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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: 翡翠


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第22話「刀完成、あるいは鍛冶屋の老人が泣いた日」

 クラウス工房に通い始めて三週間が経った。


 エルフィーナとシグルトは、授業が終わると工房に向かった。毎日ではなかったが、週に四日は顔を出した。


 老人――クラウスは最初の日こそ愛想がなかったが、エルフィーナが来るたびに少し顔が柔らかくなっていた。


 工房では主に二つのことが行われた。


 一つは、クラウスがエルフィーナに刀についての質問をすること。刃の角度、反りの具合、重心の位置、柄の長さ。エルフィーナは前世の記憶を辿りながら答えた。時には木刀で動きを見せた。クラウスはそれを見て、また炉に向かった。


 もう一つは、エルフィーナとクラウスが稽古をすること。


 これはレオンにとって想定外だった。


「姉上、鍛冶屋に来るたびに稽古をしているんですか」


「クラウス殿が求めるので」


「刀を作ってもらう側が稽古をつけているんですか」


「クラウス殿は本物の武人だ。刀を作るために私の動きを理解したいのだろう」


「……なるほど」


「殿下も毎回稽古に参加している」


「殿下も」


「クラウス殿が三人で稽古した方が参考になると言った」


 レオンは外出許可の書類を手に、遠い目をした。


---


 工房での日々は、シグルトにとって奇妙に充実したものだった。


 クラウスは口が悪かった。シグルトのことも最初は「お前も剣を使うのか」と一言だけ言って、あとは無視した。


 しかしシグルトがエルフィーナと手合わせをするのを見て、少し態度が変わった。


「……お前も本物だな」


「ありがとうございます」


「誰に習った」


「学院の教官と、エルフィーナです」


 クラウスはエルフィーナを見た。


「こいつに習ったのか」


「毎日稽古をしています」


「そうか」


 それだけで、クラウスはシグルトを稽古の相手として認めた。


 三人で稽古をする日は、クラウスが審判のように立って、二人の動きに指摘を入れた。その指摘は的確だった。エルフィーナでさえ「なるほど」と言う場面があった。


 シグルトはそれを見て、クラウスへの敬意を深めた。


 エルフィーナが「なるほど」と言う相手は、本物だけだった。


---


 校外学習の五日前、クラウスから連絡が来た。


 「完成した。来い。」


 それだけだった。


 エルフィーナはその日の授業が終わった直後に工房に向かった。シグルトも来た。レオンも来た。


 工房の扉を押すと、クラウスが作業台の前に立っていた。


 その手に、布で包まれた細長いものがあった。


「来たか」


「完成したか」


「ああ」


 クラウスは布を解いた。


---


 レオンは息を呑んだ。


 それは剣ではなかった。


 細長く、緩やかに反った刃だった。片刃で、刃の部分が白く輝いていた。柄は黒く、両手で持てる長さだった。鞘は黒く艶やかで、腰に差すための環がついていた。


 この世界には存在しない形だった。


 しかし美しかった。剣とも槍とも違う、独特の美しさがあった。


「……」


 エルフィーナは無言だった。


 クラウスが刀を差し出した。


「受け取れ」


 エルフィーナは両手で受け取った。


 鞘から抜いた。


 白い刃が、工房の炉の光を受けて輝いた。


 エルフィーナは刃を見た。反りを確認した。重さを確認した。柄を握った。


 構えた。


 一瞬で、空気が変わった。


 剣を持つエルフィーナとも、木刀を持つエルフィーナとも違った。


 刀を持ったエルフィーナは、別の何かになっていた。


 前世の記憶が、体に戻ってきたような顔だった。


---


 素振りを一度した。


 音が違った。


 風を切る音ではなく、空気が震えるような音だった。


 レオンは鳥肌が立った。


 シグルトは動かなかった。その目が真剣だった。


 クラウスは作業台に手をついて、エルフィーナを見ていた。


 エルフィーナは素振りを止めた。


 クラウスを見た。


「……完璧だ」


「そうか」


「重心が前世で使っていたものと同じだ。どうやって」


「お前の動きを三週間見ていた。それだけだ」


 エルフィーナはしばらく刀を見た。


「クラウス殿」


「何だ」


「この刀に名前をつけていいか」


「好きにしろ」


 エルフィーナは少し考えた。


「黒嵐、と呼ぶ」


「黒嵐か」


「前世の言葉で、黒い嵐を意味する」


 クラウスは少し間を置いた。


「悪くない名だ」


---


 クラウスが言った。


「約束通り、手合わせをしろ」


「ああ」


「その刀で来い。俺は剣で相手する」


 工房の中で、二人が向かい合った。


 シグルトとレオンは壁際に下がった。


 クラウスが構えた。七十代の老人の構えとは思えない安定感だった。


 エルフィーナが刀を構えた。


 鞘から抜いた状態で、腰を落とした。前世の居合の構えだった。


 レオンはその構えを見て、今まで見たことがないものだと思った。剣術でも体術でも魔法でもない。ただ純粋に、刀のための構えだった。


 始まった。


 クラウスが踏み込んだ。


 エルフィーナは動かなかった。


 クラウスが間合いに入った瞬間、エルフィーナが動いた。


 音が聞こえなかった。


 気づいた時には、クラウスの剣が止まっていた。エルフィーナの刀の峰が、クラウスの首筋に当たっていた。


 静止。


 沈黙。


 クラウスが剣を下げた。


「……参った」


 声が少し震えていた。


---


 クラウスは作業台に手をついた。


 俯いていた。


 レオンは近づこうとして、止まった。


 クラウスの肩が、小さく動いていた。


 泣いていた。


 七十代の老鍛冶屋が、静かに泣いていた。


 エルフィーナは刀を鞘に収めた。


「クラウス殿」


「……うるさい」


「どうした」


「うるさいと言った」


 しばらく沈黙があった。


 クラウスが顔を上げた。目が赤かった。


「俺は五十年、剣を作ってきた。誰のために作るかは関係なかった。いい剣を作ることだけを考えていた」


「はい」


「しかし今日初めて、この刀を使える人間のために作れた」


「……」


「お前の動きを三週間見て、この刀の形が見えた。お前のための形だった。そういう刀を作ったのは初めてだ」


 エルフィーナはしばらく黙っていた。


「クラウス殿」


「何だ」


「よい刀だ。大切にする」


「当然だ」


「これで死ぬまで戦える」


 クラウスは少し笑った。


「死ぬな。まだ作りたいものがある」


「まだ作るのか」


「お前の動きを見ていたら、もう一本作りたくなった。おまえさんが話していた脇差だ。短い刀だ。体術と組み合わせた時に使えるはずだ」


「では作ってくれ」


「校外学習が終わってからだ。急ぎすぎると粗くなる」


「わかった。待つ」


---


 工房を出た後、三人は少し黙っていた。


 夕暮れの路地を歩きながら、シグルトが言った。


「クラウス殿が泣いていた」


「ああ」


「エルフィーナ、お前はどう思った」


 エルフィーナは少し考えた。


「……嬉しかった」


「どういう意味で」


「私のために作られた刀は初めてだ。前世の兄たちは家宝の刀を使っていた。私はありあわせの刀だった。前世では、誰かに作ってもらったことはなかった」


「今世で初めて、か」


「ああ」


 エルフィーナは腰の黒嵐を見た。


「クラウス殿は本物だ。五十年の仕事が、この刀に入っている」


「そうだな」シグルトは静かに言った。「俺も今日の手合わせを見て、思ったことがある」


「何を」


「エルフィーナが刀を持った時の顔は、剣を持った時と違った」


「そうか」


「前世の記憶が戻ってきたような顔だった」


 エルフィーナは少し間を置いた。


「……そうかもしれない」


「兄たちを思い出したか」


「少し。颯太兄と蓮兄は剣だったが、道場の空気は同じだった」


 シグルトは黙って聞いていた。


「殿下」


「何だ」


「今日の稽古、よかった」


「俺もそう思っている」


「殿下は本当に学習が速い。クラウス殿の指摘を三回で修正した」


「エルフィーナに毎日稽古をつけてもらっているからだ」


「その成果が出ている」


 シグルトはその言葉を聞いて、また笑った。


 困ったような笑いだった。


 エルフィーナはその笑いを見た。


 なぜか、見ていたいと思った。


 今日で三回目だった。


 シグルトの困ったような笑いを見ると、見ていたいと思う。


 理由はまだわからなかった。


---


 その夜、レオンは道場の刀についてゴドフリーへの手紙を書くエルフィーナの隣に座っていた。


「姉上、黒嵐という名前はすぐに決まりましたね」


「前世から決めていた」


「決めていたんですか」


「いつか自分の刀を持てる日が来たら、そう名付けようと思っていた」


「前世でも刀を持っていなかったんですか」


「道場の練習用の刀しかなかった。自分だけの刀は、高くて買えなかった」


 レオンはその言葉を聞いた。


「……今世で、作ってもらえてよかったですね」


「ああ」


 エルフィーナは手紙を書き続けた。


「ゴドフリーは喜ぶだろうな」


「刀の記録を覚書に追加しますね、絶対に」


「そうだろう」


 エルフィーナは少し間を置いた。


「レオン」


「はい」


「今日、シグルト殿下の困ったような笑いを見た」


「……はい」


「あの笑いを見ると、なぜか見ていたいと思う」


 レオンは少し固まった。


「……そうですか」


「三回目だった。なぜそう思うのかはまだわからない」


「……わからないんですか」


「わからない。しかしそう思うのは事実だ」


 レオンは手紙を見た。


「……姉上」


「何だ」


「それは、殿下が好きだということかもしれません」


 エルフィーナはしばらく考えた。


「食べ物のような好きか」


 レオンは少し間を置いた。


「……少し違うかもしれません」


「どう違うのか」


「食べ物は見ていたいとは思わないですよね」


 エルフィーナはしばらく黙った。


「……そうだな」


「もう少し考えてみてください」


「わかった」


 エルフィーナは手紙に戻った。


 レオンは窓の外を見た。


 今夜の自分は、正しいことをしたのか、余計なことをしたのか、まだわからなかった。


 しかし言わずにいることは、もうできなかった。


 夜が静かだった。

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