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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: 玉響すばる


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第26話「巻藁と屋台と、それから」

 試験が終わった翌朝、アルカディア家から荷物が届いた。


 ゴドフリーからだった。


 箱を開けると、中に巻藁が三本入っていた。


 そして手紙が一枚。


 「お嬢様、黒嵐の試し斬りにお使いください。こちらの巻藁は背骨に見立てた木の芯に、肉体に見立てた藁を分厚く巻いております。王都ではなかなか手に入らない素材ですが、老師の御指示で特別に仕立てました。斬った後の断面をぜひ教えてください。覚書に記録いたします。敬具 ゴドフリー・ハルト」


 エルフィーナは手紙を読んだ。


「ゴドフリーらしいな」


「試験が終わった翌日に届くように計算していたんでしょうね」レオンが言った。


「そうだろう。今日の稽古に使う」


「学院の稽古場で巻藁を斬るんですか」


「問題があるか」


「……グラハム教官に許可を取ります」


---


 午後の稽古場に、人が集まっていた。


 巻藁を斬るという話がどこからか広まって、気づけばかなりの人数が集まっていた。


 グラハムが腕を組んで立っていた。


「アルカディア令嬢、その巻藁、何を模しているんだ」


「背骨に見立てた木の芯に、肉体に見立てた藁を分厚く巻いたものです」


「つまり人体に近い硬さと抵抗がある」


「はい」


「それを刀で」


「試し斬りをしたい」


 グラハムは少し間を置いた。


「……やってみろ」


---


 稽古場の中央に巻藁を立てた。


 直径は人の胴体ほどあった。芯の木が中心を貫いていた。表面の藁は分厚く、触れると確かな抵抗があった。


 エルフィーナは巻藁の前に立った。


 黒嵐を腰に差した。


 居合の構えを取った。


 稽古場が静まり返った。


 シグルトが壁際に立っていた。エルヴィンがその隣にいた。


 エルヴィンは巻藁を見た。それからエルフィーナを見た。


「兄上、あれを斬れるのか」小声で言った。


「見ていろ」シグルトが静かに言った。


---


 エルフィーナが動いた。


 音が聞こえなかった。


 鞘から黒嵐が抜かれた瞬間、それは終わっていた。


 巻藁の上半分がゆっくりと滑り落ちた。


 断面は滑らかだった。木の芯まで、一刀で断たれていた。


 静止。


 誰も声を出さなかった。


 エルフィーナは黒嵐を鞘に収めた。


 その動作が、ゆっくりだった。丁寧だった。


 それから断面を確認した。


「……よい切れ味だ」


 それだけ言った。


---


 エルヴィンが固まっていた。


 シグルトが隣で静かに言った。


「どうだ」


「……信じられない」エルヴィンが言った。「木の芯まで一刀で」


「ああ」


「あの刀、どこで」


「自分で鍛冶屋を探して頼んだ。三週間かけて作ってもらった」


「三週間で」


「クラウスという鍛冶屋だ。腕のいい老人だ」


 エルヴィンはエルフィーナを見た。


 エルフィーナは二本目の巻藁の前に立っていた。


「まだ斬るのか」


「三本ある」


「三本全部斬るのか」


「試し斬りは十分にやらなければ意味がない」


 エルヴィンはしばらく黙っていた。


「……エルフィーナ」


「何だ」


「俺も刀を持てるようになれるか」


 エルフィーナはエルヴィンを見た。


「強くなりたいか」


「なりたい」


「では稽古を続けろ。刀は強さが伴ってから持て」


「いつになったら強さが伴うか」


「私が認めた時だ」


 エルヴィンは少し間を置いた。


「……厳しいな」


「甘くしても意味がない」


「わかった」


---


 ゴドフリーからの手紙に答える手紙をエルフィーナが書いた。


 「断面は滑らかだった。木の芯まで一刀。黒嵐の切れ味は完璧だ。クラウス殿に感謝を伝えること。二本目、三本目も同様だった。次の稽古では角度を変えて試す。報告は以上。エルフィーナ」


 レオンはその手紙を見た。


「……感情がないですね」


「事実を報告した」


「ゴドフリーは喜びますが、もう少し」


「何を書けばいいのか」


「感想とか」


「感想は書いた。完璧だ、と」


「……そうですね」


 翌日、クラウスからも手紙が来た。


 「断面の報告を受けた。よかった。白露も同じように仕上げる。もう少し待て。クラウス」


 エルフィーナはその手紙を読んで満足そうな顔をした。


「白露も完璧に仕上げてくれるということだ」


「クラウス殿も嬉しそうですね」レオンが言った。


「そうか」


「作った刀が完璧だったと報告が来たら、職人は嬉しいものだと思います」


「そういうものか」


「そういうものです」


 エルフィーナはしばらく考えた。


「では次に工房に行った時に、もう一度礼を言う」


「それがいいと思います」


---


 試験翌日の夕方、エルフィーナとシグルトは王都の屋台に出かけた。


 レオンは外出許可の書類を手に見送った。


 ミレーユが隣に来た。


「行きましたね」


「ええ」


「どんな顔をしていましたか、エルフィーナ様は」


「稽古が終わって食事に行く時の顔でした」


「殿下は」


「……少し嬉しそうでした」


「そうですか」


 ミレーユは夕暮れの空を見た。


「レオン様」


「はい」


「複雑ですか」


「……少し」


「正直ですね」


「ミレーユ様には嘘をついても仕方ないので」


 ミレーユは静かに笑った。


「私も複雑ですよ。でも」


「でも?」


「エルフィーナ様が誰かと食事に行く。それは良いことだと思います」


「……そうですね」


「エルフィーナ様の世界が、少しずつ広がっていく。それは応援したいです」


 レオンは夕暮れを見た。


「ミレーユ様は本当に強いですね」


「四年分、先に諦め方を学んでいますから」


「私はまだ途中です」


「いいんじゃないですか」ミレーユは言った。「途中でも、傍にいられます」


---


 屋台では、エルフィーナとシグルトが並んで歩いていた。


 護衛は遠巻きに付いてきていた。


 シグルトは変装していた。夏休みと同じ、黒い布で髪を覆っていた。


 エルフィーナは屋台を一つ一つ確認しながら歩いた。


「あの串焼きが前回美味かった」


「覚えているのか」


「食事は記憶している。稽古と同じくらい重要だ」


 シグルトは少し笑った。


「そうか」


「殿下は何が食べたいか」


「お前が美味いと思うものを」


「では串焼きだ」


「それでいい」


 二本買った。並んで歩きながら食べた。


 シグルトが言った。


「今日の巻藁、見ていた」


「そうか。どう思った」


「一刀で木の芯まで断たれた。言葉が出なかった」


「切れ味が完璧だった」


「エルフィーナ、一つ聞いていいか」


「はい」


「今日斬った時、何を考えていたか」


 エルフィーナは少し考えた。


「クラウス殿の仕事を信じて、黒嵐を信じて、動いた。それだけだ」


「迷いがなかった」


「巻藁を前にして迷う理由がない」


「俺には迷いがあった」


「何の迷いだ」


「王太子として動く時、常に計算がある。これをしたらどう見られるか。これは正しい選択か。そういう計算が常にある」


「それは必要な計算ではないか」


「必要だ。しかしお前を見ていると、計算なしに動くことの美しさがある」


 エルフィーナはシグルトを見た。


「計算があるからこそ、殿下は信頼できる」


「……そうか」


「私が計算なしに動けるのは、殿下のような人間が傍にいるからかもしれない」


 シグルトは止まった。


「……どういう意味だ」


「殿下が計算して場を整えてくれる。だから私は動ける。校外学習での連携もそうだった」


「それは」


「刀と鞘のようなものだ」


 シグルトはしばらく黙っていた。


「……刀と鞘か」


「黒嵐は鞘があるから腰に差せる。鞘がなければ動けない」


「俺が鞘だということか」


「そうだ。殿下がいると、私は動きやすい」


 シグルトは空を見た。


 夕暮れが赤かった。


「エルフィーナ」


「はい」


「それは、嬉しい言葉だ」


「そうか」


「ただし」


「ただし?」


「刀と鞘の関係より、もう少し別の言葉で言ってほしいとも思う」


「別の言葉とは」


「……今はいい。また考える」


 シグルトは歩き出した。


 困ったような笑いだった。


 エルフィーナはその笑いを見た。


 見ていたい、と思った。


 それから少し考えた。


 刀と鞘。


 刀は鞘がなければ動けない。鞘は刀がなければ意味がない。


 二つで一組だ。


 黒嵐と白露のように。


 なるほど、とエルフィーナは思った。


 殿下は刀と鞘の関係よりもっと近い言葉を求めている。


 では黒嵐と白露か。


 二本で一組の刀。どちらが欠けても不完全だ。


 それが正しい表現かもしれない。


 今度そう伝えよう、とエルフィーナは思った。


 レオンが聞いたら額に手を当てるだろうとは、気づかなかった。


---


 その夜、クラウスからまた手紙が来た。


 「白露の仕上げに入った。来週末には完成する。試験が終わったと聞いた。よく眠れ。クラウス」


 エルフィーナはその手紙を読んだ。


「来週末か」


「楽しみですね」レオンが言った。


「ああ。白露が完成したら、二刀の稽古を本格的に始める」


「殿下と工房に行くんですか」


「来ると言っていた」


「そうですか」


「何か問題があるか」


「……ありません」


 エルフィーナは手紙を折り畳んだ。


「今夜、ゴドフリーに屋台の串焼きのことを書く」


「稽古の報告じゃないんですか」


「稽古の報告も書く。しかし串焼きが美味かったので記録しておきたい」


「……ゴドフリーは串焼きのことを覚書に書くんでしょうか」


「書くだろう」


「そうですね」


 レオンは窓の外を見た。


 夜が静かだった。


 今日は複雑だったが、穏やかだった。


 エルフィーナが少しずつ変わっていく。


 誤解のままでも、変わっていく。


 それを傍で見ている。


 それが今の自分の場所だと、レオンは思った。


 仕方ない。


 今日の「仕方ない」は、昨日より少し軽かった。

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