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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: 玉響すばる


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幕間「馬車の中の兄弟」

 馬車は王都を出て、しばらく走っていた。


 シグルトとエルヴィンは向かい合って座っていた。


 護衛は外に乗っていた。馬車の中は二人だけだった。


 しばらく、どちらも口を開かなかった。


 景色が流れていた。冬の平原が続いていた。


 先に口を開いたのはシグルトだった。


「エルヴィン」


「何だ」


「一つ、話しておきたいことがある」


 エルヴィンはシグルトを見た。


「珍しいな。兄上から話しかけてくることが」


「そうか?」


「いつもは俺から話しかけても、兄上は静かに答えるだけだった」


「……そうだったかもしれない」


「エルフィーナに会ってから変わったな、兄上」


 シグルトは少し間を置いた。


「そうかもしれない」


「で、何の話だ」


---


 シグルトは窓の外を見た。


 平原が続いていた。


「卒業後の話だ」


「卒業後」


「エルフィーナが修行の旅に出ると言っている」


「知っている。俺も一緒に行くつもりだ」


「それは聞いていた」シグルトは言った。「俺も行くつもりだ」


「兄上も」


「ああ」


 エルヴィンはしばらく黙った。


「……それは、王太子として問題があるのではないか」


「ある。だから考えていることがある」


「何を考えている」


 シグルトは静かに言った。


「王位継承権を、お前に渡すことを考えている」


---


 馬車の中が静かになった。


 エルヴィンはシグルトを見た。


 シグルトは窓の外を見ていた。平静な顔だった。


「……本気で言っているのか」


「ああ」


「なぜだ」


「エルフィーナの旅に同行するためには、王太子としての立場が邪魔になる。俺が王太子のままでは、どこへ行っても政治が絡む。あの人の旅を、俺の立場で汚したくない」


「それだけの理由で継承権を」


「それだけではない」


 シグルトはエルヴィンを見た。


「お前の方が、王に向いているかもしれない」


 エルヴィンは少し止まった。


「……何を言っている」


「俺は天才だと言われてきた。何でもできた。しかしそれは、王として必要なものとは別の話だ」


「どういう意味だ」


「王には、人の痛みがわかる必要がある。俺は長い間、人の痛みを理解できていなかった。何でもできたから、できない人間の気持ちがわからなかった」


「それが今は違うのか」


「エルフィーナに会って、少し変わった。しかしお前は最初から、できないことの痛みを知っていた」


 エルヴィンはしばらく黙った。


「……兄上と比べられ続けたからな」


「そうだ。その経験が、王として民の痛みを理解する力になると思っている」


---


 エルヴィンは窓の外を見た。


 しばらく景色を見ていた。


 それから言った。


「断る」


「なぜだ」


「兄上が王になるべきだからだ」


「俺が言ったことを聞いていたか。俺より」


「聞いていた。しかし違う」


 エルヴィンはシグルトを見た。


「兄上は今、エルフィーナのために継承権を渡そうとしている」


「そうだ」


「それが答えだ」


「意味がわからない」


「誰かのために何かを捨てられる人間が、王に向いている」


 シグルトは少し止まった。


「……それは」


「俺はまだそこまでいけない。俺は今、自分のために強くなりたいと思っている。エルフィーナの弟子として、旅に出たいと思っている。それは俺のためだ」


「弟子として、旅に」


「ああ。エルフィーナが修行の旅に出るなら、俺も一緒に行く。しかしそれは俺の強さのためだ。兄上のように、誰かのために立場を捨てる覚悟は、まだない」


---


 シグルトはしばらく黙っていた。


「エルヴィン、お前はいつからそういうことを考えるようになった」


「エルフィーナに会ってからだ」


「そうか」


「あの人は何もしていないのに、俺を変えた。兄上と比べることをやめて、自分の強さを探すようになった。それはあの人のおかげだ」


「ああ」


「だから兄上が継承権を渡すなら、俺は受け取らない。兄上が王になるべきだ。エルフィーナと旅をして、帰ってきて、王になればいい」


「旅の間は誰が」


「父上がまだいる。父上に頼めばいい。父上もエルフィーナのことを認めている。旅の間くらい待てるはずだ」


 シグルトはしばらく考えた。


「……父上に相談したことはあるか」


「ない。しかし」


「しかし?」


「父上は笑うと思う。さっさと行ってこいと言うと思う」


 シグルトは少し間を置いた。


「……根拠はあるか」


「エルフィーナが国王陛下に稽古に誘いますと言った時、陛下が笑っていた。あの人を認めている証拠だ」


「それは確かに」


「だから話してみろ。継承権を渡すより、旅に出る許可を取る方が話が早い」


---


 しばらく沈黙が続いた。


 馬車の車輪の音だけが聞こえた。


 シグルトが言った。


「エルヴィン、一つ聞いていいか」


「何だ」


「お前はエルフィーナのことを、どう思っている」


 エルヴィンは少し間を置いた。


「師として尊敬している」


「それだけか」


「……それだけではないかもしれない。しかしそれは今言う話ではない」


「なぜ」


「兄上が先だからだ」


 シグルトはエルヴィンを見た。


「……俺が先、というのは」


「兄上がエルフィーナの婚約者だ。俺が何かを言う前に、兄上がきちんとしなければならない」


「きちんとする、というのは」


「エルフィーナに、ちゃんと伝えることだ。刀と同じくらい好き、という言葉では足りないと思う」


「……聞いていたのか」


「聞こえた」


 シグルトは少し笑った。


「そうか」


「兄上が先だ。俺はその後の話だ」


「その後、というのは」


「その後があるかどうかもわからない。ただ、今は兄上が先だ」


---


 シグルトはしばらく黙っていた。


 それから静かに言った。


「エルヴィン」


「何だ」


「ありがとう」


「礼はいらない」


「しかし」


「エルフィーナに言われた言葉を返しているだけだ。礼はいらない、強くなれ、だ」


 シグルトは少し笑った。


「そうか」


「兄上も、ちゃんと伝えろ。刀と同じくらい好き、ではなく」


「わかっている」


「わかっているならいい」


 エルヴィンは窓の外を見た。


 景色が変わっていた。平原から、アルカディア領の木々が見え始めていた。


「……着くな」


「ああ」


「今日から二ヶ月、稽古ができる」


「ああ」


「俺、今学期より強くなって学院に戻る」


「俺もそうするつもりだ」


「兄上と同じ目標を持つのは初めてだな」


 シグルトは少し間を置いた。


「そうかもしれない」


「悪くない」


「ああ、悪くない」


 馬車が速度を落とした。


 アルカディア侯爵邸の門が見えていた。


 エルヴィンは前を向いた。


「兄上」


「何だ」


「継承権の話は、旅から帰ってきてからもう一度考えろ。今は早い」


「……そうするか」


「エルフィーナに伝えることが先だ。全部、その後だ」


 シグルトは頷いた。


 馬車が門をくぐった。

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