また一つ
康太はゆっくりと目を開けていた。
分厚い雲が、空を灰色に染めていた。煉瓦造りの屋根の低い建物が遠くに見える。それ以外は地平線の限りまで果て無く続く草原と、わずかに耕された畑、そして視界の隅には鬱蒼とした森がある。
見慣れぬ風景、見たことのない建物、そして、目の前には一つの十字架が地面に突き立てられていた。
木の棒と杭、そしてそれらをロープで縛りつけただけの、なんとも粗雑で急ごしらえな十字架。
宗教の類に疎い康太でもその十字架の意味が分からないほど、康太はもの知らずではなかった。
墓だ。これは誰かの墓だ。それが誰のものなのかはわからないが、この墓は誰かの墓なのだろう。誰かが死に、この土の下で眠っているのだろう。
なぜ自分がこんなところに立っているのか、なぜ自分がこんな場所にいるのか、なぜこの墓から目を背けられないのか、康太には分らなかった。
「だから言っただろう。魔術には限度というものがあるのだ」
康太の背後から声がする。聞きなれた声だった。自分が何度も聞いた声だった。だがその声は日常的に康太が聞くそれよりもずっと凛としており、康太が普段聞くそれよりも静かで沈んだものだった。
振り返ると、そこには見慣れた少女が立っていた。
アリシア・メリノス。康太が知るそれよりも、ほんのわずかに幼いその姿を見て、康太は目を細めた。
康太が一体どういうことなのかと、ここはどこなのかと問おうとするが、康太の口は動かない。康太の体は動かない。
以前迷子になった時のように、アリスに駆け寄りその助力を乞いたいところだったが、康太の体はまったく康太の思い通りに動いてはくれなかった。
「お前がどれだけその身を削ろうと、お前がどれだけ魂を摩耗させようと、お前が助けられる人間には限りがあるのだ。なぜそれを理解しようとせんのか」
「・・・理解はできているつもりなのです。ですが・・・」
「・・・納得はできんか」
「・・・はい。私はあなたほど・・・人の死になれていないのです」
自分の口から放たれた声は、康太自身のそれとはかけ離れたものだった。誰の声だろうか、その疑問は康太の中では既に解消している。
この光景、この風景、そしてその目の前の墓。
これはかつてデビットが見た光景だ。そしてかつてデビットが経験したことだと、康太は悟っていた。
アリスがなぜこの場所にいるのかも、何となく察しがついていた。アリスはデビットと何らかの関係があったのだろう。アリスがデビットに対して何やら思うところがあったのも、おそらくはそういった事情があったからに他ならない。
ゆっくりと歩みを進めたアリスが、自分の横に立つ。その身長差が明らかになると、康太はさらに眉をひそめた。
普段の自分よりも身長差が大きい。外見的にほとんど変化のなかったアリスだが、身長が多少は違うということか、あるいはデビットの身長がそもそも自分のそれとは異なるのだろうかと康太は訝しむが、今はその考察に意味はなかった。
「無理に納得しろとは言わんが、いつまでもそうしていたら村の人間が心配するぞ。お前はあの村の支えなのだろう?ならばその責務を全うしろ。やらねばならぬことがあるというのに絶望する暇がお前にあるというのか?」
アリスの言葉は普段のそれからは想像ができないほどに理知的なものだった。堕落と娯楽をこよなく愛する引きこもりのそれとは根本的に何かが異なる。
時々真面目になるアリスのそれを思い出して、実はこれが本当の姿なのではないかと康太は思ってしまう。
「・・・お師匠様は、挫折をしたことはないのですか?努力し、苦悩し、進歩したと思ったら・・・こんな・・・こんな・・・!」
手を強く握りしめる。爪が肉に食い込み、血を流さんとする中で、アリスが唐突に康太の、デビットの尻を叩いた。
初めてそうされたにもかかわらず、康太はなぜか懐かしさを覚えていた。アリスに叩かれたことなど一度もないというのに、いつもこうされていたかのような錯覚を覚える。
「私の人生など挫折だらけだ。少し高い場所にあるものをとることもできん。大きく重いものを持ち上げることもできん。蒸かした芋は飽きた。魚の骨がうまく取り除けん。何より、誰かが死んでいくのを止められん」
日常的にある不満も、決定的に決められている寿命に対する不満も、アリスにとっては同じようなものだった。
どうしようもない。魔術でどうにかできるものもあれば、どうにもできないものもある。アリスはそれを理解していた。
魔術とは技術だ。ありとあらゆる物事に応用できるかもしれないが限度がある。どうしようもないことも、どうにもできないものもある。
長く生きたアリスは魔術の限界を、どうしようもない現実を理解できている。納得もしている。だがそれを理解できても、納得するにはデビットは若すぎた。
「忘れるな。こやつの死はお前の未熟が引き起こしたことではない。今の段階における魔術の限界にぶつかったにすぎん」
暗にお前のせいではないとアリスが言っているにもかかわらず、デビットはそれを納得することはできなかった。
康太がそれを納得することができなかったように。
「でもアリス、俺がもっと凄ければ、俺がもっと頑張れれば、助けられたんじゃないのか?」
デビットの声ではない、康太の声が口から発せられた。
アリスには聞こえていない。この体の主であるデビットにも聞こえていないようだった。
だが、康太はこの体を自分の体として動かすことができていた。
康太とデビットの親和性が、また一つ強くなる。




