幕間「ミレーユ・ド・ロシャールの場合」
レオンから話を聞いたのは、夜の談話室だった。
カイとアロイスはすでに自室に戻っていた。談話室にはミレーユとレオンの二人だけだった。
レオンが話し始めたのは、珍しかった。
いつもは聞く側だった。カイの悩みを聞いて、アロイスの変化を見守って、ミレーユの「だめだ」に付き合う。それがレオンだった。
しかしその夜のレオンは、少し違った。
お茶を飲みながら、少し間を置いてから言った。
「ミレーユ様、一つ聞いていいですか」
「何ですか」
「好きとは何だと思いますか」
ミレーユは少し止まった。
「……急ですね」
「急ですが、聞きたかったので」
「エルフィーナ様のことですか」
レオンは少し間を置いた。
「……なぜわかったんですか」
「レオン様がそういう顔をする時は、大体エルフィーナ様のことです」
「そういう顔、というのは」
「困っているような、しかし諦めていないような顔です」
レオンは黙った。
ミレーユはお茶を一口飲んだ。
「聞かせてください」
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レオンが話した。
エルフィーナが「好きとは何か」を整理した夜のこと。シグルトへの好意を「武術や食べ物への好きと同じ種類だろう」と誤解したこと。その誤解を正せなかったこと。なぜ正せなかったかを考えた夜のこと。
全部ではなかった。しかし大事なところは話してくれた。
ミレーユは黙って聞いていた。
レオンが話し終えた。
「……ミレーユ様は、どう思いますか」
ミレーユはしばらく考えた。
「レオン様は、エルフィーナ様のことが好きなんですね」
「……はい」
「いつから気づいていましたか」
「先日の夜に、初めて認識しました」
「認識しただけで、前からそうだったんですね」
「……そう思います」
ミレーユはお茶を持ったまま、窓の外を見た。
中庭から素振りの音が聞こえた。
「私も同じです」
「ミレーユ様も、いつから気づいていましたか」
「気づいたのは十歳の頃でした。名前がついたのはその時でしたが、始まりは六歳の時だったと思います」
「ロシャール家の庭で会った時ですか」
「はい」
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ミレーユは少し遠くを見た。
六歳の時の記憶は、今でも鮮明だった。
庭に出たら、黒髪の少女が老騎士を相手に稽古をしていた。
最初に目に入ったのは、黒髪だった。
この国では珍しい、深く澄んだ黒だった。動くたびに光を受けて、弧を描いた。それだけで目が離せなかった。
次に気づいたのは、その動きだった。
風が鳴った、と思った瞬間に老騎士の木刀が宙を舞っていた。残心の姿勢で静止した少女の横顔が、夕暮れの光の中で浮かび上がっていた。
ミレーユは息を忘れた。
六歳の自分には、その感情を言葉にする力がなかった。ただ、きれいだと思った。強いと思った。目が離せなかった。
その少女がこちらを向いた。
黒い瞳だった。値踏みでも媚びでもなく、ただ真っ直ぐに見てくる目だった。
「ロシャールの娘か」
六歳の台詞ではなかった。しかしその声が、ミレーユの耳にずっと残った。
稽古をつけてやる、と言われた。
ドレスが汚れた。巻き毛が乱れた。疲れ果てて石畳に座り込んだ。
隣にエルフィーナが座った。汗一つかいていなかった。夕暮れの光の中で、その横顔は変わらず美しかった。
「また、来てもいいですか」
自分でも驚くほど素直にそう言っていた。
エルフィーナは当然という顔をした。
「来い。稽古相手は多い方がいい」
それだけだった。
それだけだったのに、胸の中で何かが確かに音を立てた。
その感情に名前をつけるまで、あと数年かかった。しかし始まりはあの日だったと、今でも思っていた。
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ミレーユはレオンを見た。
「エルフィーナ様を初めて見た時、きれいだと思いました」
「ええ」
「それから、強くなれと言ってくれた。本気で相手をしてくれた。今まで誰もそうしてくれなかったから、嬉しかった」
「はい」
「その後、何度も通いました。稽古をつけてもらいました。強くなっていきました。そのたびに、この人のために強くなりたいと思いました」
「ミレーユ様の好きは、ずっと一定していますね」
「変わっていません。ただ」ミレーユは少し間を置いた。「深くなっています」
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ミレーユはレオンを見た。
「レオン様、聞いてもいいですか」
「何ですか」
「エルフィーナ様の誤解を、正そうと思いますか」
レオンはしばらく黙っていた。
「……それはシグルト殿下の役目だと思っています」
「それだけですか」
「……正せない理由が、自分の中にあります。それは正直に言えば、自分勝手な理由です」
「誤解が続いている方が、殿下との距離が縮まらないから」
「……はい」
「正直に言ってくれてありがとうございます」
ミレーユはお茶を置いた。
「私も同じことを思ったことがあります」
「ミレーユ様も」
「殿下がエルフィーナ様に近づくたびに、少し落ち着かなかった。それは正直に言えば、私も同じでした」
「……そうですか」
「ただ」ミレーユは続けた。「今は少し違います」
「何が変わったんですか」
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ミレーユは少し考えた。
何が変わったのか、を整理した。
大会の日のことを思い出した。
エルフィーナが決勝でシグルトと向かい合っていた。木刀を構えながら、確かに笑っていた。
ミレーユはあの顔が好きだった。
しかしあの日、もう一つのことに気づいていた。
演武場の光の中で、エルフィーナは美しかった。
稽古着を着て、黒髪を結い上げて、真剣な目でシグルトを見ていた。その姿は、令嬢としての美しさとも、武人としての美しさとも、どちらとも言えた。
観覧席から見ていたミレーユには、その両方が見えた。
エルフィーナは気づいていなかった。自分がどれほど美しいか、どれほど人の目を引くか、それを一切気にしていなかった。ただ、目の前の相手だけを見ていた。
その無頓着さが、かえって眩しかった。
どれだけ美しくても、どれだけ強くても、本人は「次の稽古でどこを修正するか」しか考えていない。
残念な人だ、とミレーユは思った。
しかし同時に、そういう人だからこそ好きなのだとも思った。
あの日、エルフィーナが笑った顔を見て、ミレーユは思った。
どんな形であれ、この人が笑っていてほしい。
それが、自分の中で一番大事なことだと気づいた。
「エルフィーナ様が幸せであることが、私にとって大事だと気づきました」
「それはいつ気づきましたか」
「大会の後、くらいだと思います。エルフィーナ様が試合の時に笑っていた顔を見た時です」
「あの笑顔ですか」
「あの顔を見て、私はどんな形であれ、エルフィーナ様が笑っていてほしいと思いました」
レオンは黙っていた。
「諦めたわけではありません」ミレーユは続けた。「ただ、エルフィーナ様が幸せであることと、私がエルフィーナ様を好きであることは、別の話だと気づきました」
「別の話、というのは」
「エルフィーナ様が誰かと幸せになっても、私はエルフィーナ様のことが好きです。それは変わりません。ただ、だからといってエルフィーナ様の幸せを邪魔することはしたくない」
「……」
「レオン様はどうですか」
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レオンはしばらく黙っていた。
「……私も、姉上が幸せであることを望んでいます」
「でも」
「でも、邪魔したくないとはっきり言えるかどうかは、まだわかりません」
「正直ですね」
「ミレーユ様に嘘をついても仕方ないと思ったので」
ミレーユは少し笑った。
「レオン様、一つだけ言ってもいいですか」
「はい」
「私たちは似ています」
「どういう意味ですか」
「エルフィーナ様を好きな理由が、似ています」
「どんな理由ですか」
「エルフィーナ様が、私たちのことを見てくれるからです」
レオンは少し間を置いた。
「見てくれる、というのは」
「身分でも、条件でも、背景でもなく、ただその人間を見てくれる。私はロシャール伯爵家の令嬢として見られることが多かった。でもエルフィーナ様は、魔法が上達したかどうかだけを見てくれた」
「……私は養子として引き取られた時、目立たないようにしようと思っていました。しかし姉上は、最初から私をただのレオンとして見てくれた」
「そうです」ミレーユは静かに言った。「そういう人は、なかなかいません」
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しばらく二人は黙っていた。
素振りの音が続いていた。
ミレーユが言った。
「レオン様」
「はい」
「私たちは、エルフィーナ様の傍にいる理由を、ちゃんと持っています」
「どういう意味ですか」
「好きだから傍にいるだけでなく、傍にいることで何かができます。私はエルフィーナ様が気づいていないことを補える。レオン様は姉上が見落としていることを全部管理している」
「それは役目です。好きだからということとは別です」
「別じゃないと思います」ミレーユは言った。「好きだから、その役目を全力でやれる。それは立派なことだと思います」
レオンは黙っていた。
「……ミレーユ様は、強いですね」
「強くなりました。エルフィーナ様に鍛えてもらったので」
「私も鍛えてもらいましたが、ミレーユ様ほど強くなれていない気がします」
「何が違うんでしょうね」
「……ミレーユ様は六歳から四年多く、姉上の傍にいます」
「それだけで四年分、諦め方を学べましたから」
ミレーユは少し笑った。
レオンも少し笑った。
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談話室の時計が夜半を告げた。
「そろそろ寝ます」ミレーユが言った。
「はい。今夜は話を聞いてくれてありがとうございました」
「私も、同じことを話せる相手がいてよかったです」
ミレーユは立ち上がった。
出口のところで振り返った。
「レオン様」
「はい」
「シグルト殿下の誤解の件ですが」
「はい」
「いつかは正される時が来ます。その時にどうするかは、その時に考えればいいと思います」
「……そうですね」
「今夜認識したことは、今夜だけのことではありません。ゆっくり考えてください」
「ありがとうございます」
ミレーユは談話室を出た。
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廊下を歩きながら、ミレーユは少し立ち止まった。
中庭が見える窓だった。
エルフィーナはまだ素振りをしていた。
その姿を、ミレーユはしばらく見ていた。
夜の中庭に、月の光が差し込んでいた。
エルフィーナの黒髪が、素振りのたびに弧を描いた。月光を受けて、その軌跡が僅かに光った。
長身の輪郭が、闇の中にくっきりと浮かんでいた。
稽古着姿でも、礼服姿でも、外出着姿でも、どんな格好をしていても、エルフィーナは美しかった。しかし今夜のように、ただ一人で黙々と素振りをしている姿が、ミレーユは一番好きだった。
誰かに見せるためではなかった。誰かに評価されるためでもなかった。
ただ、強くなりたいから動いている。
その純粋さが、その横顔に出ていた。
ミレーユは窓に手を当てた。
六歳の時と同じだと思った。庭でエルフィーナを初めて見た時と、同じ感覚だった。
きれいだ、と思った。
ただそれだけで、胸の中が満ちた。
素振りが止まった。
エルフィーナが空を見上げた。
何かを考えているような顔だった。
おそらく明日の稽古の計画か、道場生への課題か、そういうことを考えているのだろう。シグルトへの想いを整理したはずの夜でも、考えていることはそういうことだった。
ミレーユは少し笑った。
残念な人だ、と思った。
あれだけの美貌と魅力を持ちながら、頭の中が武術と食事の栄養バランスと稽古相手の強さで埋め尽くされている。月明かりの中で絵のように美しい姿で空を見上げながら、考えているのは明日の稽古のことだ。
しかし、それがエルフィーナだった。
そしてそれも含めて、好きだった。
ミレーユは窓から離れた。
自室への廊下を歩きながら、今夜の会話を思い返した。
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一つだけ、レオンに言わなかったことがあった。
ミレーユは少し止まった。
レオン様は、エルフィーナ様に一番近い場所にいます。
義弟として。傍にいる人として。見落としを補う人として。
その近さは、シグルト殿下にも、私にも、カイさんにも、ない近さです。
それがどういう意味を持つかは、まだわかりません。
しかし意味を持つ日が来るかもしれません。
その言葉を、今夜は言わなかった。
言う必要がある日が来るかどうかは、まだわからなかった。
ミレーユは自室の扉を開けた。
中庭からはもう、素振りの音はしていなかった。
エルフィーナも眠る時間になったらしかった。
ミレーユは目を閉じた。
明日も、エルフィーナの傍にいる。
それだけで、今夜は十分だった。




