第30話「領地帰還、あるいは全員が圧倒された」
前編 出発の朝
冬休みの出発は、夜明け前から始まった。
学院の正門前に、馬車が六台並んでいた。
レオンはその光景を見て、少し遠い目をした。
夏休みより二台増えていた。
エルフィーナ、レオン、ミレーユ、カイ、アロイス。そこにシグルト、エルヴィン、それぞれの護衛が加わった結果だった。
「姉上、馬車が六台になりました」
「全員乗れるか」
「乗れます。ただ」
「ただ?」
「王太子殿下と第二王子殿下が同乗するため、警備の手配が必要でした」
「頼んでいなかったか」
「私がしました」
「よくやった」
「……姉上が頼んでいないのに私がやるのが問題なんですが」
「そうか? うまくいったのならいい」
レオンは息を吐いた。
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シグルトが来た。
今日は変装していなかった。王太子としての出で立ちだった。
カイがシグルトを見て、少し緊張した顔をした。
「レオン様、殿下と同じ馬車に乗るんですか」
「別々の馬車です」
「よかった。緊張する」
「慣れますよ」
「エルフィーナさんは全然緊張しないですね」
「姉上は最初から緊張していませんでした」
「さすがですね」
シグルトがカイに気づいた。
「カイ・ヴェルナー」
「は、はい」
「道場での稽古はどうだ」
「……頑張っています」
「夏休みよりさらに伸びていると聞いた」
「エルフィーナさんのおかげです」
「エルフィーナのおかげだけではないだろう」
カイは少し間を置いた。
「……ありがとうございます」
シグルトは頷いて、エルフィーナの馬車に向かった。
カイがレオンに小声で言った。
「殿下、思ったより話しかけてくれるんですね」
「エルフィーナ様の周りの人間は、殿下にとっても大切な人たちですから」
「そういうものですか」
「そういうものだと思います」
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アロイスが馬車に乗る前、少し立ち止まった。
「レオン」
「はい」
「領地というのは、どのくらいの規模だ」
「それなりの広さがあります。道場もあります。騎士団もいます。拾われた子たちもいます」
「……夏に行ったのは王都の侯爵邸だったな」
「はい。領地は初めてです」
「さすがなものが待っているんだろうな」
「アロイス様がそう思うだけのものがあると思います」
「そうか」
アロイスは馬車に乗った。
その顔が少し楽しそうだった。
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後編 領地到着
領地のアルカディア侯爵邸に着いたのは昼過ぎだった。
門に近づくと、すでに人が並んでいた。
門番のカルロスとヴィクター、護衛のマルクス、騎士団の面々、道場生たち、そして拾われた子たちが整列していた。
ソフィアが先頭に立っていた。
馬車が止まった。
エルフィーナが最初に降りた。
ソフィアが深く礼をした。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、ソフィア。稽古は続けていたか」
「欠かしていません」
「睡眠と食事は」
「削っていません」
「よし」
ルカが飛び出してきた。
「お嬢様っ」
エルフィーナはルカの頭に手を置いた。
「帰ったぞ、ルカ。型は続けていたか」
「毎日やりました。見てください」
「後でな」
ルカの顔が輝いた。
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カイが馬車から降りて、邸を見た。
広かった。
王都の侯爵邸より、はるかに広かった。
門から邸まで続く道の両脇に木が並んでいた。冬だったが、それでも威容があった。
「……すごいですね」カイがレオンに言った。
「領地の本邸ですから」
「道場はどこですか」
「北端に見える建物がそうです」
カイは北端を見た。
道場が見えた。
大きかった。
「あの道場で、ゴドフリーが覚書を書いているんですね」
「書いています。今日も書くでしょう」
「楽しみです」
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アロイスが降りて、騎士団の列を見た。
全員の立ち方が違った。
同じ王国騎士団出身のはずだったが、何かが違った。
「レオン、あの騎士団は」
「侯爵領の騎士団です。全員エルフィーナ様の道場生でもあります」
「道場生でもある、か」
「王国騎士団の基準より練度が高いと言われています」
「なぜ」
「エルフィーナ様の稽古相手を続けているからです」
アロイスはしばらく騎士団を見た。
「……なるほど」
「アロイス様が学院で感じた変化と同じことが、ここでも起きています」
「エルフィーナの周りにいると、強くなる、ということか」
「そういうことだと思います」
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シグルトが降りた。
邸の全景を見渡した。
ガルディアスが出てきた。
「シグルト殿下、ようこそアルカディア領へ」
「お世話になります、侯爵」
「さすがな娘でしょう、エルフィーナは」
「はい、さすがです」
ガルディアスは満面の笑みだった。
シグルトはその笑みを見て、少し微笑んだ。
エルフィーナの父親だと思った。
イゾルデが出てきた。シグルトに礼をした。
「殿下、お越しいただきありがとうございます」
「こちらこそ、お世話になります」
イゾルデはシグルトを見た。
それからエルフィーナを見た。
「エルフィーナ、少し後で話があります」
「わかった」
エルフィーナは何も聞かなかった。
レオンはイゾルデとエルフィーナのやり取りを見て、帰省前の手紙を思い出した。
話し合いが来る、と思った。
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ゴドフリーが出てきた。
エルフィーナを見た瞬間、目が輝いた。
「お帰りなさいませ、エルフィーナお嬢様」
「ただいま、ゴドフリー。覚書は何冊目になった」
「五冊目の半ばです」
「よし。今日の稽古の記録も頼む」
「かしこまりました」
ゴドフリーは後ろの面々を見た。シグルト、エルヴィン、カイ、ミレーユ、アロイス。
「皆様、お越しいただきありがとうございます。道場の準備は整っております」
「殿下方の部屋の準備は」レオンが言った。
「既に手配済みでございます」
「さすがです」
「若のご指示がなくても動くのが私の役目でございます」
レオンは少し笑った。
ゴドフリーはすでに手帳を開いていた。
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夕方、道場で稽古が始まった。
初日だったが、エルフィーナは全員を集めた。
「冬休みの稽古計画だ。各自に課題を渡す。二ヶ月間、毎日稽古をする」
全員が頷いた。
カイが手を挙げた。
「エルフィーナさん、二刀を見せてもらえますか」
「後でな。まず全員の現状を確認する」
「はい」
エルヴィンが道場を見渡した。
広かった。学院の剣術場より広かった。
床が磨かれていた。壁に武具が並んでいた。天窓から冬の光が差し込んでいた。
「……いい道場だな」
「そうだろう」エルフィーナが言った。「クラウス殿の意見を取り入れた」
「クラウス殿の」
「床材と天窓の位置を相談した。光の入り方で動きが変わる」
「そこまで考えていたのか」
「道場は稽古の場だ。全てが稽古のためにある」
エルヴィンは道場を改めて見た。
光の入り方が確かに均一だった。
「……兄上も同じことを考えるんだろうな」
シグルトが隣に来た。
「同じことは考えないが、なるほどと思う」
「兄上、久しぶりにこんな話をしたな」
「そうだな」
二人が並んで道場を見ていた。
レオンはその光景を少し離れたところから見た。
エルヴィンとシグルトが、自然に並んでいた。
エルフィーナの道場が、また何かを変えていた。
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夜、イゾルデがエルフィーナを書斎に呼んだ。
二人だけだった。
エルフィーナは椅子に座った。
イゾルデは向かいに座った。
「修行の旅の話をしましょう」
「わかった」
「反対するつもりはありません」
「そうか」
「ただ、一つだけ確認したいことがある」
「何だ」
イゾルデは少し間を置いた。
「シグルト殿下への気持ちを、あなたはわかっていますか」
「わかっている」
「どう思っているのか、教えなさい」
エルフィーナはしばらく考えた。
「刀と同じくらい好きだ」
イゾルデは少し間を置いた。
「それだけですか」
「……刀と鞘のような関係だとも思っている。殿下がいると、私の動きが広がる」
「それはわかりました。しかし」
「しかし?」
「殿下がいない時、どう思いますか」
エルフィーナはしばらく黙った。
「……困ったような笑いを見ていたいと思う」
「それが恋愛的な感情だとは思いませんか」
「思う」
イゾルデは少し止まった。
「思う、というのは」
「レオンがそう言っていた。食べ物は見ていたいとは思わない、と」
「それはわかっているのですね」
「わかっている。しかし恋愛というものが何かを、まだ正確には理解できていない」
「正確に理解できていなくても、感じることはできます」
「そうか」
「旅に出る前に、殿下の顔を見なさいと手紙に書きました。覚えていますか」
「覚えている」
「何を感じましたか」
エルフィーナはしばらく考えた。
「今日、領地に着いた時、殿下が来てよかったと思った」
「なぜですか」
「稽古相手が来たから、という理由ではなかった」
「では」
「……殿下がここにいる、ということが、よかった気がした」
イゾルデは少し間を置いた。
それからお茶を一口飲んだ。
「それが、恋愛に近い感情だと思います」
「そうか」
「あなたはまだ言葉にできないかもしれません。しかし感じていることは本物です」
「……そうかもしれない」
「旅に出ることは止めません。ただ、一つだけお願いがあります」
「何だ」
「旅に出る前に、殿下にもう一度、自分の気持ちを伝えなさい。刀と同じくらい好き、ではなく」
「どう言えばいい」
「それはあなたが見つける言葉です。私が教えることではない」
エルフィーナはしばらく黙った。
「……わかった。考える」
「それでいいです」
イゾルデは立ち上がった。
「一つだけ言っておきます」
「何だ」
「殿下はあなたのことを、長い間待っています。その誠実さは、本物だと思います」
エルフィーナはその言葉を聞いた。
しばらく黙っていた。
「……知っている」
「知っていたのですか」
「殿下は逃げない。ただそこにいる。そう言っていた」
「あなたもそれを、ただそこにいることで答えてきた気がします」
「そうか」
「ええ」
イゾルデは扉に向かった。
振り返った。
「エルフィーナ」
「はい」
「あなたが領地に帰ってきた夜は、素振りの音がする。それが好きです」
エルフィーナは少し間を置いた。
「……母上」
「何ですか」
「帰ってきてよかった」
イゾルデは少し笑った。
遠い目ではなく、穏やかな目で。
「おかえりなさい、エルフィーナ」
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その夜、レオンは縁側に座っていた。
道場から素振りの音が聞こえた。
エルフィーナが帰ってきた夜の音だった。
ミレーユが隣に来た。
「イゾルデ様とエルフィーナ様、話し合いがあったみたいですね」
「ええ。エルフィーナ様の顔が少し違いました」
「違う、というのは」
「何かを考えている顔でした。いつもの稽古の計画を立てている顔とは違いました」
「殿下への気持ちについて話したのかもしれませんね」
「そう思います」
ミレーユは道場の方向を見た。
「エルフィーナ様、少しずつ変わっていますね」
「ええ」
「ゆっくりと、しかし確実に」
「そうですね」
ミレーユは少し間を置いた。
「レオン様、冬休みの二ヶ月、何かが変わる気がします」
「何がですか」
「エルフィーナ様と殿下の間で」
「……そうですね」
「複雑ですか」
レオンは少し間を置いた。
「……今夜は、複雑ではないです」
「そうですか」
「姉上が帰ってきた。道場から素振りの音がする。殿下もここにいる。全員がここにいる」
「それで十分ですか」
「今夜は、十分です」
ミレーユは静かに笑った。
素振りの音が続いていた。
冬の夜が、静かだった。




