第32話「冬休み中盤、あるいは領地で起きたいくつかのこと」
冬休みが始まって二週間が経った。
侯爵領の日常は、王都とは違う速さで流れていた。
朝は素振りの音で始まり、昼は道場の喧騒があり、夜は全員で食事を取って眠る。
レオンはその繰り返しの中で、いくつかのことに気づいていた。
---
まず、シグルトが変わっていた。
王都にいる時のシグルトは、常に王太子だった。護衛が傍にいて、言葉を選んで、周囲への配慮があった。
しかし領地に来てから、少し違った。
朝の素振りをエルフィーナと並んでする。道場でハインツ副長や騎士団員と稽古する。昼食を全員と同じテーブルで取る。夜は書斎でエルフィーナの稽古計画を一緒に確認する。
それが自然になっていた。
レオンはある朝、縁側に座りながらその光景を見ていた。
道場からエルフィーナとシグルトの素振りの音が聞こえていた。
二つの音が、少しずつ重なるようになっていた。
仕方ない、と思った。
今日の「仕方ない」は、穏やかだった。
---
次に、エルヴィンが変わっていた。
最初の一週間は、シグルトと距離があった。同じ道場にいながら、自然に並ぶことが少なかった。
しかし二週目から、少しずつ変わった。
稽古の後、シグルトとエルヴィンが並んで縁側に座っていることがあった。
レオンが通りかかると、二人が話していた。
「兄上、今日の白露への対応はどうだったか」
「まだ右足が遅れる。エルフィーナに指摘された」
「俺は左の受けが甘いと言われた」
「課題が違うな」
「そうだな。しかし」
「しかし?」
「同じ師に同じ課題をもらうのは、悪くない」
シグルトは少し間を置いた。
「ああ、悪くない」
レオンはその会話を聞きながら通り過ぎた。
馬車の中の二人が、少しずつ近づいていた。
---
イゾルデがエルフィーナを書斎に呼んだのは、冬休み二週目の終わりだった。
レオンは呼ばれなかった。
しかし翌朝、エルフィーナの顔が少し違っていた。
何かを考えているような顔だった。稽古の計画を立てている顔とも、武術について考えている顔とも違った。
レオンは朝食の席でエルフィーナの隣に座った。
「昨夜、母上と話していましたか」
「ああ」
「どんな話でしたか」
「殿下への気持ちについてだ」
「……また話し合いがあったんですか」
「今回は短かった。一つだけ言われた」
「何を」
エルフィーナは少し間を置いた。
「言葉は後から来る。しかし感じることは今できる。その感覚を大切にしなさい、と言われた」
「……どう思いましたか」
「よくわからなかった。しかし考えている」
「何を感じましたか」
「殿下が領地にいることが、当然のような気がしてきた」
「当然、というのは」
「朝起きると道場に殿下がいる。稽古が終わると隣で食事を取る。夜は稽古計画を一緒に確認する。それが普通になってきた」
「普通になってきた、というのは」
「いなかったらどうなるかと少し考えた。稽古相手が減る、というだけではない気がした」
レオンは少し止まった。
「……それが、殿下への気持ちかもしれません」
「そうか」
「もう少し考えてみてください」
「わかった」
エルフィーナは朝食に戻った。
レオンは窓の外を見た。
今日の「仕方ない」は、昨日より少し重かった。
---
その日の午後、ミレーユがレオンに話しかけた。
「レオン様、今朝エルフィーナ様と話していましたね」
「ええ」
「どんな話でしたか」
「殿下への気持ちについて、少し変化があったようです」
「どう変化しましたか」
「殿下がいることが当然になってきた、とおっしゃっていました。いなかったら困る気がする、と」
ミレーユはしばらく黙った。
「……それは、大きな変化ですね」
「ええ」
「刀と同じくらい好き、から一歩進みましたね」
「そうだと思います」
「殿下が喜ぶといいですね」
「そうですね」
ミレーユは窓の外を見た。
道場からカイとアロイスの稽古の音が聞こえていた。
「レオン様」
「はい」
「複雑ですか、今日は」
「……今日は少し複雑です」
「正直ですね」
「ミレーユ様には嘘をついても仕方ないので」
「私も複雑です。しかし」
「しかし?」
「エルフィーナ様が変わっていくのを見るのは、嬉しいです。それは本当のことです」
「ええ、私もそう思います」
二人は少し黙った。
道場の音が続いていた。
---
カイとアロイスは、午後の自主練を続けていた。
カイが魔力の持続を鍛える練習をしていた。エルフィーナに課題として出されていた長期戦への対応だった。
アロイスが体術と複合戦術を組み合わせる練習をしていた。こちらもエルフィーナからの課題だった。
二人が向かい合った。
「一本やるか」カイが言った。
「ああ」
始まった。
カイの魔力の持続が、入学当初より格段に上がっていた。長期戦になっても落ちなかった。
アロイスの体術が、二学期とは別物だった。剣と魔法と体術が滑らかに組み合わさっていた。
二十合打ち合った。
引き分けだった。
二人が同時に木刀を下げた。
「……引き分けか」カイが言った。
「ああ」
「アロイス様、体術が上手くなりましたね」
「お前の持続力も上がった。長期戦で落ちなかった」
「エルフィーナさんの課題を続けた結果ですね」
「そうだな」
アロイスは少し間を置いた。
「カイ、一つ聞いていいか」
「何ですか」
「お前は平民だから、エルフィーナに身分を気にせず接している。それが羨ましかった時期がある」
「……そうですか」
「俺は最初、身分があったから余裕があった。しかし今は逆だ。身分があるから、できないことがある気がする」
「どういうことですか」
「エルフィーナへの気持ちを、立場なしに表現できない」
カイは少し間を置いた。
「俺も同じですよ」
「お前も」
「平民だから気持ちを伝えられない、という壁が俺にはある。身分の壁は逆方向ですが、壁があることは同じです」
「そうか」
「だから強さで示すしかないと思っています。強くなって、隣に立てるくらいになって、それから考えます」
アロイスはしばらく考えた。
「……俺も同じにするか」
「強さで示す、ですか」
「ああ。それしかない気がしてきた」
「では一緒に強くなりましょう」
「修正した」
カイは少し笑った。
「アロイス様、その言葉、最近よく言いますね」
「間違いを直すのに、長い言葉は要らない」
「エルフィーナさんの影響ですか」
「……そうかもしれない」
---
夕方、ゴドフリーが縁側に座って覚書を書いていた。
レオンが声をかけた。
「ゴドフリー、六冊目はどこまで進みましたか」
「本日で三十ページです」
「六冊目に入って何日ですか」
「十五日です」
「十五日で三十ページ」
「今日の午後のカイさんとアロイス様の自主練が特に記録に値しました」
「あの二人の稽古を見ていたんですか」
「見ていました。二人が引き分けた瞬間を書き留めました」
「引き分けだったんですか」
「はい。入学当初からは考えられない成長です。お嬢様の道場の成果として後世に伝えなければなりません」
「ゴドフリーは本当に全部見ているんですね」
「見なければ書けません」
レオンは覚書を覗いた。
細かい字で、丁寧に書いてあった。
「今日は何が一番印象に残りましたか」
「三つあります」
「三つも」
「一つ目は朝のエルフィーナお嬢様とシグルト殿下の素振りです。二つの音が重なり始めていました」
「気づいていたんですか」
「二つ目はエルヴィン殿下とシグルト殿下が縁側で並んでおられた場面です。王子方の会話を記録するわけにはまいりませんが、並んでおられるお姿は記録いたしました」
「三つ目は」
「カイさんとアロイス様の会話です」
「会話を聞いていたんですか」
「聞こえました。強さで示す、という言葉が印象に残りました」
「……全部見て、全部聞いているんですね」
「お嬢様の周りで起きることは、全て記録に値します」
レオンは少し間を置いた。
「ゴドフリー、一つ聞いていいですか」
「何でしょうか」
「私のことも、覚書に書いていますか」
ゴドフリーは少し間を置いた。
「書いています」
「何を書いていますか」
「若はエルフィーナお嬢様の最も近くにいる人間として、お嬢様を支え続けています。その姿を記録しています」
「それだけですか」
「……それだけではありません」
「何を書いていますか」
「若の『仕方ない』という言葉の意味が、少しずつ変わってきていることも書いています」
レオンは少し止まった。
「……ゴドフリーは気づいていたんですか」
「気づいておりました」
「いつからですか」
「初めてその言葉を聞いた時からです」
レオンはしばらく黙った。
「……何も言わなかったんですね」
「言う必要がなかったからです。若が自分で気づくべきことでした」
「そうですか」
「はい。しかし」
「しかし?」
「若がどう選んでも、私は記録し続けます。それが私の役目です」
レオンは覚書を見た。
細かい字で、全てが書いてあった。
「……ありがとうございます、ゴドフリー」
「恐縮です、若」
---
夜、全員で食事を取った。
テーブルが賑やかだった。
カイが今日の自主練の話をした。エルヴィンがシグルトに今日の稽古の課題を聞いた。アロイスが明日の稽古計画を確認した。ミレーユがルカのおかわりを注いだ。ペドロが次の料理を運んできた。
エルフィーナは黙って食べていた。
しかしその顔が、少し違った。
レオンはその顔を見た。
周りを見ている顔だった。
全員を見渡して、何かを感じている顔だった。
ガルディアスが言った。
「エルフィーナ、今日はどうだった」
「よかった」
「何がよかった」
エルフィーナはしばらく考えた。
「全員がいる」
「それだけか」
「それだけだ。しかしそれが、よかった」
ガルディアスはさすがだと言おうとした。
しかしイゾルデが先に言った。
「そうですね。よかったです」
エルフィーナはイゾルデを見た。
「母上もそう思うか」
「思います」
エルフィーナはしばらく黙った。
「……そうか」
それだけだった。
しかしその「そうか」が、いつもと少し違った。
レオンにはわかった。
シグルトにもわかった顔だった。
テーブルが賑やかなまま、夜が続いた。




