幕間「仕方ない、では済まない話」
エルフィーナが「整理がついた」と言った朝から、レオンは少しおかしかった。
おかしい、というのは体調の話ではなかった。
頭の中がおかしかった。
授業中も、食事中も、稽古中も、同じことを考えていた。
エルフィーナが言った言葉が、頭から離れなかった。
――殿下は私のことを、武術や食べ物のような好きで気に入っている。
――私も殿下に似たような感情がある。互いに同じ種類の好意を持っているということだ。
誤解だった。完全な、盛大な誤解だった。
シグルトはそういう意味で言っていない。レオンにはわかっていた。
しかしレオンは何も言えなかった。
なぜ言えなかったのか。
それを考えていた。
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その日の夜、レオンは自室で天井を見ていた。
正直に確認することにした。
なぜ姉上の誤解を正さなかったのか。
理由は一つではなかった。
まず、エルフィーナの誤解を正すことがシグルトの役目だと思っていた。レオンが横から正すべきことではない。それは本当のことだった。
しかし、それだけではなかった。
もう一つの理由があった。
それを認識した瞬間、レオンは少し止まった。
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正直に言えば、エルフィーナの誤解が続いている間は、シグルトとの間に距離がある。
その距離が、なくなることを、どこかで惜しいと思っていた。
レオンはその事実を確認した。
確認してから、しばらく動けなかった。
――仕方ない。
いつものように、その言葉を使おうとした。
しかし今日は、出てこなかった。
仕方ない、では済まない話だった。
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レオンは自分の感情を整理しようとした。
エルフィーナのことを、姉として見ているか。
見ている、と思った。姉だった。義理の、しかし確かに姉だった。
姉として信頼しているか。
している、と思った。誰よりも。
姉として好きか。
……好きだと思った。
しかしそれだけか。
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少し距離を置いて、エルフィーナのことを考えた。
客観的に見ようとした。
外見は、誰がどう見ても美しかった。黒髪は艶やかで、黒い瞳は真剣な時に独特の輝きを持った。長身で、均整の取れた体躯。稽古で鍛えられた体は、しかし硬質ではなく、むしろ滑らかだった。
レオンは義弟として四年間傍にいた。見慣れているはずだった。
しかし見慣れているということと、美しいと思わないということは、別だった。
食堂で向かいに座る時、窓から光が差し込む角度によっては、思わず目を逸らしたことがあった。
稽古の後、額に汗を滲ませながら木刀を構える姿を、見ていたいと思ったことがあった。
それは義弟の目線ではなかった、と今夜初めて認識した。
そして同時に、もう一つのことも認識した。
あれだけの容姿と魅力を持ちながら、頭の中が「武術」と「食事の栄養バランス」と「稽古相手の強さ」で埋め尽くされているということを。
今朝も、朝食の席で「この肉の焼き加減は稽古後の筋肉回復に最適だ」と真顔で言っていた。
昨日は、シグルトから恋愛的な好意を向けられていることを「武術や食べ物への好きと同じ種類だろう」と整理して満足していた。
どれだけ美しくても、どれだけ魅力的でも、たどり着く結論が「稽古相手として好ましい」と「消化のいい食事のようなもの」だった。
レオンは少し遠い目をした。
残念、という言葉が頭に浮かんだ。
しかしそれがエルフィーナだった。
そしてそれも含めて、レオンは好きだった。
――それが問題だった。
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レオンはさらに確認した。
シグルトへの感情を確認した。
シグルトのことは、尊敬していた。実力があって、誠実で、エルフィーナを真剣に見ている。
嫌いではなかった。むしろ好意を持っていた。
しかしシグルトがエルフィーナに近づくたびに、何かが落ち着かなかった。
それが何かを、レオンはずっと「仕方ない」という言葉で処理してきた。
しかし今夜は、その言葉が出てこなかった。
落ち着かない理由を、正直に確認しなければならなかった。
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理由は、シンプルだった。
シグルトがエルフィーナに近づくことが、嫌だった。
嫌、というのは正確ではなかった。
シグルトがエルフィーナを好きなことは、わかっていた。それは本物だった。エルフィーナのことを真剣に見ている人間として、シグルトは誠実だった。
では何が落ち着かなかったのか。
エルフィーナが「信頼できる人」とシグルトのことを言った時のことを思い出した。
その言葉を聞いた時、胸の奥が少し痛かった。
なぜ痛かったのか。
シグルトと同じ言葉を、自分にも言ってほしかったからか。
……違った。
エルフィーナはレオンに「よい弟だ」と言ってくれた。「感謝している」とも言ってくれた。それは十分だった。
では何が足りなかったのか。
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レオンは長い時間をかけて、その問いと向き合った。
答えは、ずっと前からあった気がした。
ただ、認識したくなかっただけだった。
養子として引き取られた日のことを思い出した。
エルフィーナが木刀を持って出迎えた。「今日からお前の姉だ」と言った。
その声が、少しも嫌ではなかった。
翌朝、素振りをしている姉のところに自分から降りて行った。
あの時、胸の奥で何かが灯ったと思っていた。姉への親しみだと思っていた。
しかし今夜、改めて確認すると、それが何だったかがわかった気がした。
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レオンは天井を見た。
星が見えるわけではなかった。ただの天井だった。
事実として確認できることを並べた。
エルフィーナの傍にいる時間が、誰といる時間よりも心地よかった。
エルフィーナが誰かに向けた笑顔を、自分にも向けてほしいと思うことがあった。
エルフィーナがシグルトと話している時、視線が向いてしまっていた。
エルフィーナが「よい弟だ」と言った時、返事ができなかった。
全部、並べると一つの答えになった。
レオンはその答えを、静かに認識した。
認識してから、少し間を置いた。
それから、息を吐いた。
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仕方ない、と思おうとした。
しかし今夜は、その言葉が違う意味を持った。
仕方ない、というのは諦めの言葉だった。今まではそれで済んでいた。
しかし今夜は、諦めるには早すぎる気がした。
かといって、何かをするべきかどうかも、わからなかった。
エルフィーナは義姉だった。
シグルトは婚約者だった。
レオンは養子だった。
条件だけを並べれば、話にならなかった。
しかしエルフィーナは言っていた。強さに身分は関係ない、と。
身分だけでなく、条件も関係ないのかもしれなかった。
それはエルフィーナが相手に向ける言葉であって、自分に向ける言葉ではない気もした。
しかし。
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レオンは窓の外を見た。
中庭から素振りの音が聞こえた。
エルフィーナは今夜も稽古をしていた。
その音を聞きながら、レオンは思った。
何もしなくていいかもしれない。
今のまま、傍にいるだけでいいかもしれない。
それが一番自然で、一番正しい気がした。
しかし今夜認識したことは、消えなかった。
仕方ない、という言葉で処理できなくなったことは、元には戻らなかった。
レオンは目を閉じた。
素振りの音が続いていた。
夜が更けていた。
――仕方ない。
その言葉が、今夜初めて、本当の意味で出てきた気がした。
仕方ない。
この気持ちは、仕方ない。
諦めではなく、ただ事実として。
仕方ない。
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翌朝、レオンは縁側に降りた。
エルフィーナはすでに素振りをしていた。
その背中を見た。
いつも通りだった。黒髪が弧を描いて、鋭い音が静寂を裂いた。
何も変わっていなかった。
エルフィーナが振り返った。
「レオン、早いな」
「……はい」
「今日の顔色はどうだ。昨日より悪くないか」
「大丈夫です」
「そうか」
エルフィーナは素振りに戻った。
レオンはお茶を持って縁側に座った。
ゴドフリーが来た。手帳を持って。
「若、おはようございます」
「おはようございます、ゴドフリー」
「昨夜は眠れましたか」
「……少し考えていました」
「何をお考えでしたか」
「なんでもないです」
ゴドフリーは少し間を置いた。
「そうですか」
それだけ言って、手帳を開いた。
素振りの音が続いていた。
レオンはお茶を飲んだ。
温かかった。
仕方ない、とまた思った。
今日の「仕方ない」は、昨日より少し穏やかだった。
しかし縁側から見えるエルフィーナの横顔が、朝の光の中で美しかった。
レオンは視線を逸らした。
お茶を一口飲んだ。
――残念な人だ。
そう思いながら、それでも目が向いてしまうことを、今日はもう諦めることにした。




