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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: 翡翠


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第23話「魔物の森、あるいは黒嵐の初陣」



前編 一日目


 出発の朝は、夜明け前から始まった。


 学院の中庭に百五十名の生徒が整列した。教官が全員の武装を確認した。


 レオンは隣のエルフィーナを見た。


 腰に黒嵐が差してあった。鞘が朝の光を受けて艶やかに光っていた。


「姉上、刀を差したまま馬車に乗れますか」


「外す」


「そうしてください」


「馬車を降りたらすぐ差す」


「はい」


 エルフィーナは黒嵐を腰から外した。両手で持った。その持ち方が、すでに刀を持ち慣れた人間の持ち方だった。


 三週間、毎日素振りをしていた結果だった。


---


 馬車で二時間ほど走ると、森の入口に着いた。


 「魔物の森」という名の通り、森の中には様々な魔物が生息していた。主に中型までの魔物で、一年生の実戦演習には適切な難易度だとされていた。


 グラハムが全員の前に立った。


「二泊三日の演習だ。班ごとに行動し、教官が各班に同行する。目標は魔物との実戦経験を積み、魔法と武術を実戦で使えるようにすることだ。ただし無茶はするな。危険を感じたら合図を出せ」


 レオンは自分の班を確認した。


 エルフィーナ、レオン、ミレーユ、カイ、アロイス。それから同学年の生徒が三名。担当教官はバルディだった。


 シグルトの班は別だった。しかしシグルトがレオンに小声で言った。


「合流できる機会があれば合流する」


「計画しているんですか」


「バルディ教官に許可を取った」


「……さすがですね」


---


 森に入った。


 最初の一時間は静かだった。木漏れ日が差し込み、鳥の声が聞こえた。


 しかしバルディが小声で言った。


「気を抜くな。この森は表層が穏やかなだけだ」


 その言葉が終わった瞬間、茂みが動いた。


 中型の魔物が三体、飛び出してきた。狼に似た形だが、体が青く光っていた。魔力を纏った魔物だった。


 バルディが声を上げた。


「実戦だ。各自の判断で動け」


---


 カイが最初に動いた。


 魔力を手に集めて、一体に向かって撃った。夏休みと二学期の稽古の成果だった。命中した。魔物が怯んだ。


「よし」カイが言った。


「次は仕留めろ」バルディが指示した。


 カイが追撃した。魔物が倒れた。


 ミレーユが二体目を相手にしていた。


 荒く撃て、というエルフィーナの教えを体現した魔法だった。速く、鋭く、精度よりも威力を優先した。魔物が吹き飛んだ。


 三体目が残った。


 アロイスが剣と魔法の複合で動いた。バルディの授業で学んだ複合戦術を、実戦で初めて使った。一度で仕留めた。


 全部で三十秒もかからなかった。


 バルディは腕を組んで三人を見た。


「……悪くない。夏休みに何をしていたんだ」


「エルフィーナ様の道場で稽古をしていました」カイが答えた。


「道場か」


「アルカディア侯爵邸に道場ができました」


「……なるほど」


 バルディはエルフィーナを見た。


 エルフィーナは黒嵐を腰に差したまま、森の奥を見ていた。


「アルカディア令嬢、お前は動かなかったな」


「三人で対処できると判断した。私が動く必要はなかった」


「正しい判断だ」


「それより、奥に気配がある」


「どこだ」


「北東。三百メートルほど先だ」


 バルディは眉を上げた。


「……感知できるのか」


「稽古場では常に気配を読む訓練をしている」


「なるほど」バルディは地図を見た。「今日の行程では、その方向は範囲外だ。近づくな」


「わかった」


---


 昼過ぎ、シグルトの班と合流した。


 シグルトは平静だったが、その班の生徒たちは少し疲れていた。


「魔物が多かったか」シグルトが言った。


「適度だった」エルフィーナが答えた。「殿下の班は」


「三班で十二体対処した。俺は八体を引き受けた」


「八体か。一人で」


「班の生徒を守りながら動くと、そうなった」


 エルフィーナはシグルトを見た。


「怪我は」


「ない」


「よかった」


 シグルトはその一言を聞いて、少し目が細くなった。


 レオンはその顔を見た。嬉しそうだった。


 エルフィーナは気づいていなかった。


---


 夕方、野営地の設営が始まった。


 テントを張り、炉を組み、食料を確認する。


 エルフィーナは設営が終わった後、一人で黒嵐の素振りを始めた。


 カイが隣に来た。


「エルフィーナさん、今日は一度も刀を使いませんでしたね」


「使う必要がなかった」


「使いたくなかったんじゃないですか」


 エルフィーナはカイを見た。


「なぜそう思う」


「なんとなく。大事にしているから、使う時を選んでいる気がして」


「……そうかもしれない」


 エルフィーナは黒嵐を見た。


「この刀は本物だ。使う時は、それに値する相手の時だ」


「どんな相手が値するんですか」


「今日の魔物では、値しない」


 カイは頷いた。


「じゃあ、この森で値する相手は」


「会えるかどうかわからない」


「会いたいですか」


 エルフィーナは少し考えた。


「……正直に言えば、試したい」


「黒嵐を」


「ああ。クラウス殿が作ってくれた刀だ。本物の相手と戦わせてやりたい」


 カイは笑った。


「エルフィーナさんらしいですね」


「そうか」


---


後編 二日目の夜


 事件は二日目の夜に起きた。


 野営地に戻って夕食を済ませた後、見張りをしていたバルディが声を上げた。


「全員起きろ。大型の気配だ」


 一瞬で全員が動いた。


 レオンは武装を確認した。エルフィーナが黒嵐を腰に差すのが見えた。その動作が、一日目より迷いがなかった。


 バルディが地図を広げた。


「北東から来ている。今朝エルフィーナが感知した方向だ」


「そうだ」エルフィーナが言った。「あの時より気配が強い」


「大型か」


「かなり大きい。今まで感じたことのない気配だ」


 バルディは少し表情が変わった。


「……グラハム教官に連絡を」


 しかしその前に、森が揺れた。


---


 木々が折れる音がした。


 それが現れた。


 体長十メートルを超える、熊に似た形の魔物だった。体が黒く、目が赤く光っていた。魔力の放出が見えるほど濃かった。


 野営地の生徒たちが後退した。


「……想定外だ」バルディが言った。「この規模の魔物は通常この森にはいない」


「どこから来た」レオンが言った。


「わからない。しかし今は考えている場合ではない」


 魔物が動いた。


 一歩踏み出した瞬間、地面が揺れた。


 生徒たちが散った。


 バルディが声を上げた。


「生徒は後退しろ。教官が対処する」


---


 しかしエルフィーナは前に出た。


「アルカディア令嬢、下がれ」


「バルディ教官一人では無理だ」


「俺を侮るな」


「侮っていない。あの魔力量では、一人では削りきれない」


 バルディは魔物を見た。エルフィーナの言葉は正しかった。


「では援護しろ。前には出るな」


「わかった」


 エルフィーナは黒嵐を抜いた。


 白い刃が、夜の闇の中で光った。


 レオンはその光景を見て、息を呑んだ。


---


 バルディが動いた。


 複合戦術の本気だった。剣と魔法を同時展開して、魔物に踏み込んだ。


 魔物が怯んだ。しかし倒れなかった。


 カイが援護した。魔力を集中させて、魔物の足元に撃った。動きを鈍らせた。


 ミレーユが続いた。荒く強く、魔物の目を狙った。命中した。魔物が怒声を上げた。


 アロイスが複合戦術で魔物の横から踏み込んだ。有効打だった。


 しかし魔物はまだ立っていた。


 バルディが言った。


「コアを狙う必要がある。この魔物のコアは胸の中心だ。しかし硬い毛に覆われていて届かない」


「隙を作ればいいか」エルフィーナが言った。


「そうだ。しかし」


「できる」


 エルフィーナは動いた。


--- 


 魔物が振り向いた。


 エルフィーナを見た。


 エルフィーナは魔物の正面に立った。


 黒嵐を腰に戻した。


 居合の構えだった。


 レオンは息を呑んだ。


 シグルトが合流してきた。いつの間にか来ていた。


「エルフィーナ」


「殿下、右から援護してくれ。魔物が動いた瞬間に」


「わかった」


 二人が向き合うように展開した。


 シグルトが右側に回った。魔力を集め始めた。


 魔物がエルフィーナに向かって動いた。


 その瞬間、シグルトが撃った。


 魔物の右側面に大きな魔法が直撃した。魔物が左に傾いた。体勢が崩れた。


 その一瞬、胸の毛が広がった。


 エルフィーナが動いた。


 音が聞こえなかった。


 居合抜き。


 鞘から抜いた刃が一直線に走り、魔物の胸のコアを貫いた。


 静止。


 魔物が止まった。


 それから、ゆっくりと倒れた。


 地響きがした。


---


 沈黙が続いた。


 誰も声を出さなかった。


 最初に動いたのはゴドフリーだった。


 いなかった。ゴドフリーはここにいなかった。


 レオンは少し笑った。


 ゴドフリーがいたら、手帳に何かを書いていただろう。


 エルフィーナは黒嵐を鞘に収めた。


 その動作が、ゆっくりだった。


 丁寧だった。


 刀を大切にする人間の動作だった。


---


 バルディが近づいた。


「……アルカディア令嬢」


「はい」


「今の居合、どこで習った」


「前世の記憶と、クラウス工房での稽古だ」


「……なるほど」


 バルディは魔物を見た。


「王立学院の校外学習で、この規模の魔物が出たのは十年ぶりだ。対処できる生徒がいたのは僥倖だった」


「バルディ教官が前に出てくれたから間合いを作れた」


「お前の援護があったから俺が動けた」


「では互いに助け合ったということだ」


「……そうだな」


 バルディは少し笑った。厳しい顔に笑みが浮かんだ。


「刀、よく切れたか」


「完璧だった」


「クラウス老人に伝えておけ」


「伝える」


---


 野営地に戻ると、シグルトがエルフィーナの隣に来た。


「今日の連携、うまくいった」


「ああ。殿下の魔法の角度が正確だった」


「お前が必要な場所を瞬時に判断していたから合わせられた」


「殿下の動きを三週間見ていた。どこに出るかはわかっていた」


 シグルトは少し間を置いた。


「……三週間、俺の動きを見ていたのか」


「稽古相手の動きを把握するのは基本だ」


「そうだな」


 シグルトは夜空を見た。


「エルフィーナ」


「はい」


「今日の居合、美しかった」


 エルフィーナは少し止まった。


「……美しい、というのは武術への評価か」


「そうだ。しかし」


「しかし?」


 シグルトは少し間を置いた。


「それだけではないかもしれない」


 エルフィーナはシグルトを見た。


 その横顔が、困ったような表情だった。


 見ていたい、と思った。


 今日で四回目だった。


 エルフィーナは少し考えた。


 食べ物は見ていたいとは思わない。


 レオンが言っていた言葉だった。


 では、この感情は何か。


 まだわからなかった。


 しかし今日は、一つだけ新しいことがわかった。


 戦いの後にシグルトの顔を見ると、落ち着いた。


 それが何を意味するのかは、まだわからなかった。


---


 その夜、レオンは焚き火の前に座っていた。


 カイが隣に来た。


「レオン様、今日のエルフィーナさんの居合、すごかったですね」


「ええ」


「黒嵐が光った瞬間、息が止まりました」


「私もです」


「あの時、殿下と自然に連携していましたね」


「事前に打ち合わせをしていないのに、二人が同じ動きをしていました」


「……それって」


「ええ」


 カイは焚き火を見た。


「俺、もっと強くならないといけないですね」


「なぜですか」


「今日、エルフィーナさんが動く前に俺が対処できていれば、エルフィーナさんがあの魔物と戦わなくてよかったかもしれない」


「カイさんは十分動きました。ミレーユ様も、アロイス様も」


「でも足りなかった」


「足りなかった部分は次に補えばいいです。今日は今日の全力を出した」


 カイはレオンを見た。


「レオン様、エルフィーナさんのことを考える時、いつもそういうことを言いますね」


「何がですか」


「今できることをやればいい、って。エルフィーナさんと同じことを言います」


 レオンは少し間を置いた。


「……四年間、傍にいましたから」


「影響を受けたんですね」


「そうかもしれません」


 焚き火が揺れた。


 遠くでエルフィーナが黒嵐の手入れをしているのが見えた。


 丁寧に、静かに、刀を拭いていた。


 レオンはその姿を見た。


 今日の居合の瞬間を思い出した。


 白い刃が一直線に走った瞬間を。


 残念な人だ、と思った。


 あれだけ美しい瞬間を作れる人間が、自分の美しさに全く気づいていないということが。


 しかしそれがエルフィーナだった。


 レオンは焚き火に視線を戻した。


 仕方ない、と思った。


 今日の「仕方ない」は、穏やかだった。


---


 三日目の朝、帰路についた。


 森を出る時、エルフィーナが振り返った。


「また来たい」


「魔物の森にですか」レオンが言った。


「ああ。よい稽古場だった」


「大型魔物が出ましたが」


「だからよかった」


 レオンは空を見た。


 帰りの馬車の中で、エルフィーナは黒嵐を膝の上に置いて、静かに目を閉じた。


 珍しかった。


 馬車の中でも素振りの計画を立てるのがエルフィーナだった。


「姉上、眠いんですか」


「いや。考えている」


「何を」


「昨夜、シグルト殿下が居合を美しいと言った」


「はい」


「それだけではないかもしれないとも言った」


「……はい」


「それだけではない、というのは何を指すと思うか」


 レオンは少し間を置いた。


「……殿下に聞いてみてください」


「そうするか」


 エルフィーナは目を閉じたまま言った。


「殿下の困ったような笑いを見ると、見ていたいと思う。今日は戦いの後に殿下の顔を見ると落ち着いた。これは何だと思うか」


 レオンはしばらく黙っていた。


「……姉上が、殿下のことを」


「何だ」


「好きだということだと思います。食べ物とは違う種類の」


 エルフィーナはしばらく沈黙した。


「……そうか」


「はい」


「では、殿下に伝えるべきか」


「それは姉上が決めることです」


「わかった。考える」


 エルフィーナは静かになった。


 レオンは窓の外を見た。


 森が遠ざかっていた。


 今日の「仕方ない」は、どんな意味を持つのか、まだわからなかった。


 しかし少し、穏やかだった。

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