言っていましたね」
「ああ」
「俺たちも候補になりますか」
「身分的には難しいだろう。俺は伯爵家だが、ヴァルハイムの王女には」
「俺は平民なので論外ですね」
「……しかし強さで示すという話だったな」
「そうですね。強くなれば話は変わりますか」
「エルフィーナが保証した。この学院には強い人間がいると」
「俺たちのことも含まれていますかね」
「含まれていると思いたい」
「では稽古を続けましょう」
「修正した。婿候補として申し込む前に、まず強くなる」
カイは少し笑った。
「アロイス様、目標が増えましたね」
「多い方がいい。強くなる理由が増えた」
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夜、シグルトがレオンに声をかけた。
「レオン、今日のイリス殿下をどう思う」
「強い方ですね。そしてプライドが高い」
「ああ。しかしエルフィーナと話した後、少し変わった」
「見ていました。目が変わりましたね」
「あの人は、自分より強い人間と話したことがなかったのかもしれない」
「そうかもしれません」
「エルフィーナとイリス殿下の間に、何かが生まれそうだ」
「稽古仲間ですか」
「それ以上かもしれない」
レオンは少し考えた。
「ライバルでしょうか」
「ライバル、というより」シグルトは静かに言った。「お互いに、初めて出会った種類の相手かもしれない」
「どういう意味ですか」
「エルフィーナにとっては、自分に近い思考を持つ人間。イリス殿下にとっては、自分を超えた人間」
「なるほど」
「三学期が面白くなりそうだ」
「……殿下にとっては面白いかもしれませんが、私にとっては仕事が増えます」
シグルトは少し笑った。
「いつもご苦労だ、レオン」
「ありがとうございます」
「ただ、一つだけ安心していいことがある」
「何ですか」
「イリス殿下がエルフィーナへのライバル心を燃やしている。しかしその方向は、婚約者への嫉妬ではない」
「……それは、どういう意味ですか」
「剣士として超えたい、という気持ちだ。それはエルフィーナが一番よく理解できる感情だ」
「そうですね」
「だから二人の関係は、複雑にはならない。単純だ」
「単純に、道場生になるということですね」
「そうなると思う」
レオンは少し間を置いた。
「……外国の王女が道場生になるんですよ」
「ゴドフリーは喜ぶだろうな」
「七冊目が今日中に終わりますよ」
シグルトはまた笑った。
困ったような笑いだった。




