第34話「冬休み終盤、あるいは別れの前の話」
冬休みが残り一週間になった。
侯爵領の空気が少し変わった。
変わった、というのは寂しい意味だった。
帰る日が近づいていた。
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その朝、ジークハルトが来た。
門番のカルロスが走ってきた。
「お嬢様、旅の剣客がお見えです。ジークハルト殿と名乗っております」
エルフィーナは素振りを止めた。
「来たか」
「ご存知の方ですか」
「ああ。通せ」
カルロスが戻った。
レオンがエルフィーナの隣に来た。
「ジークハルトというのは」
「以前手合わせをした剣聖だ。また会うと言っていた」
「約束していたんですか」
「していた。しかしいつ来るかは言わなかった」
「突然ですね」
「旅の剣客はそういうものだ」
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ジークハルトが門をくぐった。
三十代、長身で黒髪だった。旅装のままだった。腰に長剣を差していた。
エルフィーナを見て、少し笑った。
「また会ったな」
「来るのが遅い」
「旅の途中でな。各地を回っていた」
「どこへ行っていた」
「東の国境沿いだ。強い相手が何人かいた」
「それは羨ましい」
「お前も旅に出るんだろう。卒業後に」
「そうだ。どこかで会うかもしれない」
「会った時は手合わせをしよう」
「望むところだ」
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シグルトがジークハルトを見ていた。
レオンの隣に立って、二人の会話を聞いていた。
「あの方が剣聖と言われているジークハルト殿か」
「はい。姉上と百合以上打ち合って負けた方です」
「百合以上」
「ええ」
「エルフィーナに百合以上持った人間がいるのか」
「あの方だけです。他は大体三十合以内です」
シグルトはジークハルトを改めて見た。
立ち方が違った。旅装のままだったが、剣客としての気配があった。
「手合わせを申し込んでいいか」
「殿下が、ですか」
「ああ。あの人がどれほど強いか確かめたい」
「エルフィーナ様に百合以上持った人ですよ」
「わかっている。だからこそ確かめたい」
レオンは少し間を置いた。
「……ご自由にどうぞ」
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道場で手合わせが始まった。
エルフィーナとジークハルトが向かい合った。
全員が見ていた。
ゴドフリーが手帳を開いた。
「エルフィーナお嬢様、今の動き、もう一度お願いできますか」という言葉を、ゴドフリーは今日何回言うことになるだろうかとレオンは思った。
始まった。
ジークハルトは速かった。
前回より速い気がした。各地を旅して、さらに磨いてきた証拠だった。
エルフィーナは二刀で応えた。
黒嵐と白露。前回は黒嵐一本だった。
ジークハルトが二刀への対応を即座に変えた。さすがだった。
十合。二十合。五十合。
七十合目で、エルフィーナの黒嵐がジークハルトの剣を弾いた。
静止。
「……参った」
ジークハルトが剣を下げた。
「前回より速くなっているな」
「白露が加わった」
「二刀か。やりにくくなった」
「次に会う時はさらに変わっている」
「楽しみだ」
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シグルトが進み出た。
「ジークハルト殿、一本お願いできますか」
ジークハルトはシグルトを見た。
「王太子殿下か」
「そうです。エルフィーナに稽古をつけてもらっています」
「なるほど」ジークハルトは少し考えた。「いいだろう」
始まった。
シグルトは本気だった。エルフィーナとの稽古で磨いた複合戦術を全部出した。
ジークハルトは受けた。
二十合。三十合。
三十五合目で、シグルトの剣が止まった。
「……参った」
シグルトは剣を下げた。
ジークハルトはシグルトを見た。
「強いな。エルフィーナに稽古をつけてもらった、というのは本当だな」
「ありがとうございます」
「三十五合持てれば、王国でも上位だ」
「エルフィーナには届かないですが」
「あれには誰も届かない」ジークハルトは笑った。「それでいい。隣に立てる強さがあれば十分だ」
シグルトは少し間を置いた。
「……隣に立てる強さ、ですか」
「ああ。誰かの隣に立ちたいなら、その人の力になれる強さがあればいい。追い越す必要はない」
シグルトはその言葉を聞いた。
しばらく黙っていた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。旅で会った時にまた手合わせをしよう」
「はい」
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エルヴィンがジークハルトに話しかけた。
「ジークハルト殿、一つ聞いていいですか」
「何だ」
「旅をして、強くなれたか」
「なれた」
「どうやって強くなったか」
ジークハルトは少し考えた。
「負け続けた」
「負け続けた?」
「強い相手と戦って、負けて、また戦った。その繰り返しだ」
「それだけで強くなれるのか」
「それだけだ。しかし」
「しかし?」
「負けた時に何を学ぶかが大事だ。ただ負けるだけでは強くならない」
エルヴィンはしばらく考えた。
「……俺は長い間、兄と比べて負けていた」
「そうか」
「しかし最近、それが変わった」
「何が変わったんだ」
「比べることをやめた。エルフィーナに言われた言葉のおかげだ」
ジークハルトはエルフィーナを見た。
「あの人は、そういうことを言うのか」
「言う。しかし本人は覚えていない」
「そうだろうな」ジークハルトは笑った。「あの人は言葉より動きで教える。言葉は後から来る」
「それはどういう意味だ」
「傍にいると、自然に変わる。それがエルフィーナという人間だ」
エルヴィンはしばらく黙った。
「……俺もそう感じている」
「ならばわかっているじゃないか」
「何がですか」
「傍にいることで、お前は変わった。それが答えだ」
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夕方、ジークハルトが去った。
「また旅で会おう」エルフィーナが言った。
「ああ。その時は白露への対応を考えてくる」
「楽しみにしている」
ジークハルトは門をくぐった。
振り返らなかった。
旅人らしかった。
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夜、イゾルデがエルフィーナを呼んだ。
今冬最後の話し合いだった。
レオンはその前に、イゾルデに声をかけた。
「母上、今夜の話し合いは」
「大丈夫です、レオン」
「何を話すつもりですか」
「最後に一つだけ確認します」
「何を確認しますか」
「エルフィーナが自分の言葉を見つけたかどうかです」
「昨日、殿下に何か伝えたようです」
「知っています」イゾルデは静かに言った。「見ていました」
「……見ていたんですか」
「縁側から少し見ていました。二人の様子が違ったので」
「何か変わっていましたか」
「エルフィーナの顔が変わっていました。刀を持った顔でも、稽古をする顔でもなかった」
「どんな顔でしたか」
「……自分の言葉を持った人の顔でした」
レオンはしばらく黙った。
「そうですか」
「レオン、あなたはどう思いますか」
「姉上が変わっていることは、わかります」
「それだけですか」
「……複雑ではあります。しかし」
「しかし?」
「姉上が変わっていくのを見るのは、悪くないと思うようになりました」
イゾルデはレオンを見た。
「あなたも変わりましたね」
「そうかもしれません」
「いい変わり方です」
「ありがとうございます」
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書斎でイゾルデとエルフィーナが向かい合った。
「最後の話し合いです」
「何を話すのか」
「一つだけ聞きます」
「はい」
「殿下への気持ちを、言葉にできましたか」
エルフィーナはしばらく考えた。
「少し来た」
「どんな言葉が来ましたか」
「殿下がここにいてよかった、と思った。それを伝えた」
イゾルデは少し間を置いた。
「殿下は何と言いましたか」
「それは刀と同じくらい好きとは違う言葉だ、と言った」
「そうですね。違います」
「どう違うのか、まだ完全にはわからない」
「わからなくていいです」
「そうか」
「言葉は少しずつ来ます。焦らなくていい」
「……母上」
「はい」
「一つ聞いていいか」
「何ですか」
「母上は父上のことを、どう好きか」
イゾルデは少し止まった。
「……突然ですね」
「前世の兄たちのことを考えていた。父上のことを考えていた。好きにも種類があると思った」
「そうですね。種類があります」
「母上は父上のことを、どういう種類で好きか」
イゾルデはしばらく考えた。
「傍にいることが当然になった人、です」
「それは私が殿下に言った言葉と似ている」
「そうですね」
「では母上も、父上のことを刀と同じような感情で好きなのか」
イゾルデは少し笑った。
「違います。刀は傍にいなくても困りません。あの人は傍にいなければ困ります」
エルフィーナはしばらく考えた。
「……殿下がいなければ困る、という気持ちがあるか、考えた」
「あります、と思いましたか」
「……ある気がした」
「それが答えです」
「そうか」
「旅に出る前に、もう一度その言葉を殿下に伝えなさい」
「刀と同じくらい好き、ではなく」
「そうです。今日言えた言葉で十分です。殿下はわかってくれます」
エルフィーナはしばらく黙った。
「……わかった」
「それだけでいいです」
「話し合いはこれで終わりか」
「終わりです」
「母上」
「はい」
「話し合いをしてくれてありがとう。よくわからないことが、少しずつわかってきた」
イゾルデは静かに笑った。
「あなたがちゃんと考えてくれたからです」
「考えるのは得意ではない。しかし殿下のことは考えたくなった」
「それが一番大事なことです」
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その夜、レオンは縁側に座っていた。
ミレーユが隣に来た。
「今日は色々ありましたね」
「ええ。ジークハルト殿が来て、母上との話し合いがあって」
「エルフィーナ様の顔が、また変わりました」
「そうですね」
「今冬一番の顔でした」
「どんな顔でしたか」
「……何かを決めた顔でした」
レオンは道場の方向を見た。
素振りの音がしていた。
エルフィーナの音と、もう一つの音だった。
「ミレーユ様」
「はい」
「冬休みが終わりますね」
「ええ」
「この一ヶ月で、色々なことがありました」
「そうですね」
「姉上が変わりました。シグルト殿下が変わりました。エルヴィン殿下が変わりました。カイさんとアロイス様が変わりました」
「レオン様も変わりました」
「そうですか」
「ええ。最初の頃より、穏やかです」
レオンは少し考えた。
「……仕方ない、という言葉の意味が変わってきているのかもしれません」
「どう変わりましたか」
「諦めではなく、受け入れる言葉になってきている気がします」
「それは、いい変化だと思います」
「そうかもしれません」
素振りの音が続いていた。
冬休みが終わる前夜だった。
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翌朝、出発の準備が始まった。
荷物をまとめて、馬車を並べて、全員が正門に集まった。
ゴドフリーが手帳を持って立っていた。
ソフィアが道場の掃除を終えて出てきた。
ルカが走ってきた。
「お嬢様、また来ますか」
「来る。春になったら」
「待っています」
「稽古を続けろ」
「はい」
ルカは少し頷いた。
テオが来た。
「踏み込み、続けています」
「わかっている。ゴドフリーから報告が来る」
「次来た時に見てください」
「見る」
エルフィーナは全員を見渡した。
「また来る」
それだけだった。
しかし全員が頷いた。
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馬車に乗る前、シグルトがエルフィーナに近づいた。
「エルフィーナ」
「はい」
「一ヶ月、世話になった」
「殿下が来てよかった」
「そう思うか」
「ああ。稽古が充実した」
シグルトは少し笑った。
「それだけか」
エルフィーナはしばらく考えた。
「……殿下がいてよかった。それも本当のことだ」
シグルトは静かに言った。
「ありがとう」
「今学期が終わったら、国王陛下に会いに行くか」
「ああ。三学期の間に話をする」
「一緒に行くか」
「……来てくれるか」
「旅の許可申請だ。私も当事者だ」
「そうだな」
シグルトは少し間を置いた。
「では一緒に行こう」
「ああ」
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馬車が動き出した。
レオンは窓から侯爵領を見た。
道場が小さくなっていった。
ゴドフリーが手を振っていた。
ソフィアが礼をしていた。
ルカが走って馬車を追いかけていた。
レオンは窓から手を振った。
ルカが止まった。
小さくなっていった。
ミレーユが隣に座っていた。
「いい冬休みでしたね」
「ええ」
「また帰ってきたいですね」
「また来ます。春に」
「楽しみですね」
「ええ」
馬車が王都に向かって走っていた。
車輪の音が規則的に続いていた。
三学期が、始まろうとしていた。




