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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: 玉響すばる


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幕間「拾われた者たちの話」

一 ソフィア、十六歳


 ソフィアがエルフィーナに拾われたのは、十歳の時だった。


 王都の市場の端、人通りが少ない路地だった。


 その日、ソフィアは三日間何も食べていなかった。座り込んでいた。立てなかった。


 足音が聞こえた。


 顔を上げると、黒髪の少女が立っていた。


 同い年くらいだと思った。しかし目が違った。品定めをするような、しかし敵意のない目だった。


 少女は言った。


「目がいい」


 それだけだった。


「来い」


「……どこへ」


「屋敷だ。食事がある。稽古もある」


「稽古?」


「武術だ。やりたいか」


 ソフィアはしばらく少女を見た。


 怪しいと思った。しかし三日間何も食べていなかった。


「……やりたいです」


「では来い」


 それだけだった。


 それが始まりだった。


---


 屋敷に来て初めての夜、食事があった。


 大きなテーブルに、エルフィーナと使用人たちが並んで座った。


 ソフィアは隅の席に座った。


 エルフィーナが言った。


「同じ釜の飯を食うことが大切だ」


「……どういう意味ですか」


「一緒に食事をした人間は、一緒に稽古ができる。それがわかっているからだ」


「稽古が目的ですか」


「稽古相手は信頼できなければならない。一緒に飯を食えば、信頼の土台ができる」


 ソフィアはその言葉を聞いた。


 理屈はよくわからなかった。


 しかし温かい食事が目の前にあった。


 隣に人がいた。


 それだけで、十分だった気がした。


---


 屋敷に来て六年が経った。


 ソフィアは十六歳になった。


 今は王都侯爵邸と侯爵領の邸を行き来しながら、メイドの仕事と道場の稽古を両立していた。


 道場では先輩の立場になっていた。テオたちに基礎を教えることもあった。


 エルフィーナが来る日は、朝から準備をした。道場の床を磨いた。巻藁を確認した。全員の稽古着を整えた。


 稽古が終わると、全員で食事を取った。


 エルフィーナが必ずそうした。稽古の後は必ず全員で食べた。


 最初の夜に言っていた言葉を、ソフィアは六年間覚えていた。


 同じ釜の飯を食うことが大切だ。


 そうやって積み重なった食事の回数が、今の道場を作っていると思っていた。


---


 エルフィーナへの感情を、ソフィアは長い間整理できなかった。


 憧れだった。それは間違いなかった。


 十歳の自分が路地に座り込んでいた時、黒髪の少女が「目がいい」と言った。


 その言葉が、今も胸の中にあった。


 どこの馬の骨ともわからない孤児に、最初にかけた言葉が「目がいい」だった。


 身分でも、出自でも、外見でも、境遇でもなかった。


 ただ、目がいい。


 それだけで来いと言った。


 その一言が、ソフィアの人生を変えた。


 だから憧れだった。


 しかし憧れだけではなかった。


 もっと深いものがあった。


 言葉にするならば、こうだった。


 この人のために、強くなりたい。


 この人に、恥ずかしくない弟子でいたい。


 この人が笑ってくれた時、もっとやれると思える。


 それが何という感情なのかは、まだわからなかった。


 ただ確かなことは、エルフィーナが来る日の朝、ソフィアは一番早く道場の床を磨いていた。


 それが、今のソフィアの答えだった。


---


二 ルカ、十一歳


 ルカがエルフィーナに拾われたのは、七歳の時だった。


 王都の橋の下だった。


 雨が降っていた。ルカは橋の陰に隠れていた。


 足音が聞こえた。


 振り返ると、背が高い人が立っていた。傘を持っていた。黒髪が雨に濡れていた。


「雨の中でここにいるのか」


「……はい」


「家はないか」


「ありません」


「来い」


「どこへ」


「乾いたところだ。食事もある」


 ルカは少し考えた。


 七歳だったが、知らない人についていってはいけないと、どこかで聞いた気がした。


 しかしその人の目を見た。


 敵意がなかった。計算がなかった。ただ、当然のことを言っている目だった。


「……強くなれますか」


 なぜそんなことを聞いたのか、今でもわからない。


 その人は少し考えた。


「稽古次第だ」


「稽古します」


「では来い」


 ルカは立ち上がった。


---


 屋敷に着いた夜、食事があった。


 大きなテーブルに、大人も子供も並んで座った。


 ルカは雨に濡れていたので、先に着替えさせてもらった。乾いた服が温かかった。


 エルフィーナが隣に座った。


「食え」


「……はい」


「足りなければまた言え」


「はい」


 ルカは食べた。


 温かかった。


 泣きそうになった。


 しかし泣かなかった。


 食べながら、エルフィーナを横目で見た。


 その人は黙々と食べていた。特別なことは何もしなかった。


 ただ、同じテーブルで、同じ食事を食べていた。


 それだけで、ルカには十分だった。


---


 四年が経った。


 ルカは十一歳になった。


 最初に来た時、一番小さかった。今は中くらいになった。まだ小さい方だったが、四年前よりずっと大きくなった。


 道場では、毎日稽古をしていた。


 エルフィーナが来ると、一番最初に駆け寄りたかった。しかし今はもう少し我慢できるようになっていた。


 整列して、礼をして、それからエルフィーナが声をかけてくれるのを待つ。


 稽古が終わると、全員で食事を取った。


 ルカはその時間が好きだった。


 エルフィーナが全員と同じ食事を食べた。特別なものを食べるわけではなかった。ペドロが作った、栄養があって消化のいい食事だった。


 それを全員で食べた。


 エルフィーナが言っていた言葉を、ルカは覚えていた。


 同じ釜の飯を食うことが大切だ。


 だから稽古の後は必ず全員で食べる。


 その言葉の意味が、四年経って少しわかってきた気がした。


 一緒に食べた人間は、仲間だということだ。


 ルカには仲間がいた。


 その事実が、毎日の稽古を支えていた。


---


三 ペドロ、二十二歳


 ペドロがエルフィーナに拾われたのは、十八歳の時だった。


 拾われた、というより、声をかけられた、という方が正確だった。


 王都の市場で、ペドロは魚を捌いていた。当時は市場の手伝いをしていた。正式な雇用ではなかったが、捌くのが速かったので毎日呼ばれていた。


 その日も黙々と魚を捌いていた。


「包丁を持つ手つきがいい」


 声がした。


 振り返ると、黒髪の令嬢が立っていた。稽古着を着ていた。


「剣の才がある」


「……魚を捌いているんですが」


「知っている。しかし手つきがいい。刃物の扱いが自然だ」


「そうですか」


「来い」


「どこへ」


「道場だ。稽古をつけてやる」


 ペドロはしばらく考えた。


 令嬢が市場の手伝いに声をかけるのは、普通ではなかった。


 しかしその令嬢の目が真剣だった。からかっているわけではなかった。


「稽古、というのは」


「武術だ。包丁を持つ手が剣になる」


「包丁が剣に、ですか」


「そうだ。来るか」


 ペドロは少し考えた。


「……厨房の仕事はできますか」


「できる。うちの厨房は人手が足りていない」


「では行きます」


---


 屋敷に来た初日、ペドロは厨房を見た。


 広かった。道具が揃っていた。


 エルフィーナが言った。


「今日の夕食を頼む」


「いきなりですか」


「腕を見たい。それと」


「それと?」


「今夜から全員一緒に食事をする。同じ釜の飯を食うことが大切だ。美味いものを作ってくれ」


 ペドロは少し考えた。


「何人ですか」


「今日から十三人だ」


「わかりました」


 ペドロは厨房に立った。


 初めて作る人たちのために、料理を作った。


 その夜、全員が同じテーブルで食べた。


 エルフィーナが「美味い」と言った。


 それだけで、ペドロは来てよかったと思った。


---


 四年が経った。


 ペドロは二十二歳になった。


 今は侯爵邸の厨房を一人で仕切っていた。


 エルフィーナが来る日は、稽古の前に栄養のある食事を作った。稽古の後にも作った。


 稽古前と稽古後では、体が必要とするものが違った。ペドロはそれを四年かけて研究した。


 エルフィーナが「今日の食事はよかった」と言った日は、一日中機嫌がよかった。


 稽古の後、全員で食べる時間が、ペドロには一番大切だった。


 テオが「美味い」と言う。ルカが「おかわり」と言う。ソフィアが「次もこれがいい」と言う。


 その声を聞きながら、ペドロは次の献立を考えた。


 同じ釜の飯を食う、という言葉の意味を、ペドロは料理人として理解していた。


 一緒に食べることは、一緒に生きることだった。


 それがペドロの仕事だった。


---


四 ヴィクト、十一歳


 ヴィクトがエルフィーナに拾われたのは、テオと同じ日だった。


 王都孤児院の庭だった。


 慰問に来た学院生たちが食料を届けていた。ヴィクトはその様子を少し離れたところから見ていた。


 テオが黒髪の令嬢と話し始めた。


 ヴィクトはその会話を聞いていた。


 「目がいい」「来い」「強くなれますか」「稽古次第だ」


 テオが構えを見せた。令嬢が丁寧に直した。


 テオの顔が変わるのを、ヴィクトは見ていた。


 それから令嬢がヴィクトを見た。


「お前も見ていたな」


「……見ていました」


「体幹がいい。立ち方が安定している」


「そうですか」


「来るか」


「テオも来ますか」


「来ると言った」


「では私も来ます」


 令嬢は少し間を置いた。


「なぜテオが来るかどうかを確認した」


「一人では不安だからです」


「正直だな」


「はい」


「いいことだ」


 令嬢は歩き出した。


「来い」


 ヴィクトはテオと並んで後をついていった。


---


 道場に来て初めての夜、食事があった。


 ヴィクトはテオの隣に座った。


 大人も子供も並んで、同じ食事を食べた。


 エルフィーナが言った。


「同じ釜の飯を食うことが大切だ。今日からお前たちも仲間だ」


 ヴィクトはその言葉を聞いた。


 仲間、という言葉が、胸の中に入ってきた。


 孤児院にいた時も、仲間はいた。しかし今日言われた「仲間」は、少し違う気がした。


 一緒に稽古をして、一緒に食べて、一緒に強くなる仲間だった。


 ヴィクトは黙って食べた。


 温かかった。


---


 入門して二週間が経った。


 ヴィクトは十一歳だった。


 道場での毎日は、孤児院とは全く違った。


 朝起きたら稽古。食事。稽古。仕事。稽古。就寝。


 最初はきつかった。


 しかし一週間で慣れた。


 なぜ慣れたかというと、テオが隣にいたからだった。


 そして毎日、全員で食事を取ったからだった。


 朝も、昼も、夜も、同じテーブルで食べた。


 エルフィーナが来た日は、稽古の後にエルフィーナも一緒に食べた。


 その時間が、ヴィクトには一番ほっとする時間だった。


 稽古で叱られても、食事の時間になれば同じテーブルで食べた。


 それが仲間ということだと、ヴィクトは思うようになっていた。


---


五 全員の夜


 侯爵領の邸の夜は、静かだった。


 ソフィアは自室で翌日の準備をしていた。


 ルカはすでに眠っていた。


 ペドロは厨房で明日の献立を考えていた。


 明日の朝は何を作ろうか。


 稽古の前だから、消化がいいものがいい。しかしルカがおかわりをするから、量も必要だ。


 テオは最近、食事の量が増えた。成長期だろう。


 ヴィクトは野菜が苦手だったが、最近少し食べるようになった。


 全員の好みと体の状態を、ペドロは把握していた。


 それも同じ釜の飯を食い続けた結果だった。


---


 ヴィクトとテオは王都道場の部屋で話していた。


「エルフィーナさん、また来週来るんだよな」テオが言った。


「ああ」


「次は俺、踏み込みを百回全部正確にやる」


「できるか」


「できる。毎日練習している」


「俺も体幹の稽古を続けている」


「来週、稽古の後にペドロさんが特別な食事を作ってくれるって言っていたな」


「何を作るんだろう」


「聞いたら教えてくれないと言われた。楽しみにしておけって」


 テオは少し笑った。


「ペドロさんの飯、美味いよな」


「ああ」


「孤児院の飯も悪くなかったけど」


「こっちの方が美味い」


「ゴドフリー殿が覚書に書いてくれているな、俺たちのことも」


「書いてくれているらしい。嬉しいな」


「エルフィーナさんが言っていたな。同じ釜の飯を食う仲間は信頼できるって」


「ああ」


「俺たち、仲間だな」


「ああ」


 テオは窓の外を見た。


「拾われてよかったな」


「ああ」


「エルフィーナさんに」


「ああ」


 二人は静かになった。


 窓の外に星が見えた。


---


 ソフィアは準備が終わった後、窓の外を見た。


 エルフィーナが学院にいる夜は、素振りの音がしなかった。


 しかしソフィアには、音が聞こえる気がした。


 六年間、毎朝聞いてきた音だった。


 あの人は今夜も、学院の稽古場で素振りをしているだろう。


 夜明け前には庭に出ているだろう。


 休みの日には道場に来る。


 馬車の中で稽古の計画を立てて、全員に指摘を入れて、巻藁を斬って、全員で食事を取って、「また来る」と言って帰る。


 それがエルフィーナだった。


 ソフィアはその繰り返しの中で、六年間変わらず同じ人を見てきた。


 変わらないことが、ソフィアには眩しかった。


 強くなりたいから稽古をする。同じ釜の飯を食う仲間を大切にする。それだけだった。


 それだけで、こんなに人が集まった。


 ソフィアも、ルカも、ペドロも、テオも、ヴィクトも、全員があの人に拾われた。


 拾われた、というのは正確ではないかもしれなかった。


 あの人は拾うつもりではなかっただろう。


 ただ、目がいいと思った。強くなれると思った。来いと言った。


 そして一緒に食事を取った。


 それだけだった。


 しかしその繰り返しが、全員の人生を変えた。


 ソフィアは思った。


 私はこの人のために、もっと強くなる。


 そして明日も、全員で同じ飯を食う。


 それが、六年間変わらない答えだった。

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