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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: 玉響すばる


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第31話「領地道場の一日、あるいは王太子が度肝を抜かれた」

 冬休み初日の夜明け前、道場に灯りがついた。


 レオンが目を覚ますと、すでに素振りの音が聞こえていた。


 いつも通りだった。


 しかし今日は音が二つあった。


 窓から覗くと、エルフィーナとシグルトが並んで素振りをしていた。


 夜明け前の道場で、二人が黙々と動いていた。


 レオンはしばらく見ていた。


 それから窓を閉めた。


 今日から二ヶ月。長い冬休みが始まった。


---


 夜明けの鐘が鳴る前、道場に人が集まり始めた。


 門番のカルロスとヴィクター、護衛のマルクス、侯爵領騎士団の面々、拾われた子たちが整列した。


 それを見てシグルトが少し止まった。


「……あの騎士団は」


「侯爵領騎士団です」レオンが隣で言った。


「全員、道場生でもある」


「はい。エルフィーナ様の稽古相手を続けています」


「立ち方が違う」


「王国騎士団の基準より練度が高いと言われています」


 シグルトはハインツ副長を見た。


 三十代半ば、がっしりした体躯。木刀を持って整列していた。その立ち方は、学院の教官たちとも違った。


「あの副長、名前は」


「ハインツ副長です。領内では一番腕が立つと言われています」


「エルフィーナと何合打ち合える」


「以前は三十合程度でした。今はもう少し伸びているかと」


「三十合か」


 シグルトは少し考えた。


 大会でアロイスが三十合持ったことを思い出した。アロイスは同学年の中では群を抜いていた。


 その水準の人間が、領地の副長として普通にいる。


「……エルフィーナの周りには、そういう人間が集まるんだな」


「集めているつもりはないと思いますが」


「そうだろうな」


---


 エルフィーナが全員の前に立った。


「始めるぞ」


 その一言で、全員の背筋が伸びた。


 シグルトはその瞬間を見ていた。


 王太子として人前に立つことは多かった。しかしあれほど自然に人を束ねる立ち方は、見たことがなかった。


 命令ではなかった。


 ただ、そこにいた。


 それだけで全員が動いた。


---


 稽古が始まった。


 基礎の型から入り、徐々に実戦形式へ移行する流れはいつも通りだった。


 しかし今日は人数が多かった。


 騎士団員、道場生、拾われた子たち、カイ、アロイス、ミレーユ、シグルト、エルヴィン。総勢四十名を超えていた。


 ゴドフリーが手帳を開いた。


 レオンはその手帳を見た。


「ゴドフリー、今日は何ページ書くつもりですか」


「書き終えるまで書きます」


「何冊目になりますか」


「五冊目が今日中に終わるかもしれません」


「今日中に」


「人数が多い分、記録すべきことも多い」


 レオンは遠い目をした。


---


 カイが騎士団員の隣に立った。


 相手はマルクス、護衛の一人だった。二十代後半、魔法と剣術を組み合わせた戦い方をする。


「よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 始まった。


 マルクスの動きは、学院の生徒とは明らかに違った。実戦経験の厚みがあった。魔力の使い方に無駄がなかった。


 カイは押された。


 しかし下がらなかった。


 夏休みと二学期の稽古の成果が出ていた。押されながら相手の動きを読んだ。隙を見つけた。


 踏み込んだ。


 マルクスが崩れた。


 カイが制した。


 マルクスは少し驚いた顔をした。


「……学院の生徒か」


「はい。エルフィーナさんに稽古をつけてもらっています」


「それはわかる」マルクスは言った。「動きにお嬢様の癖が出ている」


「癖、というのは」


「隙を見つけてから踏み込むまでの速さだ。お嬢様は相手の動きを読んでから動く。それを学んだんだろう」


 カイはしばらく考えた。


「……言われてみれば」


「エルフィーナお嬢様に習った弟子は、みんなその癖が出る。悪い癖ではない。むしろ強みだ」


---


 アロイスは騎士団員の中でも練度が高い一人と組んでいた。


 その騎士団員は四十代、ベテランだった。


「クロイツェル家のご嫡男がここで稽古されるとは」


「世話になる」アロイスが言った。


「こちらこそ」


 始まった。


 ベテランの動きは重かった。経験と体力が噛み合った、王国騎士団出身らしい正統な剣術だった。


 アロイスは受けた。複合戦術で対応した。


 三十合打ち合った。


 アロイスが制した。


 ベテランは木刀を下げた。


「……お強い。学院でお習いになりましたか」


「学院の授業と、エルフィーナの稽古だ」


「お嬢様に」


「ああ。大会で三十合打ち合った」


「三十合ですか」


「それでも負けた」


 ベテランは少し笑った。


「お嬢様に三十合持てれば、王国でも指折りの実力です」


「そうか」


「ただし」


「ただし?」


「お嬢様は今日、全員を相手にします。俺たちは毎日そこに挑んでいます。まだまだ先があります」


 アロイスはしばらく考えた。


「……それを言えるのが、ここの騎士団か」


「そうです」


「なるほど」


 アロイスは道場を見渡した。


 全員が真剣に稽古をしていた。


 学院とも、王国騎士団とも違う空気があった。


 エルフィーナ流、という言葉の意味が、少しわかった気がした。


---


 午前の稽古が終わった後、エルフィーナが全員を集めた。


「今日の前半が終わった。全員の現状を確認した。各自に課題を伝える」


 一人ずつ名前を呼んだ。


 ハインツ副長から始まった。


「ハインツ、左の防御が甘い。右利きの癖が出ている」


「はい」


「カルロス、間合いの精度は上がった。次は判断の速さだ」


「はい」


 騎士団員を全員回った後、カイを呼んだ。


「カイ、今日のマルクスとの稽古を見ていた。踏み込みのタイミングが一学期より速くなった」


「ありがとうございます」


「しかし魔力の持続が課題だ。長期戦になると落ちる」


「わかりました」


「アロイス、複合戦術の精度が上がった。体術を組み込む練習を今日の午後から始める」


「はい」


 最後にシグルトを見た。


「殿下、今朝の素振りで右肩の入り方が変わっていた」


「気づいたか」


「白露への対応を研究した結果か」


「ああ。左からの攻撃に対応するために変えた」


「なるほど。午後の稽古でその修正が正しいかどうか確認する」


「頼む」


---


 昼食を全員で取った。


 大きなテーブルに、騎士団員、道場生、カイ、アロイス、ミレーユ、シグルト、エルヴィン、レオンが並んだ。


 ペドロが作った食事だった。


 シグルトは向かいに座ったハインツ副長に話しかけた。


「ハインツ副長、何年エルフィーナに稽古をつけてもらっているのか」


「お嬢様が学院に入る前から、四年ほどです」


「四年間、毎日か」


「毎日ではありませんが、週に三、四度は」


「それだけ続けて、強くなれたか」


 ハインツは少し考えた。


「正直に言えば、お嬢様には今も全く届きません。しかし」


「しかし?」


「四年前の自分とは別人です。お嬢様の稽古を受けてから、王国騎士団に戻っても同僚に負けなくなりました」


「それほど変わるのか」


「お嬢様の稽古は、技術だけでなく考え方を変えます」


「考え方を」


「相手を読む、隙を作る、体の力を無駄なく使う。技術として教えてくれますが、それが体に入ると、物事の見方が変わります」


 シグルトは少し間を置いた。


「……エルフィーナ流武術、か」


「ゴドフリー様はそう呼んでいます」


「俺もそう感じている。稽古をするたびに、自分の見えていなかったものが見えてくる」


「殿下もそうですか」


「ああ」


 ハインツは少し笑った。


「では殿下も、お嬢様の弟子の一人ですね」


 シグルトは少し間を置いた。


「……そうかもしれない」


---


 午後の稽古が始まった。


 エルフィーナが組手の相手を次々と変えながら動いた。


 ハインツ、カルロス、マルクス、カイ、アロイス、シグルト。


 全員が入れ替わり立ち代わりエルフィーナと向き合った。


 ゴドフリーは手帳に書き続けた。


 書いて、書いて、また書いた。


 レオンが覗いた。


「ゴドフリー、何ページになりましたか」


「現在三十七ページです」


「今日だけで」


「はい。今日は記録すべきことが多い」


「五冊目が終わりそうですか」


「今日中に終わります。六冊目に入ります」


「覚書が六冊に」


「お嬢様の武術体系は、記録してもしても追いつかない深さがあります」


 ゴドフリーの手が止まらなかった。


---


 夕方、最後の組手が始まった。


 エルフィーナ対ハインツ副長だった。


 全員が手を止めて見た。


 エルフィーナが黒嵐と白露を両手に構えた。


 ハインツが木刀を構えた。


「ハインツ、今日学んだことを全部出せ」


「はい」


 始まった。


 ハインツは速かった。四年間の積み重ねが出ていた。左への対応も以前より早かった。


 エルフィーナは二刀で動いた。


 黒嵐で攻め、白露で受ける。白露で誘い、黒嵐で仕留める。


 シグルトはその動きを見ていた。


 二刀に対する対応を学んでいたが、実際に見ると改めて難しさがわかった。


 どちらかに意識を向ければ、もう一方が来る。


 二十合。


 三十合。


 三十五合目で、ハインツの木刀が弾かれた。


 静止。


「……参った」


 ハインツは膝をついた。


 エルフィーナは二刀を下げた。


「今日は三十五合だった。先週より五合増えた」


「ありがとうございます」


「白露への対応が少し速くなった。しかしまだ黒嵐に引きずられている。左右を独立して読む練習をしろ」


「はい」


「毎日続けろ。必ず変わる」


---


 ゴドフリーがその一部始終を書き留めた。


 手が震えていた。感動で。


「エルフィーナお嬢様、今日の二刀の動き、もう一度お願いできますか」


「いいぞ、ゴドフリー。どこが見たいか」


「二十合目から三十五合目の流れを」


「ハインツ、もう一度来い」


「は、はい」


 もう一度始まった。


 ゴドフリーは書き続けた。


---


 稽古が終わった後、全員で夕食を取った。


 シグルトがレオンに小声で言った。


「今日、驚いた」


「何がですか」


「領地の騎士団の練度だ。王国騎士団の基準を超えている者が何人もいる」


「姉上の稽古の結果です」


「四年でここまでになるのか」


「毎日続けてきた結果ですから」


「……エルフィーナが旅に出たら、この騎士団はどうなるんだろう」


「ゴドフリーが覚書を元に稽古を続けると思います」


「覚書で再現できるものなのか」


「ゴドフリーはそのために書き続けています」


 シグルトは道場を見た。


 稽古が終わっても、カイとアロイスがまだ自主練をしていた。騎士団の若い一人が壁際で型を練習していた。ルカが踏み込みの反復をしていた。


「……エルフィーナがいなくても、稽古が続いている」


「それがエルフィーナ流だと思います」


「なるほど」


 シグルトは静かに言った。


「あの人は、行く先々でこれを作るんだろうな」


「旅でも、きっとそうなると思います」


「そうだろうな」


 シグルトは夕食に戻った。


 その顔が、少し遠くを見ていた。


---


 夜、ゴドフリーが覚書の整理をしていた。


 レオンが覗いた。


「ゴドフリー、五冊目は終わりましたか」


「はい。本日で五冊目が完了しました。明日から六冊目に入ります」


「今日一日でどのくらい書きましたか」


「四十三ページです」


「四十三ページ」


「過去最多でした」


「何が一番記録に値しましたか」


 ゴドフリーは少し考えた。


「シグルト殿下とエルヴィン殿下が、ハインツ副長以下の騎士団員と同じ道場で稽古をした日のことを、後世に伝えなければならないと思いました」


「なぜですか」


「エルフィーナ流武術は、身分を超えて人を変える。今日それが証明されました」


「証明、というのは」


「王太子が平民出身の少年と同じ稽古をして、同じ課題を受け取った。それが当然のこととして行われた。これはエルフィーナお嬢様がいなければあり得なかったことです」


 レオンはしばらく考えた。


「……そうですね」


「後世の人がこの覚書を読んだ時、エルフィーナ流武術とはそういうものだったとわかるように書きました」


「ゴドフリーの覚書は、本当に大切なものになりますね」


「恐縮です。しかしお嬢様の武術が本物である限り、記録し続けます」


 ゴドフリーは六冊目を開いた。


 新しいページが白かった。


 明日もまた、書き続けるだろう。


---


 その夜、エルフィーナは一人で道場に残っていた。


 素振りをしていた。


 黒嵐と白露、二刀での素振りだった。


 シグルトが道場の入口に立った。


「まだいたのか」


「ああ。今日の稽古を整理していた」


「何を整理している」


「二刀の動きだ。ハインツとの組手で気づいたことがある」


「何を気づいた」


「黒嵐と白露を別々に動かすより、一体として動かした方が速い。しかし体がまだ慣れていない部分がある」


「どこだ」


「左手の白露を使う時、右手が無意識に止まる。前世では一刀だったから、その癖が残っている」


「修正できるか」


「できる。繰り返せばいい」


 シグルトは道場に入った。


「俺も一緒にやっていいか」


「いいぞ。殿下も今日の稽古で気づいたことがあるか」


「ある。白露への対応で、右足の踏み込みが遅れる癖がある」


「見ていた。明日の稽古で直す」


「今日から始めよう」


「……殿下は急ぐな」


「時間があるうちにやりたい」


 エルフィーナはシグルトを見た。


「なぜ急ぐのか」


「旅に出たら、二人で稽古できる時間が減るかもしれない」


「減るか?一緒に行くのだから、むしろ増えるのでは」


「……そうだな」


 シグルトは少し笑った。


 困ったような笑いだった。


 エルフィーナはその笑いを見た。


 見ていたい、と思った。


「殿下」


「何だ」


「その笑いを見るとまた見ていたいと思う」


「……知っている」


「今夜も見た」


「そうか」


「いつ見ても、見ていたいと思う」


 シグルトは空を見た。


「エルフィーナ」


「はい」


「一つだけ聞いていいか」


「はい」


「旅に出る前に、俺に何か言いたいことはあるか」


 エルフィーナはしばらく黙った。


 イゾルデに言われた言葉を思い出した。


 言葉にしなさい。刀と同じくらい好き、ではなく。


「……今は言葉が見つからない」


「そうか」


「しかし見つけたら言う」


「約束か」


「約束だ」


 シグルトは頷いた。


「では待つ」


「待たせてすまない」


「待つのは慣れている」


 二人は並んで道場に立った。


 夜の素振りが始まった。


 二刀と剣が、夜の静寂の中で風を切った。

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