41話 人間と魔族
羊皮紙が地に触れた音さえやけに大きく聞こえるほど、森は深い静寂に包まれている。
杳は言葉を失ったままそれを見つめ、廉もまた無意識に息を詰め、自分たちが『見てしまったもの』を遅れて噛みしめていた。
その沈黙の中で及己は誰にも気づかれぬほど小さく息を吐き、ほんの一瞬だけ胸の奥に残った疲労とも後悔ともつかない感情を静かに押し殺した。
アイドランという嵐が過ぎ去った後に残されたのは、木々の残骸と踏み荒らされた湿った土の匂いだけで、そのすべてが先ほどまでの激しさを嘘のように物語っている。
その静けさの底でふいに場違いなほど小さな声が落ちた。
「あ」
思わず、といった調子で声を上げた及己がどこか決まりの悪そうな顔をして杳と廉を振り返る。
その仕草は、先ほどまで裁定者として在った存在とは思えないほど、少し間の抜けたものだった。
「しまった……小鬼を使って何をしていたか訊くの忘れた……」
その一言が放たれた瞬間、張り詰めていた空気がぷつりと音を立てて弾ける。
あれほどまでに重かった緊張が一気に抜け落ち、代わりにどうしようもない脱力感が場を満たした。
杳は混乱したままの頭を振り、額に手を当てながら心底辟易したように呟く。
「なんか……めちゃくちゃ疲れた……」
廉も同じように肩を落とし、それぞれが思いつく限りの憶測を口にしてみるが、もはや確かめる術はどこにもない。
やがて、考えても仕方ないという、ごく当たり前の結論に辿り着いた。
杳が及己が懐から取り出した本――封印の書へ視線を留めたまま、ぽつりと問いかけた。
「なあ及己、その本の封印ってさ」
「ん?」
「あんなのをいちいち倒すのも面倒だし、相手にもしたくなくて『もう封印しちゃえ』ってなったんじゃないのか」
一瞬、及己と廉の目が揃って点になる。
次の瞬間、理解が追いついた廉が腹を抱えて吹き出した。
「なるほどな! その発想はなかった! あるかもな! いや、絶対そうだ! いいな、それ!」
わけの分からん奴は相手にせずに済む方がいいと笑う廉に、杳も腕を組んで深く頷く。
平和なその光景を前に、及己は手の中の『封印の書』を、まるで初めて見るかのようにしばらく黙って見つめていた。
しばらく間をおいて、肩から力が抜けるように、大きく一つ息を吐いた。
帰り道、杳は「疲れた頭には糖分だ」と言い出し、半ば強引に菓子屋へ立ち寄って団子を買った。
夕暮れの光が縁側を柔らかな橙色に染め、そこに並べられた湯呑みからは細く白い湯気が立ち上っている。
団子を頬張りながら、杳はふと思い出したように口を開いた。
「人間と魔族が争ったって話だけどさ。人間はよくあんなのを相手にできたよな」
及己は竹串の団子を一つ口に運び、噛みしめるようにしてから静かに答える。
「人間は、数の力で魔族と戦ったんだよ」
「数?」
「そう。例えば五人が壁、五人が前衛、五人が後衛……そういう『連携』を重ねて戦った。人間にとって幸いだったのは、魔族が人間のように連携を取らなかったこと」
その声には、長い時を見てきた者だけが持つ、淡い諦観が滲んでいた。
「そもそも、なんで争わなきゃならなかったんだ?」
「さあ……魔族の側からすれば、自分たちの領分に土足で踏み込んでくる者を払っただけ、という感覚だったのかもしれない。あるいは、退屈しのぎの刺激だったか」
一呼吸置いて、言葉を継ぐ。
「人間側は……異種への嫌悪か、恐怖か……そのどちらも、だろうね」
杳はもう一本、竹串を手に取った。
「それだけの力があったのに、魔族がこの世からいなくなったのはなんでだろうな。おまえが根絶したとしても、どこかに残る可能性はあっただろ」
その問いに、及己はすぐには答えなかった。
湯呑みの水面に映る自分の金の瞳を、じっと見つめ、
「人間と関わるようになってから思うようになったんだけどね」
静かに言葉を紡ぎ出す。
「魔族には『繁栄』という感覚がなかったんじゃないかな。寿命がないから、種の保存に興味がないし」
「独りの方がいいってことか?」
「それもある。でも……『食』が不要というのが大きいと思う」
「食?」
思いがけない言葉に、杳の眉がわずかに寄る。
「人間は食がないと生きられない。材料を育てる者、運ぶ者、調理する者……それぞれがいて初めて成り立つ」
「それが分かっているから、人間は協力を覚える。できること、持てるものを寄せ集めて人の世は回っている。数が増えなきゃ回らないのが、人の世だ」
理を語るような、静かな声。
「魔族は食う必要がない。連携も不要だから、同族が増える必要もない……個の力で勝っても、集団の力で負けて、衰退していった。たぶんね」
その言葉を聞きながら、杳は及己の手元に残った、まだ食べかけの団子へと視線を落とす。
「……でも、食べる必要がないのに味覚はあるんだな」
その素朴な疑問に、及己の金の瞳がふっと揺れた。
ほんの一瞬、遠い過去を見つめるような色が宿る。
「……あるんだよ」
風に溶けるほど、小さな声。
「私もあの家族からスープ…杳たちは汁物というあれの相伴に与るまで知らなかった……それまではレクスが食べるのをただ見ているだけだったから」
「あれは衝撃だった」
彼女は団子を一つ、ゆっくりと口に運び、味わう。
「お互いそれを知っていたら。同じように愉しめたなら……世界はもっと広がっていただろうに」
拭いきれない後悔が、声に滲む。
「人間はこんなに美味いものを作れるのに」
そう言って、手の中の団子を愛おしむように見つめる。
その横顔を見ながら、杳もまた自分の団子を口に入れた。
柔らかな甘みが、疲れた身体に静かに染み渡る。
「うん。茶屋のおばちゃんの団子はいつでも美味い」
その言葉に、及己はほんの少しだけ顔を上げる。
夕暮れの光の中で、二人の視線がそれぞれの団子が入った皿に向けられる。
「……もったいないなぁ……」
同じ言葉が、同じ溜息と共に、それはどちらからともなく零れ落ちた。
それは種の違いではなく、ただ同じ景色を眺め、同じ味を知り、失われたものを惜しむ者たちの、静かな響きだった。
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