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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: 玉響すばる


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第33話「冬休み後半、あるいは領地が少しずつ変わっていった」

 冬休みが始まって一ヶ月が経った。


 侯爵領の空気が変わっていた。


 変わった、というのは悪い意味ではなかった。


 何かが積み重なっていた。


---


 レオンが最初に気づいたのは、道場の音だった。


 以前は朝の素振りの音はエルフィーナ一人だった。


 今は複数の音がした。


 シグルトが加わり、エルヴィンが加わり、カイが加わり、アロイスが加わった。


 全員が夜明け前から動いていた。


 誰も強制していなかった。


 ただ、エルフィーナが毎朝そこにいた。


 それだけだった。


 レオンは縁側でお茶を飲みながら、その音を聞いていた。


 ゴドフリーが隣に来た。手帳を持っていた。


「若、おはようございます」


「おはようございます、ゴドフリー。今日も書くんですか」


「朝の素振りから記録しております」


「何時から起きているんですか」


「お嬢様が起きる前から起きております」


「……何時ですか」


「夜明けの二刻前です」


 レオンは少し遠い目をした。


「ゴドフリー、睡眠は取れていますか」


「問題ありません。記録すべきことがある間は眠れます」


「逆では」


「若、お嬢様の武術体系は眠れなくなるほど深い。それが答えでございます」


 ゴドフリーは手帳を開いて書き始めた。


 レオンはお茶を一口飲んだ。


---


 その朝、道場でエルヴィンが変わった瞬間があった。


 エルヴィンはシグルトと並んで素振りをしていた。


 エルフィーナが二人の動きを見ていた。


「エルヴィン、右肩が上がっている」


「はい」


「修正しろ」


 エルヴィンは修正した。


「……今のだ」エルフィーナが言った。


「今の、ですか」


「今の肩の位置が正しい。毎回その位置で振れるようにしろ」


 エルヴィンは素振りを続けた。


 十回。二十回。


 三十回目で、音が変わった。


 シグルトが少し止まった。


 エルフィーナも見ていた。


「……変わったな」エルフィーナが言った。


「変わりましたか」


「音が変わった。体の使い方が変わった証拠だ」


 エルヴィンはしばらく黙った。


「……今のが正しいのか」


「そうだ」


「今まで間違えていたのか」


「間違いではない。しかし今の方が速い。威力も上がる」


 エルヴィンは素振りを止めた。


 しばらく自分の右肩を見た。


「……エルフィーナ」


「何だ」


「一つ聞いていいか」


「言え」


「俺が変わったと思うか。領地に来てから」


 エルフィーナはしばらく考えた。


「変わった」


「どう変わったか」


「兄上と並んで素振りをするようになった」


「それだけか」


「それだけではない。音が変わった。体が変わった。しかしそれより、目が変わった」


「目が」


「以前は斜め下を見ていた。今は前を見ている」


 エルヴィンはしばらく黙った。


「……そうか」


「ああ」


「エルフィーナに言われた言葉のおかげだ」


「何を言ったか覚えていないが」


「比べる必要はない。お前の強さはお前のものだ、と言った」


「そうか」


「覚えていないのか」


「私はそういうことをよく言う」


 エルヴィンは少し笑った。


「そうだな。しかしその言葉が、俺を変えた」


「変わったのはお前自身だ。言葉は道具に過ぎない」


「……そうかもしれない。しかし道具をくれたのはお前だ」


 エルフィーナはしばらく考えた。


「では、使いこなせるようになったのはお前の力だ」


「ありがとう」


「礼はいらない。強くなれ」


---


 ゴドフリーはそのやり取りを手帳に書き留めた。


 レオンが覗いた。


「全部聞いていたんですか」


「聞こえました」


「聞こえた、というのは」


「道場の外から聞こえました。意図して聞いたわけではございません」


「はい」


「しかし記録すべき言葉でした」


「何ページになりましたか」


「今日だけで十四ページです。まだ朝の稽古しか終わっていません」


「今日は何冊目を使い切りますか」


「六冊目が今日中に終わるかもしれません」


 レオンは遠い目をした。


「七冊目に入るんですね」


「お嬢様が動いている限り、冊数は増えます」


「そうですね」


---


 午前の稽古が終わった後、ミレーユがエルヴィンに話しかけた。


「殿下、今朝の素振り、変わりましたね」


「聞いていたか」


「見ていました。音が変わった瞬間がわかりました」


「エルフィーナにも指摘された」


「あの瞬間、殿下の顔が変わりました」


「そうか」


「嬉しそうな顔でした。しかし兄上を見ていない顔でした」


 エルヴィンは少し止まった。


「どういう意味だ」


「いつもは兄上と比べているような顔をしていました。しかし今朝は自分だけを見ている顔でした」


「……気づいていたのか」


「エルフィーナ様の周りにいると、人の変化に気づきやすくなります」


「なぜだ」


「エルフィーナ様が、いつも人の変化を見ているからだと思います。それが伝わってくるんです」


 エルヴィンはミレーユを見た。


「お前も変わったな、ロシャール」


「そうですか」


「初めて会った時より、目が穏やかだ」


「……そうかもしれません」


「何があったんだ」


 ミレーユは少し間を置いた。


「エルフィーナ様がいれば、それで十分だと思えるようになりました」


「それだけで穏やかになれるのか」


「それだけでは、ないかもしれません。しかしそれが一番大きいです」


 エルヴィンはしばらく考えた。


「俺もそういう境地に至れるだろうか」


「どういう境地ですか」


「誰かがいれば、それで十分だと思える境地だ」


「……いつかは至れると思います」


「その誰かが、まだわからないが」


「わからなくてもいいと思います。わかる日が来ます」


 エルヴィンは道場を見た。


「ミレーユ、お前はエルフィーナのことが好きなんだな」


「はい」


「それは認めているのか」


「認めています」


「俺には正直に言えるな」


「殿下も正直に話してくださるので」


 エルヴィンは少し笑った。


「そうか。では俺も正直に言う」


「はい」


「俺もエルフィーナのことが好きだ。しかし兄上が先だ。それは変わらない」


「わかっています」


「わかっていたか」


「馬車の中の話は聞いていませんが、殿下の行動を見ていればわかります」


「……全員、察しがいいな」


「エルフィーナ様の周りにいると、そうなります」


---


 昼食を全員で取った後、カイとアロイスが自主練を始めた。


 今日のテーマは体術の組み込みだった。


 エルフィーナに課題として出されて以来、二人で研究を続けていた。


 カイが踏み込んで、魔力を集めながら体術で崩した。


 アロイスが受けて、剣と体術で返した。


 五合。十合。


 十五合目で、カイが新しい動きを試みた。


 魔力を足に集めて踏み込みを加速させながら、同時に右手で相手の重心を崩した。


 アロイスが崩れた。


 カイが制した。


「……今の動きは」アロイスが言った。


「エルフィーナさんの踏み込みを参考にしました。魔力を足に集める応用です」


「魔力と体術を同時に使ったのか」


「試してみました。うまくいきました」


「……それは複合戦術の新しい形だ」


「そうかもしれません」


「バルディ教官に見せると喜ぶだろうな」


「学院に戻ったら見せます」


 アロイスは少し間を置いた。


「カイ、お前は本当に伸びるな」


「アロイス様も伸びています」


「俺は技術を磨いている。しかしお前は新しいものを作っている。それは違う」


「エルフィーナさんがそういう稽古をしているので、自然と考えるようになりました」


「エルフィーナの影響か」


「ええ。あの人は稽古をしながら常に考えています。それを見ていると、自分も考えるようになります」


 アロイスはしばらく考えた。


「……修正した」


「何をですか」


「お前への評価を修正した。入学当初は平民だと思っていた。今はただの稽古仲間だ」


「それは嬉しいですね」


「稽古仲間として言う。今日の動き、俺にも教えてくれ」


「喜んで」


---


 ゴドフリーがその自主練も記録していた。


 レオンが声をかけた。


「ゴドフリー、今日は本当に全部記録するつもりですか」


「記録すべきことが次々と起きております」


「六冊目は終わりそうですか」


「夕方までに終わります。七冊目に入ります」


「今日だけで一冊使い切るんですか」


「お嬢様の冬休み一ヶ月分の記録は、過去最多になります」


「何冊になりますか」


「六冊目が終わり七冊目に入りますので、この冬休みだけで三冊使いました」


「三冊」


「お嬢様が動くほど、冊数が増えます」


「そうですね」


 レオンは少し考えた。


「ゴドフリー、覚書はいつか本になりますか」


「なるべきものだと思っています」


「エルフィーナ流武術の記録として」


「はい。後世の人間が読んで、お嬢様の武術体系を理解できるように書いています」


「それはいつになりますか」


「お嬢様が旅を終えた後でしょう。旅の記録も加えてから、まとめるつもりでいます」


「旅の記録も付けていくつもりですか」


「当然です。旅に同行しなければ書けません」


 レオンは少し止まった。


「……ゴドフリーも旅に同行するつもりですか」


「若もご一緒されるのでしょう」


「……そうですね」


「では問題ありません」


「問題しかない気がしますが」


「若、お嬢様の旅に問題がなかったことは一度もありません」


「そうですね」


「ならば今更です」


 レオンは遠い目をした。


---


 夕方、シグルトがエルフィーナに話しかけた。


 道場の縁側だった。


 稽古が終わって、二人並んで座っていた。


「エルフィーナ」


「はい」


「冬休みも残り二週間だ」


「そうだな」


「学院に戻ったら、三学期が始まる」


「ああ」


「その後、卒業だ」


「そうだ」


 シグルトは少し間を置いた。


「旅に出る前に、父上に会いに行く」


「国王陛下にか」


「ああ。許可を取る必要がある」


「難しいか」


「わからない。しかしエルヴィンが言った通り、話してみる」


「エルヴィンが何と言ったか」


「父上は笑うと思う、と言っていた」


 エルフィーナはしばらく考えた。


「国王陛下は、笑うのか」


「エルヴィンはそう思っているらしい」


「なぜ」


「父上がお前のことを評価しているからだ。稽古に誘いますと言った時、笑っていたそうだ」


「そうか」


「ああ」


 エルフィーナはしばらく黙った。


「殿下、一つ聞いていいか」


「何だ」


「旅に出ることを、本当にいいと思っているか」


「いいと思っている」


「王太子として、問題はないか」


「問題はある。しかし解決できると思っている」


「なぜそう思えるのか」


 シグルトはエルフィーナを見た。


「お前がいるからだ」


「私がいると、問題が解決できるのか」


「お前と一緒にいると、解決できない問題がない気がする」


 エルフィーナはしばらく考えた。


「それは買いかぶりではないか」


「そうかもしれない。しかしそう思える、というのは事実だ」


 エルフィーナはシグルトを見た。


 困ったような笑いだった。


 見ていたい、と思った。


「殿下」


「何だ」


「その笑いを見ると、また見ていたいと思う」


「……知っている」


「しかし今日は少し違う気がした」


「どう違う」


「いつもは見ていたいと思うだけだった。しかし今日は、殿下がここにいてよかったと思った」


 シグルトは少し止まった。


「……今、何と言った」


「殿下がここにいてよかった、と思った」


「それは、いつから思っていた」


「今日、初めて言葉にした。しかしいつからそう思っていたかは、わからない」


 シグルトはしばらく黙っていた。


 夕暮れが道場に差し込んでいた。


「エルフィーナ」


「はい」


「それは、刀と同じくらい好き、とは違う言葉だ」


「そうか」


「ああ」


「どう違うのか」


「刀はここにいてよかった、とは思わない」


 エルフィーナはしばらく考えた。


「……そうだな」


「ああ」


「では、刀とは違う種類の言葉だということか」


「そうだと思う」


 エルフィーナは少し間を置いた。


「……イゾルデが言っていた。言葉は後から来る、と」


「ああ」


「今日、少し来た気がする」


「そうか」


「まだ全部は来ていない。しかし今日来た言葉は、伝えた」


 シグルトは静かに言った。


「……ありがとう」


「礼はいらない」


「いや、これは礼を言う」


 エルフィーナはシグルトを見た。


 困ったような笑いではなかった。


 静かな、真剣な顔だった。


 見ていたい、と思った。


 こちらの方が、困ったような笑いより珍しかった。


---


 レオンはその会話を聞いていなかった。


 しかしミレーユが夕食の席で小声で言った。


「レオン様、今日の夕方、二人の様子が違いました」


「何がですか」


「エルフィーナ様の顔が違いました。稽古の顔ではありませんでした」


「……どんな顔でしたか」


「何かを伝えた後の顔でした」


 レオンは少し間を置いた。


「……そうですか」


「複雑ですか」


「……今日は、複雑ではないです」


「本当に?」


「本当に。姉上が少しずつ言葉を見つけているのは、よいことだと思います」


「そうですね」


「今日の『仕方ない』は、穏やかです」


 ミレーユは静かに笑った。


「レオン様も変わりましたね」


「そうですか」


「冬休みが始まった頃より、穏やかです」


「領地の空気かもしれません」


「そうかもしれませんね」


---


 夜、ゴドフリーが七冊目を開いた。


 レオンが覗いた。


「今日は何ページ書きましたか」


「六冊目の残りと七冊目合わせて、二十八ページです」


「今日だけで」


「はい。今日は特に記録すべきことが多い日でした」


「一番印象に残ったことは何ですか」


 ゴドフリーは少し考えた。


「エルヴィン殿下の素振りの音が変わった瞬間です」


「それが一番ですか」


「はい。武術の記録として、あの瞬間は特別でした」


「夕方の縁側の話は」


「記録しておりますが、それはお嬢様の武術体系の記録ではなく、お嬢様の人としての記録です」


「別に書いているんですか」


「はい。武術の記録と、人としての記録を、分けて書いております」


「そんな分類があったんですか」


「この冬休みから始めました。お嬢様が変わってきているので、記録の仕方も変えました」


 レオンはしばらく覚書を見た。


「……ゴドフリーは、本当にすごいですね」


「恐縮です」


「姉上のことを、私より深く見ています」


「若も深く見ています。ただ、近すぎて見えないことがあるのだと思います」


「近すぎて、ですか」


「遠くから見ると見えるものが、近くにいると見えないことがあります。それはどちらが正しいというものではありません」


 レオンは少し考えた。


「……そうですね」


「若はお嬢様の最も近くにいます。それは誰にも代えられないことです」


「ありがとうございます、ゴドフリー」


「恐縮です、若」


 ゴドフリーは七冊目に書き続けた。


 夜が更けていた。


 道場から素振りの音が聞こえた。


 エルフィーナの音と、もう一つの音だった。


 二つの音が重なっていた。

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