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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: 玉響すばる


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幕間「イゾルデ・フォン・アルカディアが遠い目をした日」

 手紙がガルディアスから届いたのは、夕食の後だった。


 イゾルデは封を開けた。


 一読した。


 もう一度読んだ。


 それから、遠い目をした。


---


 手紙の内容はこうだった。


 「イゾルデへ。今日エルフィーナと話した。卒業後に修行の旅に出たいそうだ。さすがだと思う。行き先は未定、期間は未定、強い相手がいる場所を目指すとのことだ。本当にさすがだ。婚約は続けると言っていた。両立できると思っているそうだ。さすがだ。ゴドフリーに準備を頼んでいいかと聞かれたので、任せた。さすがだ。ガルディアス」


 イゾルデは手紙を置いた。


 「さすがだ」が四回あった。


 内容への評価が一切なかった。


 ガルディアスらしかった。


---


 イゾルデはお茶を飲んだ。


 冷めていた。


 考えた。


 修行の旅。


 エルフィーナが卒業後に修行の旅に出たい。行き先未定、期間未定。


 イゾルデはしばらく天井を見た。


 驚いていないことに、まず気づいた。


 驚くべき話だった。侯爵家の一人娘が、婚約者がいる身で、行き先も期間も未定の旅に出るという。普通であれば大問題だった。


 しかしイゾルデは驚いていなかった。


 なぜか。


 あの子だから、という理由しか思い浮かばなかった。


---


 エルフィーナのことを思い出した。


 三歳で道場の木刀を見て、自分にも寄こせと言った。


 五歳で父の騎士団員を素手で転がした。


 六歳で王太子に「剣をやりますか」と言った。


 八歳で養子のレオンを迎えた初日に稽古をつけた。


 十歳で街で孤児を拾ってきた。最初の一人だった。


 その後も増え続けた。


 十二歳でゴドフリーが「一番弟子」を自称し始めた。


 十四歳で学院に入り、教官を一本で仕留め、王太子の婚約者として国王に「稽古に誘います」と言った。


 振り返ってみると、全部あの子らしかった。


 一つとして、普通のことがなかった。


 修行の旅に出たいというのも、あの子らしかった。


---


 問題は、普通ではないということだった。


 イゾルデは紅茶を新しく入れた。


 今度は温かかった。


 整理しようとした。


 まず、王太子との婚約。


 エルフィーナは両立できると言っている。しかしどうやって両立するのかは、おそらく考えていない。


 シグルト殿下はどう思っているのか。


 レオンからの手紙によれば、殿下も一緒に行くとおっしゃったそうだ。


 イゾルデはその一文を読んで、少し止まった。


 王太子が修行の旅に同行する。


 それはそれで大問題だった。


 しかし殿下がそう決めたなら、国王陛下と話し合うことになるだろう。それはヴァレンティア家の問題だった。


 次に、エルフィーナの安全。


 修行の旅に出るということは、学院の外で戦うということだった。


 しかしエルフィーナは、魔物の森で大型魔物を一人で仕留めた。それはレオンからの手紙で知っていた。


 安全については、あの子が一番心配が少ない気がした。


 ならば問題は何か。


---


 イゾルデは紅茶を飲みながら考えた。


 問題は、一つだった。


 エルフィーナが旅に出ることではなかった。


 旅に出ることを、あの子がどう考えているかだった。


 修行のために旅に出たい。それはわかる。


 しかし婚約は続けると言っている。両立できると言っている。


 殿下への気持ちはどうなのか。


 レオンの手紙には、エルフィーナが「刀と同じくらい好き」と殿下に伝えたと書いてあった。


 イゾルデはその一文を読んだ時、額に手を当てた。


 刀と同じくらい。


 あの子にとって、刀は命と同じくらい大切なものだ。それはイゾルデも知っている。


 だからその表現は、最上位の評価だということもわかる。


 しかしそれが恋愛的な意味での好きと同じかどうかは、全く別の話だった。


 あの子は理解しているのか。


 おそらく、していなかった。


---


 イゾルデは窓の外を見た。


 夜の庭が静かだった。


 エルフィーナが学院にいる今、素振りの音は聞こえなかった。


 ここ数年、夜に素振りの音が聞こえない日は、不思議な静けさがあった。


 イゾルデは少し笑った。


 いつの間にか、素振りの音が日常になっていた。


 あの子が生まれた時、こんな娘になるとは思っていなかった。


 魔法の名家の一人娘として、魔法に秀でた令嬢になるだろうと思っていた。


 確かに魔法には秀でた。しかしそれ以上に、剣に秀で、体術に秀で、人を引きつけることに秀でた。


 魔法名家の誇りを持つイゾルデにとって、最初は戸惑いだった。


 しかし今は、違った。


---


 あの子は、私の想像を超えた子だった。


 イゾルデはそう思った。


 超えた、というのは悪い意味ではなかった。


 私が想像できる範囲では、あの子を収められなかった。


 それはあの子が規格外だったからだ。


 規格外の子を産んだのは私だが、規格外に育てたのはあの子自身だった。


 三歳で木刀を持ち、十四年間稽古を続け、前世の記憶を武術に昇華し、身分を問わず人を集めた。


 誰が教えたわけでもなかった。


 あの子が、自分でそうなった。


---


 修行の旅の話に戻った。


 帰省した時に話し合う、と手紙に書いた。


 何を話し合うつもりだったのか、イゾルデは考えた。


 反対するつもりはなかった。


 最初から、それはわかっていた。


 反対しても意味がなかった、という話ではなかった。


 反対する理由が、見つからなかった。


 あの子が強くなりたいと思っている。旅に出て、各地の強い相手と戦いたいと思っている。


 それはあの子にとって、自然なことだった。


 婚約のことも、両立できると言っている。


 殿下も一緒に行くとおっしゃった。


 ならば、何を話し合うのか。


---


 イゾルデは少し考えた。


 話し合うことは一つだけだと、気づいた。


 エルフィーナに、確認したいことがあった。


 殿下のことを、どう思っているか。


 刀と同じくらい好き、という言葉の意味を、あの子はわかっているのか。


 殿下が何を求めているかを、あの子は理解しているのか。


 旅に出ることと、婚約を続けることの意味を、あの子は本当に理解しているのか。


 イゾルデは息を吐いた。


 おそらく、理解していなかった。


 あの子は武術と食事と稽古のことしか考えていない。


 殿下への感情も、「刀と同じくらい好き」という言葉に集約してしまっている。


 それがあの子だった。


---


 イゾルデは紅茶を飲み干した。


 どう話すか、少し考えた。


 正面から「殿下への気持ちをわかっているか」と聞いても、あの子は「わかっている、刀と同じくらい好きだ」と答えるだろう。


 それ以上の言葉は、今のあの子には出てこないかもしれない。


 では何を言うべきか。


 イゾルデはしばらく考えた。


 一つだけ、言えることがあった。


 旅に出る前に、殿下に会いなさい。


 そして殿下の顔を見て、何を感じるか、確かめなさい。


 それだけでいいかもしれなかった。


 あの子は言葉では理解できないことも、体の感覚ではわかることがある。


 稽古の中で、体が教えてくれることがある。


 恋愛も、もしかしたら同じかもしれなかった。


---


 ガルディアスが部屋に入ってきた。


「イゾルデ、手紙は読んだか」


「読みました」


「さすがだろう、エルフィーナは」


「あなたは本当に」


「何だ」


「問題があることに気づいていますか」


「さすがな娘が旅に出たいと言っている。何が問題なんだ」


 イゾルデは少し間を置いた。


「婚約者がいます」


「殿下も一緒に行くそうじゃないか。さすがな組み合わせだ」


「……あなたは」


「何だ」


「娘が心配ではないんですか」


「心配? なぜ。あの子より強い人間はそうそういない」


「強さの話をしているんではありません」


「では何の話だ」


 イゾルデは窓の外を見た。


「……恋愛の話です」


 ガルディアスは少し止まった。


「恋愛か」


「あの子は殿下への気持ちを、刀と同じくらい好きと表現したそうです」


「さすがな表現だ」


「さすがではありません」


「そうか? 刀は大切なものだろう」


「大切なものとして好きなのと、恋愛として好きなのは、違います」


「……そうか」


「あの子はまだ、その違いを理解していないと思います」


 ガルディアスはしばらく黙っていた。


「イゾルデ」


「何ですか」


「俺はお前のことを、どう好きだったと思うか」


 イゾルデは少し止まった。


「……それは」


「最初に会った時、お前のことを剣よりも魔法よりも大切なものだと思った。しかしその言葉では伝わらなかった」


「どう伝えたんですか」


「伝えようとするうちに、なんとなく伝わった」


「なんとなく、では困ります」


「しかし伝わった」


 イゾルデは少し間を置いた。


「……あなたとエルフィーナは似ていますね」


「さすがわしの娘だ」


「そういう意味で言っていませんが」


 ガルディアスは笑った。


「イゾルデ、エルフィーナは大丈夫だ」


「何が大丈夫なんですか」


「あの子はちゃんと、殿下のことが好きだ。言葉にできていないだけで」


「言葉にできていないことが問題なんです」


「殿下は待てる人間だろう」


「……そうですね」


「ならばいい」


 ガルディアスはお茶を飲んだ。


「帰省した時に話し合えばいい。ただ」


「ただ?」


「反対するつもりはないだろう、お前も」


 イゾルデはしばらく黙った。


「……ありません」


「さすがだ、イゾルデも」


「あなたは本当に」


 イゾルデは遠い目をした。


 ガルディアスはお茶を飲み続けた。


---


 その夜、イゾルデは返事の手紙を書いた。


 エルフィーナへ。


 「帰省した時に話し合いましょう。ただし一つだけ、今お伝えします。旅に出る前に、殿下の顔を見なさい。そして何を感じるか、確かめなさい。それだけでいいです。イゾルデ」


 書き終えて、少し見た。


 短い手紙だった。


 しかしこれで十分だと思った。


 あの子は長い言葉より、短い言葉の方が理解する。


 それはあの子を十四年見てきてわかっていた。


---


 ゴドフリーへの手紙も書いた。


 「ゴドフリー、準備の前に一つお願いがあります。娘が旅に出るとしても、睡眠と食事だけは確保させてください。それだけは守らせてください。後のことは娘に任せます。イゾルデ」


 これも短い手紙だった。


 しかしゴドフリーには十分だろうと思った。


 あの老人は、言わなくても動く人間だった。


 睡眠と食事だけは、と書けばわかってくれるはずだった。


---


 二通の手紙を封筒に入れた。


 イゾルデは窓の外を見た。


 夜が静かだった。


 素振りの音はしなかった。


 あの子は今頃、学院の稽古場で素振りをしているだろう。


 遠くても、何となくわかった。


 十四年間、毎夜聞いてきた音だった。


 イゾルデは少し笑った。


 遠い目ではなく、穏やかな目で。


 あの子は大丈夫だ、とガルディアスが言っていた。


 おそらく、そうだった。


 言葉にできなくても、あの子は確かに殿下のことを見ていた。


 刀と同じくらい好き、という言葉の裏に、もっと大きな感情があることを、あの子はまだ知らなかった。


 しかしいつか、知る日が来るだろう。


 その時まで、待てばいい。


 イゾルデは紅茶を一口飲んだ。


 今度は、温かかった。

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