46話 及己の失敗
及己の意識が凍りついた、その刹那。
彼は満足そうな歪んだ笑みを浮かべ、地面に伏したまま及己を睨み上げ、高らかに言い放つ。
「かかったな、ルイ・ブライン! 教えてやるぞ、墓を暴いた本当の理由を!!」
その声には、勝利の愉悦が滲んでいた。
「先代の骨で佐伯家の気配を纏い、結界を通り抜けるためだ!」
「だが、失敗してもよかったのだ! おまえたちの怒りを煽れさえすればな!」
「そしてその通り、貴様は私を結界内に引き入れた、自白させるために!それこそが私の真の狙いだったのだ‼︎」
畳みかけるような言葉の奔流。
及己が何かを悟ったその瞬間に、ヴォルフィスは決定打を叩きつける。
「私の一部をこの地に埋め込んだ! これで私はいつでもここへ出入りできるぞ‼︎」
叫びと同時に、ヴォルフィスの身体が陽炎のように揺らいだ。
肉体の輪郭が崩れ、次の瞬間、それは無数の文字へと砕け散る。
「……っ‼︎」
及己の拘束から解き放たれた文字たちは、瞬く間に黒く鋭い針となり、地面を穿ち姿を消した。
残されたのは深く、そして重い静寂だけだった。
庭の木々は何事もなかったように風に揺れている。そのあまりにも平穏な光景が、かえって現実感を失わせていた。
杳も、亘も、ただ呆然と文字が消えた地面を見つめている。
及己だけが、悔しげにその場所を睨み続けていた。
「……やられた」
絞り出すような声が静寂の底に落ちる。彼女は固く握りしめた自分の手を、まるで初めて見るかのように見つめていた。指先が、かすかに震えている。
「……一体、どういうことだ……」
動揺を隠しきれないまま、杳が躊躇いがちに問いかける。
「なんで封じ句も読み上げていないのに文字に……」
及己は空を仰いだまま、歯噛みするように答えた。
「……あれは精巧に作られた分身だ。……見破れなかった……」
「分……身……?」
あれが? 確かに、文字としての実体を見たはずなのに。
「すっかり騙された」
及己はそっと地面に手をつく。
その指先が、まだヴォルフィスの悪意の残りを探っているかのようだった。
「あれは楔だったんだ」
「楔?」
「この地に分身を引き込ませ、楔を打ち込む。その楔が転移の目標点となる」
「……あいつは結界を通り抜けることなく、この地に入る方法を得た……」
言葉を選ぶように、及己は続ける。
「……カタがつくまでは、索敵の範囲を結界内に絞るしかないな……」
憎々しげな呟き。そして彼女は、金の瞳に深い悔恨を滲ませながらゆっくりと杳と亘の方へ向き直る。
「……私が軽率だった。すまない」
心底からの謝罪とともに、及己は深く頭を下げた。
――その時だった。
亘の身体が、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
小刻みに震える手、土気色を通り越して蒼白になった顔。
「――亘……」
「……叔父さん……」
かける言葉を失う二人だったが、その張り詰めた沈黙を杳が破った。
「……及己。あいつは唆しの名人だって言ったよな」
「……言った」
「――これも唆しの一環じゃないのか」
その言葉に、及己も地に伏した亘も、戸惑いながら杳を見る。
「及己には失態を印象付けさせる。叔父さんには過去を混ぜ返して罪の意識を植え付ける。お互いの悪い感情を煽って、孤立させる――」
杳は静かに言葉を重ねる。
「あいつがやりそうな手じゃないか?」
「……確かに、そうかもしれない……でも……」
震える声で亘が漏らす。その瞳には、なおも拭いきれない後悔が残っていた。
その言葉を、静かに、はっきりと杳は遮る。
「――叔父さんは、おれの叔父さんだよ」
続いて、真っ直ぐに及己を見る。
「――及己は、おれの友人だ」
重ねられた言葉はどんな叱責よりも、どんな慰めよりも強く響いた。
亘も及己も一度は溢れかけた感情をぐっと呑み込み、顎を引く。
「及己」
「ん?」
「あいつは父さんを唆した、と言ったよな」
「……確かに言った」
「あいつが父さんの死に関わっていると見ても、早とちりにならないな」
「……私もそう感じた」
「そうか」
杳は短く息を吐く。そして静かに、決意を込めて宣言した。
「――じゃあ、今度こそ本体を締め上げるぞ」
「……必ず」
「この地に打ち込んだ奴の楔……それを拠り所に侵入してくるなら…この土地に潜った楔を捕らえさえすれば、反撃できるんじゃないか……?」
及己はそう言いながら土に手を触れ、その指先から索敵の念を再び土地全体へと広げていく。
及己の手と、その下の土を見比べながら、杳はしばし考え込む。
やがて自身もかがみ込み土に触れた。ひやりとした土の感触に、脈動を感じ取る。
「……いや、多分その目論見は崩れると思う」
「え?」
「ここは循環機能を失ったタタリが溢れる土地だ」
杳の表情に勝機の笑みが浮かぶ。
「中途半端に鬼鎮めに挑んだ分家の連中がどうなったか覚えてるだろ?」
「……あ」
「あれだけの悪意を持った精神だ。タタリが黙っているはずがない」
そう言うと、杳は立ち上がり仏間に置いていた『橋』を持ってきた。
そして二人の前で、それを地面に突き立てた。
「――確認してくる」
精神が速やかに土地の底へと潜っていく杳の背中を、及己と亘は言葉もなくただ見守っていた。
「……亘、大丈夫か」
及己の問いは、気遣いというよりも確かめるような響きを帯びていた。
亘は一瞬、言葉を探すように視線を泳がせ、それから力なく笑う。
「……あ、ああ……。情けないな……僕よりきっと、杳の方が堪えているはずなのに……」
その声は震えを抑えようとして、かえって弱々しく聞こえた。
及己は精神が抜けた杳の背を見つめ、深く息をつく。
「……杳にはどこまで話してる?」
問いは慎重だった。亘はしばらく考えるように黙り込み、それから首を振る。
「……具体的には何も……。もう亡くなっているという、その事実だけでも辛いと思ったから……」
及己は、言葉を継ぐことができず、視線を落とす。
「私にも、今でも分からないんだ。なんで、どうやってヴォルフィスが杲を……」
語尾は自然と消えていった。
二人はそれ以上言葉を交わすことなく、ただ精神を地の底へと沈めた杳の背を、まるで祈るように見つめ続ける。
「……本人次第だけど」
沈黙を破ったのは及己だった。意を決したような声で、そっとつぶやいた。
「……話した方がいいかもしれない」
亘の返事はない。だが、その言葉は亘の決意を促すものだった。
『橋』を伝い地の下へと潜った杳は、ほどなくしてヴォルフィスの楔を見つけ出していた。
その気配はあまりにも異質で、周囲とは明確に断絶している。
そしてその周囲には、無数のタタリが渦を巻くように寄り集まっていた。タタリたちは突然入り込んできた異物を、かつてこの土地に侵入してきた略奪者と重ねたのだろう。憎しみと拒絶を剥き出しにし、激しく執拗に楔へと攻撃を加えている。
ヴォルフィスの楔は、黒く小さなもやの玉のような姿となり、困惑するように動けなくなっていた。
杳はタタリたちの流れを慎重に避けながら、赤布を操りもやを一息に包み取る。
そして、集まるタタリたちへとはっきりと宣言した。
――もう敵はいない。
――敵は討ち取った。
その言葉に、タタリたちのざわめきは次第に鎮まっていく。
憎悪は行き場を失い、やがて他の対象を求めるように散っていった。
確認を終えた杳は精神を引き上げ、肉体へと戻る。
「――捉えた」
短く告げ、黒く染まった赤布を及己の前に差し出す。
「……ありがとう。助かった」
及己はその赤布の黒い部分へそっと手を伸ばす。手の平が淡く発光し、その光が布に染み込んだ黒を外へ押し出すように消していく。
押し出された黒い念は、まるで燃え尽きるかのように、静かに跡形もなく消えていった。
「……これでとりあえずはよし、と」
杳は膝についた土を払いながら立ち上がる。
その表情は平静を装ってはいるが、どこか疲労の影が濃い。
「叔父さんと及己には色々聞きたいことがあるけど……」
二人へとゆっくり向き直る。
「ちょっと頭がいっぱいいっぱいだ。まずは明日、荷前の家に行ってからにする」
そう言い残し、彼は先に母屋の中へと戻っていった。
その雰囲気は、いつもと変わらないように見えた。
声も、姿勢も、表情も普段と大差はない。だが、その足取りだけがいつもよりもずっと硬質で、何かを強く踏みしめるようだった。




