44話 影の男
墓所へ戻ると亘がいた。家にいろと言われながらも、どうしても気になってしまったらしく槐の墓穴の前にただ静かに佇んでいた。
及己は奪い返してきた槐の手首をそっと元の位置へ戻し、包んでいた風呂敷で傷つかぬよう、優しく固定する。
「墓を戻すには人手がいるだろう。呼んでこようか」
亘の気遣いに、及己は静かに首を振った。
「いい。私がする。……こんな姿を、佐伯家以外の人に見せたくない」
言って二人を少し離れさせると、及己は墓へ向かって両の手のひらをかざした。
するとまるで時間が逆行するかのように、掘り返された土が、こじ開けられた棺が、ひとりでに元の場所へと戻っていく。
最後に横倒しになった墓石がゆっくりと持ち上がり、寸分の狂いもなく元の位置へと収まった。
及己は、その墓石をそっと撫でる。
「……墓石が割れていなくてよかった」
心の底からの安堵に満ちた呟きを聞くまで杳と亘は、墓が戻る光景が夢のもののように感じ、言葉を失っていた。
やがて気を取り直し、二人で清められた墓を布で丁寧に拭き上げていく。
その後、結界の際で倒れている二人の男のことを亘に伝えた。
三人で転移し、その惨状を見た亘が半ば急かすように及己に言う。
「処置をする。離れの医局に運んでくれ」
「わざわざ亘を煩わせなくても、こいつらの主に引き渡せばいいんじゃないのか」
不満げに言う及己を、杳が制する。
「叔父さん、頼む」
そして静かに付け加えた。
「――意識が戻ったら理由を聞きたい」
その声はもはやただの優しい少年のものではなく、佐伯の当主の、静かで揺るぎない声だった。
♢
墓を荒らした二人の男が目を覚ましたのは、夜明け前の光が医局の障子を照らし始めた頃のことだった。
及己の応急処置に加え、亘の手当が功を奏したのだろう。しばらく虚ろなまま天井の木目を彷徨っていた視線が、次第に焦点を結んでいく。
だが、自らが横たわる寝台の硬さと、鼻腔に届く薬草の匂い、そして何より枕元で無言のまま薬研を挽く男の横顔を認識した瞬間、彼らの時間は凍りついた。
――佐伯の家だ。
その事実に思考が辿り着いた途端、二人の顔から揃って血の気が引いた。
何かを言おうと口を開くが言葉にはならず、ただ荒い呼吸が漏れるだけ。その姿は、まるで裁きを待つ罪人のようだった。
亘はそんな二人の様子に気づいてはいたが一瞥もくれなかった。
その胸中にどれほどの怒りと軽蔑が渦巻いていたのか、誰にも想像することしかできない。亘はそれらすべてを医家としての仮面の下に完全に押し殺していた。
薬草を混ぜ込んだ重湯を匙に取り、一口ずつ淡々と彼らの口へ運ぶ。その所作には慰めも責めもなく、ただ必要な処置だけがあった。
静かで、重苦しい時間がどれほど続いたのかは分からない。
やがて二人が重湯を飲み干し、かろうじて一息ついたその時、朝の務めを終えた杳が母屋へと戻ってきた。
普段であれば簡単な朝餉を口にし、昼前まで休息に入るところだが今日は違う。
亘から二人の意識が戻ったと聞かされた杳は、務めの装束だけを解くと、休むことなくまっすぐ医局の戸を開けた。
そこに、及己の姿はなかった。彼女の放つ人ならざる者の気配はただでさえ怯え切っている者たちをさらに追い詰めてしまうだろう。それは、杳なりの配慮だった。
「正確な情報を聞き出すためなら」と、及己は不承不承ながらもその提案を受け入れたが、付け加えることは忘れなかった。
「――その場にはいないが聞き耳を立てる」と。
杳もまた、それを望んでいた。
この問答は、及己も立ち会って然るべきものだと考えていたからだ。
医局に杳が静かに姿を現す。その瞬間、二人の男の身体がびくりと大きく跳ねた。
逃げ道を探すように泳ぐ視線は、どこにも行き場を見つけられず、ただ虚空を彷徨うばかりだった。
「――君たちの命が助かったのは」
同席していた亘が、静かに口を開く。
医家としての穏やかさを保ちながらも、その声には硬質な響きがあった。
「――この杳が助けろと言ったからだ」
その言葉に、二人の視線が恐れとそれ以上に理解不能なものを見るように、杳へと突き刺さる。その視線を杳は逸らさず、ひたと見据え返した。
「同情だけで助けたわけじゃない」
声なき二人の問いにやや吐き捨てるような口調で杳は答える。
「人として、見捨てることを良しとしなかっただけだ。
それに――タタリになられたらたまったもんじゃない」
最後の言葉には、刺すような冷たさが含まれている。
「それに、なぜあんなことをしたのか聞きたい。包み隠さず全部話せ」
嘘も、誤魔化しも、一切通用しない。
その目とその声が、絶対に逃さないと告げていた。
二人は互いを補い合うように、また自らの罪をなぞるように、ぽつりぽつりと語り始めた。
荷前家は、交易を担う家系だ。楸と岸邱を行き来するいつもの道中で、気さくな雰囲気で話しかけてきた一人の男がいたという。
ごく普通の村民に見え、てっきり岸邱からの連絡役か何かだと思った、と二人は語った。
男は言った。
荷前・賢木・乙夜の三家が、本家である佐伯と揉めたと聞いた、と。
さらに、土地のタタリによって三家が苦境に立たされているとも。
その語り口は、ひどく同情に満ちていた。発狂者のその後を心の底から案じているように見えた、と。
蜜のように優しく、胸の裡の深い部分に染み込む毒の言葉を、毒と思わせずに二人に囁きかけた。
『あのままやられっぱなしは悔しくないか?』
『鬼鎮め失敗による発狂と回復は、佐伯の優位性を示すための狂言かもしれないぞ』
『卑怯な一族だろう? 一泡吹かせてやろうとは思わないか?』
囁きは燻っていた不満の火種に、巧みに油を注いだ。
計画に手を貸せば駄賃をやろう。岸邱で二日、好きに遊べるだけの金を。
『姑息な手で分家の若者を苦しめ、家の評価まで貶めたのだ。報いを与えてやれ』
『何、少し奴らが大事にしているものを荒らしてやればいい』
『奴らの権威の象徴を貶めてやれ。それが報いだと言ってやれ』
言われるうちに、そうだ、その通りだと思うようになった。
主家が受けた屈辱への怒りと、目の前にちらつく僅かな報酬への欲望が心の内で混じり合い、やがて分別という名の箍を完全に外してしまった。
――佐伯家先代当主の墓を暴いた。
――言われた通り右手首を持ち出し、あの場所まで運んだ。
――駄賃を受け取り、次の交易で岸邱で何をしようかと考えながら。
だが。
『ご苦労』
その言葉が聞こえたのを最後に、意識は、ぷつりと途絶えたのだと。




