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45話 『唆しの名人』

 長い、長い沈黙が医局に落ちた。


 薬草の匂いだけがやけに濃く、空気の中に滞って、鼻をつく。

 二人の男は落ち着きなく、視線を杳と亘の間で行き来させている。亘は硬い表情のまま腕を組み、深く目を伏せて動かない。

 そして杳は、固く握りしめた拳を膝の上に置き、ただ俯いていた。その肩がかすかに震えている。


 やがて杳は腹の底に溜め込んだものを吐き出すように、長く息を吐いた。


「叔父さん」


 静かに亘を呼ぶ。


「……この二人は、いつ動かせるようになる?」

「熱さえ下がれば……おそらく、明日か、明後日には」


 短いやり取りのあと、杳は一瞬だけ目を伏せ、何かを決めるように頷いた。


「そうか……じゃあ、背負子を二つ出しておいて」

「背負子?」

「そう。それで二人を荷前の家へ連れて行って抗議する」


 亘が眉を寄せる。

「迎えに来させればいいじゃないか」

 もっともな問いだったが、杳はきっぱりと首を振る。

「……いや」

「――荷前の者に、うちの敷居を跨がせたくない」


 その声には、激情よりも深く冷たい、絶対的な拒絶が滲んでいた。


 杳は、男たちへと向き直る。

「ここから荷前の家まではかなり歩く。背負子で運ばれるとはいえ、おまえたちの身体には堪えるだろう。……それまでに、できるだけ体力を回復させておけ」


 それだけを言い残し、杳は医局を出た。


 向かった縁側には及己が座っていた。庭の木々を眺めているようでいて、その実、意識のすべてを医局の内側に向けていたことはその張り詰めた背中が雄弁に物語っている。


「聞いたか」

「聞いた」

 即答だった。


「煽った奴の目星はついたか」

「ヴォルフィスと見て間違いない」


 及己は庭から視線を外さぬまま、断言する。


 バアルベリトやエリダナと共にこの地を貶めようと画策する中で、三家の顛末を知った。佐伯家への不満、帳簿改竄の疑惑。ヴォルフィスは、その歪んだ好機を逃さなかったのだ。


「唆しの名人……奴の得意とする、最も汚い手口だ」


「……そいつ、強いのか」

「力だけなら大したことはない。だが、決して表に出てこない分、捉えにくい。……ある意味一番厄介な奴だ」

 考え込む杳から視線を外し、及己は庭越しにこの土地を覆う昏い空を見遣った。

 そして、獲物を睨む狩人のように、その金の瞳を細める。


「――絶対に逃さない。必ず杳たちの前に引き摺り出す」



 その夜、亘は二人の男の世話のため医局に詰めきりとなり、杳は一人居間で夕餉をただ黙々と口に運んでいた。

 その向かいに、及己が湯気の立つ茶を手に静かに座っている。


 その意識が索敵の網を土地の外へと広げているのを、杳は肌で感じていた。

 邪魔をしてはならない。

 そう思い、杳もまた言葉を発することはなかった。

 翌日には二人を荷前の家へ連れて行けるだろう。亘からそう聞かされた杳の視線が、居間の隅に置かれた二つの背負子へと、ふと滑る。


 その瞬間だった。


 及己が手にしていた湯呑みを、ことりと畳に置く。次の刹那、彼女の姿は音もなく掻き消えた。

 杳はさほど動揺を見せず、ただ及己が座っていた座布団をじっと見つめていた。


  ♢


 及己が転移した先は生かしておいた小鬼の、その前だった。

 小鬼の前に男が立っている。小鬼はすでに輪郭を失いかけた黒いもやと化し、その先がまるで臍の緒のように目の前の男と繋がっていた。


「……ヴォルフィス」

 低く凍りついた声で名を呼ぶ。

 男が反応するより早くその首元を掴み、地面へと組み伏せた。


「……ルイ・ブラインか。こんなに早く捕まるとはな……」


 男が、背中越しに及己を睨み上げ、憎々しげに吐き捨てる。

 小鬼は完全に霧散し、ただの土塊へと還っていった。


「やはり小鬼はおまえの分身だったか」

「どうも弱く作りすぎてしまったようだ。封印文字の制約のせいか……忌々しい」


 ヴォルフィスの目は忙しなく彷徨っている。この状況からなおも活路を探ろうとする、その往生際の悪さが見て取れた。


「小鬼を作った理由、墓を暴いた理由、すべて吐いてもらう。――本人たちの前で」


 そう告げ、及己は再び佐伯家の庭へと転移した。


 縁側には、杳と亘がいた。及己の転移を、亘が察したのだろう。二人の視線が、地面に押さえつけられた男へと突き刺さる。


「こいつが……」

「そう、ヴォルフィスだ」


 杳は改めてその男を見た。そして、わずかに動揺する。


 その男は、あまりにも『普通』だった。尖った耳と異国の装束がなければ、人の群れに紛れても気づかれないだろう。背は高いが、亘と大差ない、細身で細目の褐色の髪をした男。

 だが、その普通さこそが、底知れぬ不気味さを醸していた。


「佐伯の現当主と……あの男の兄弟か……」


 苦虫を噛み潰したように、ヴォルフィスが言う。

 その瞬間、場の空気が凍りついた。


 ――あの、男の、兄弟?


「忌々しいことだ……っ!」

 押さえつけられた喉の奥から、呪詛のような呻きが漏れる。


「どういうことだ」


 及己が抑える力を強める。骨の軋む音が、静かな庭に鈍く響いた。

 ヴォルフィスは背中越しに及己を睨み上げ、顔に憎悪と歪んだ愉悦を浮かべる。


「力しか能のない貴様に分かるわけがない……! 私のこの忌々しさが……!」

「能書きはいい。全て吐け」

 あまりにも無機質な命令に、ヴォルフィスはふっと笑った。そしてその視線を舐めるようにゆっくりと亘へ向け、唇を醜悪に吊り上げる。


「――おまえが、弟を失った怒りを佐伯家にぶつける様は愉快だったぞ」


 その言葉が届いた瞬間、亘の顔からさっと血の気が引いた。


「あのまま責め苛んでいればよかったものを」


 ヴォルフィスは、恍惚と過去を語る。

「あの女も随分と気に病んでたからなぁ。そのまま流産でも死産でもしさえすれば、佐伯の血は絶え、完全に崩壊していただろうに」

「そうすれば、ルイ・ブラインも付き従う相手を失い、彷徨うことになっていた」

 嘲るように、及己を見上げる。


「そうなってさえいれば、土地を奪うことも、本を潰すことも容易かったはずだ」


「――それを。女が身籠っていると知った途端に軟化しおって。全く、拍子抜けだ」

 ヴォルフィスは、言葉を失っている三人をゆっくりと見渡し、醜悪な笑みを浮かべて言い放った。


「――何のために、あの(コウ)とかいう男を唆したのか――」



 時が、凍りついた。



 風の音も、葉擦れの音も、心臓の音さえも、世界から切り離されたように消えた。


 及己のヴォルフィスを押さえつける手の力が、無意識のうちにほんのわずか緩む。

 その一瞬の空白を、ヴォルフィスは決して逃さなかった。

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