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42話 先代の墓所

 アイドランは確かに言った。


「三人の僕」と。


 そのうちの二人がバアルベリトとエリダナであることは、ほぼ疑いようがない。

 では、残るもう一人は誰なのか。


 現在、封印されている存在は、ヴォルフィスとマルディオスの二体。

 及己の見立てではヴォルフィスである可能性が高いという。マルディオスは自己主張が激しく、感情の振れ幅も大きい直情型の気質で、あの傲岸不遜な王と並び立てば水と油のように反発し合うだけだろうから、と。


 アイドランのあの独演会を思い返せば杳にとってもその推察は腑に落ちるものだった。

 あれは、誰かを従えている王ではない。自分の声に酔い、自分の存在を誇示するためだけに言葉を重ねていた。


 対等な存在など、置けるはずもなかった。


 どちらが先に動くのか。あるいは及己の張る網にどちらが先にかかるのか。

 予測はできないが、敵の輪郭がようやく見え始めた。

 とにかく今は気を引き締めよう――そう、二人で話をしたばかりだった。


 その衝撃はあまりにも唐突に、静かな朝を裂いてもたらされた。

 日課として佐伯家の墓所へ水と線香を供えに行っていた亘が、母屋へと駆け戻ってきた時のことだった。


 庭先へ飛び込んできた彼の様子は明らかに常軌を逸していた。全力で走ってきたのだろう、肩で激しく息をし、額に浮いた汗が顎から滴り落ちている。

 その顔に浮かんでいるのは怒りとも困惑ともつかない、これまで見たことのないほどの動揺だった。


 庭掃除をしていた及己は手にしていた箒を放り出し、よろめく亘の身体を支える。

 自然と強張った声で問いかけた。


「一体、どうしたんだ……?」


 亘は何かを言おうとして口を開くが、上がった息で言葉を発せない。

 ただ喘ぐような呼吸を繰り返し、ようやく途切れ途切れに言葉を絞り出した。


「墓が……」


 その一言に、及己の背筋が凍りつく。


「――槐さんの……」


 その名を聞いた瞬間、思考が完全に停止した。


 時間も、音も、風さえも、止まったかのように感じられる。

 意味を理解するより早く、本能が先に動いていた。亘を支えたまま意識を墓所へ飛ばし、その場から転移する。



 眼前に広がったのは、決してあってはならない光景だった。


 佐伯家の先代当主、佐伯槐が眠る墓所が無惨に荒らされていた。


 静かに土地を見守っていたはずの墓石は横倒しにされ、その下に眠る座棺が土くれと共に乱暴に掘り返されている。

 土地の名士はその身を守るため座棺も二重にして丁重に葬られる。

 その外側の棺は長い年月の中で傷みながらも確かにその形を保っていた。

 そして内側。漆で固められ埋葬当時の姿をそのまま留めているはずの一重目の棺。

 その蓋が、無残にこじ開けられていた。


 その中央に、墓の主は座っていた。

 真っ白な骨に和紙のように薄くなった皮膚をまとい、懐に守り刀を抱いたまま背筋を伸ばして。


 その姿は静かで、生前の気高さがそのまま残されているかのようだった。


 ――ただ、その右手首から先だけが、失われていた。


「……槐さん……」


 声にならない声が、喉の奥で潰れる。

 及己はその光景を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


 背後で、亘が絞り出すように言う。

「昨日来た時は……なんともなかったんだ……」

 そして、続ける。

「杳に報せるにも、今は鬼鎮めの最中だし……」

 

 ――杳。

 その名に、及己ははっと我に返る。


 そうだ。これは自分たちだけで抱え込んでいいものではない。この土地の斎主に、何よりも先に伝えなければならない。


「……呼んでくる。呼ばなきゃいけないやつだ」

 それだけを言い、及己は亘の手を掴み、瞬時に母屋へと戻る。

 呆然とする亘に「家にいてくれ」とだけ告げ、彼女は再び、今度は土地の臍――杳がいる祠へと転移した。



 祠の中は冷たく、静謐な空気に満ちていた。

 その中央で杳は鬼鎮めの儀式の只中にいる。地に突き立てられた『橋』から伸びる赤布を手に、深く座禅を組み、閉じられた瞼は微動だにしない。

 その呼吸は、まるで土地そのものと一体化したかのように深く、穏やかだった。

 及己は音を立てぬように近づき、赤布を握る手に、戻ってきてほしいという念を込め、そっと触れた。



 その時、杳の意識は二百五十年前の戦禍の記憶の中にあった。

 戦の只中で幼子とはぐれた母親の絶望の叫び。後悔に苛まれ、嘆き続ける思念に触れるたび、杳は言葉を見失う。

 自分にできるのは、せいぜい子供を探すための活力を与えると伝え、自らの命を分けることだけだ。

 その嘆きを癒やすため自らの魂の一部を分け与えた――その瞬間、外側から強く手を引かれるような感覚が走った。


 ――本体に、何かあったのか。


 直感が警鐘を鳴らす。

 杳は嘆きの魂に詫び、対話を強制的に断ち切ると意識を肉体へと引き戻した。


 目を開けたその先にいたのは及己だった。金の瞳に浮かぶ、見たこともないほどの焦燥と、深い悲しみ。


「……どうした」


 鬼鎮めの最中に彼女が現れるなど初めてのことだ。それだけでただならぬ事態が起きたのだと、杳は即座に悟る。


「絶対に起こってはならないことが起こった」


 その一言と共に、及己は杳の手を強く握った。次の瞬間、視界が暗転し、二人は佐伯家の墓地の前に立っていた。


 杳の目に最初に映ったのは、信じがたい光景だった。


 倒された墓石、掘り返された土、そして無残に暴かれた祖父の亡骸。

 杳は、ただ驚愕に立ち尽くしていた。


 視界に映るもの一つ一つが現実として結びつかず、思考だけが遅れて追いかけてくる。胸の奥に冷たいものが沈み込んでいく感覚がなんなのかわからず、つい思考を放棄したくなる。


「鬼鎮めを中断させるべきじゃないと思った。

 けど……後回しにする方がもっといけないと思ったんだ」


 背後から及己が絞り出すような声が聞こえた。

 その声はひどくか細く震えを抑えきれていない。自分の判断が正しかったのか、今も迷い続けていることがその声だけで伝わってくる。


 杳は、すぐには振り返らなかった。


 一呼吸、そしてもう一呼吸、意識的に間を置く。

 胸の奥から込み上げてくる感情の奔流を、理性で必死に押さえつけながら。


「……鬼鎮めが終わって、家に帰ってから知らせるなんてことをしていたら…」


 言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。


「――本気で怒っていたさ……」


 その声には、怒鳴り声よりも重いものがあった。

 静かな怒りは時としてどんな激情よりも深く、そして逃げ場がない。


 杳は、祖父の亡骸から失われた右手首の痕跡をただ黙って見つめている。

 その目の奥で怒りが燃え上がっているのを、隣に立つ及己は痛いほどに感じ取っていた。


「――なんとしてでも取り返すぞ」


 絞り出されたその声は静かでありながら、決して覆ることのない絶対的な決意を宿していた。

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