幕間「ゴドフリー・ハルトの覚書、第五冊目より」
王都アルカディア侯爵邸道場の朝は、夜明け前から始まる。
ゴドフリー・ハルトは道場の板張りを確認しながら、そう思った。
侯爵領の邸と違って、王都の道場はまだ新しかった。床の木が、まだ素直だった。踏むたびに、ほんの少し跳ね返りがある。これが年月を経て馴染んでいくのだろうと、ゴドフリーは思った。
道場の隅に巻藁が三本立っていた。エルフィーナお嬢様が前回来た時に置いていったものだった。
本日は休日だった。
つまり、お嬢様が来る日だった。
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門下生たちは朝から落ち着きがなかった。
ハインツ副長が整列を確認しながら言った。
「今日はお嬢様が来る。全員、普段の稽古をしろ。見せるためではなく、自分のために動け」
門下生たちが頷いた。
テオが列の端に立っていた。孤児院から来て、まだ二週間だった。細身で、目が大きく、じっと道場の入口を見ていた。
ゴドフリーはテオの隣に立った。
「緊張しているか」
「……少し」
「当然だ。しかし心配するな」
「心配しているわけじゃないです」
「では何だ」
「早く来てほしいと思っています」
ゴドフリーは少し笑った。
「それが正しい気持ちだ」
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馬車の音が聞こえたのは、朝の鐘が鳴った直後だった。
門下生たちの背筋が、自然に伸びた。
扉が開いた。
エルフィーナお嬢様が入ってきた。
稽古着姿だった。腰に黒嵐が差してあった。右手に手帳を持っていた。
ゴドフリーは少し驚いた。
「お嬢様、その手帳は」
「馬車の中で計画を立ててきた。全員の課題を書いてある」
手帳を差し出した。
ゴドフリーは受け取って開いた。
三十一名の名前が並んでいた。それぞれに、課題と本日の稽古内容が書いてあった。
丁寧だった。一人ずつ、前回の稽古の課題を踏まえた内容だった。
ゴドフリーは手帳を見ながら、自分の覚書を開いた。
書き写し始めた。
「お嬢様、この計画を覚書に記録させていただきます」
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
ゴドフリーの手が速く動いた。
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稽古が始まった。
エルフィーナお嬢様は全員を見渡してから、ハインツに言った。
「ハインツ、先週より踏み込みが深くなっている」
「ありがとうございます」
「しかし右肩が上がっている。意識しているか」
「していませんでした」
「今日はそこを直す」
「はい」
次に門番のカルロスに。
「カルロス、体幹は安定してきた。次は間合いの精度だ」
「はい、お嬢様」
使用人のペドロに。
「ペドロ、包丁を持つ手つきが剣に出てきた。いい変化だ」
「ありがとうございます」
一人ずつ、短く、的確に。
ゴドフリーはそれを全て書き留めた。
手が追いつかないほどだったが、追いつかせた。
五十年の鍛錬は、こういう時のためにあると思った。
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テオの番が来た。
エルフィーナお嬢様がテオの前に立った。
「テオ」
「はい」
「孤児院で構えを見せた日から、練習したか」
「毎日しました」
「見せろ」
テオは構えた。
ゴドフリーは手帳を持ったまま、テオを見た。
二週間前と比べて、明らかに変わっていた。重心が安定していた。足の位置が正確だった。毎日練習した跡が、体に出ていた。
エルフィーナお嬢様は少し間を置いた。
「……よくやった」
テオの目が光った。
「本当ですか」
「二週間でここまで来た。筋がある」
「ありがとうございます」
「今日から正式な稽古をつける。覚悟はあるか」
「あります」
「きつい」
「わかっています」
「それでもやるか」
「やります」
エルフィーナお嬢様は頷いた。当然だという顔で。
「では始める」
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テオへの稽古が始まった。
ゴドフリーは手帳を開いたまま、その様子を見ていた。
エルフィーナお嬢様はテオの動きを一つずつ確認した。構え、重心、踏み込み、腕の振り。全部に指摘を入れた。
テオは真剣な顔で聞いていた。
指摘を受けるたびに修正した。修正が甘ければ、また指摘した。しかしエルフィーナお嬢様の指摘は厳しかったが、丁寧だった。どこが違うかを、体を使って教えた。
三十分後、テオの踏み込みが変わった。
ゴドフリーはその瞬間を見た。
何かが変わった瞬間だった。体が言葉を理解した瞬間だった。
エルフィーナお嬢様も見ていた。
「今のだ」
「今の、ですか」
「今の踏み込みを、毎回できるようにしろ」
「はい」
「一回できたということは、できる体だということだ。あとは反復だ」
「わかりました」
ゴドフリーは手帳に書いた。
「テオ、入門十四日目。本日初めての正式稽古。踏み込みの瞬間、重心の移動に開眼の兆し。お嬢様の言葉通り、筋がある。記録すべき動きを見た。」
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午後になった。
エルフィーナお嬢様は三十一名全員に稽古をつけた。
昼食を挟んで、一人も休まなかった。
ゴドフリーは縁側に座って、お茶を飲みながら覚書を書いていた。
ハインツが隣に来た。
「ゴドフリー殿、今日は何ページ書きましたか」
「今のところ十二ページです」
「十二ページ」
「お嬢様の一言一言が全て記録に値します」
「そうですね」ハインツは道場を見た。「お嬢様が来る日は、みんな違いますね」
「どう違いますか」
「目が違います。普段の稽古も真剣ですが、今日みたいな日は、もっと真剣です」
「師が来るからでしょう」
「それだけではないと思います」
「どういう意味ですか」
ハインツは少し考えた。
「お嬢様に見ていてほしい、という気持ちがあるんだと思います。ただ見られたいわけじゃなくて、お嬢様に認めてもらいたい、という」
「なるほど」
「俺もそうです。十五年騎士をやってきましたが、お嬢様に踏み込みが速くなったと言われた日は、今でも覚えています」
ゴドフリーは手帳に書いた。
「ハインツ副長の言葉。お嬢様に認めてもらいたいという感情が、門下生全員の稽古の質を上げている。これはお嬢様の武術体系の一部として記録すべきかもしれない。」
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夕方、稽古が終わった。
全員が整列して礼をした。
エルフィーナお嬢様は全員を見渡した。
「今日は全員よく動けた。テオ、踏み込みを忘れるな。ハインツ、肩の修正は明日も続けろ。カルロス、間合いの稽古を自主的にやれ。ペドロ、来週また見る」
全員が頷いた。
それから、エルフィーナお嬢様は巻藁に向かった。
「少し試す」
黒嵐を抜いた。
居合の構えを取った。
道場が静まり返った。
ゴドフリーは手帳を持ったまま立ち上がった。
エルフィーナお嬢様が動いた。
音が聞こえなかった。
巻藁の上半分が滑り落ちた。断面が滑らかだった。
静止。
ゴドフリーは書き始めた。手が震えていた。感動で。
「エルフィーナお嬢様、今の動き、もう一度お願いできますか」
「いいぞ」
二本目の巻藁の前に立った。
また動いた。
また断面が滑らかだった。
テオが隣のヴィクトに小声で言った。
「……すごい」
「ああ」
「俺たちもいつかああなれるのか」
「わからないけど」ヴィクトは言った。「なりたいと思う」
「俺も」
ゴドフリーはそれも聞こえていた。
書いた。
「テオとヴィクト、入門十四日目。師の巻藁切断を見て、いつかああなりたいと言う。これがエルフィーナ流武術の継承の始まりである。」
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帰り際、エルフィーナお嬢様は次回の手帳を置いていった。
「次に来る時の計画だ。その前に各自の課題を確認しておいてくれ」
「かしこまりました」ゴドフリーが言った。
「テオの次の課題は手帳に書いてある。重心の反復だ。毎日百回はやらせろ」
「はい」
「ゴドフリー」
「はい」
「今日の覚書は何ページになったか」
「現在十七ページです」
エルフィーナお嬢様は少し間を置いた。
「多いな」
「お嬢様の一日が充実していた証拠でございます」
「そうか」
「はい」
エルフィーナお嬢様は馬車に乗った。
扉が閉まる前に言った。
「また来る」
それだけだった。
馬車が動き出した。
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門下生たちが後片付けをする中、ゴドフリーは縁側に座って覚書の続きを書いた。
ハインツが来た。
「ゴドフリー殿、まだ書くんですか」
「書き足りないことがあります」
「何ページになりましたか」
「二十一ページです」
「今日だけで」
「お嬢様の一日は記録に値することが多い」
ハインツは道場を見た。
テオがまだ残って、一人で踏み込みの練習をしていた。百回、続けていた。
「テオ、いいですね」
「筋があります。お嬢様がそうおっしゃっていました」
「この道場に来て、あの子の顔が変わりました」
「孤児院から来た時より、目が輝いています」
「そうですね」
ゴドフリーは手帳に書いた。
「テオ、夕暮れの道場で一人、踏み込みを百回続けている。これがエルフィーナ流武術の根である。師の言葉を信じて、ただ動く。その純粋さが、武術の始まりである。お嬢様が来る日は、この道場が生きる。」
夜が更けていた。
テオはまだ踏み込みを続けていた。
ゴドフリーは手帳を閉じた。
今日の覚書は二十三ページになった。
過去最多だった。




