38話 黒い異形
エリダナを封印し、及己の過去に触れた翌朝。
杳はいつも通り朝の務めに出かけ、亘と及己は台所で食事の準備をした後、及己は庭の掃除に取りかかった。
誰もが、今日は何事もない一日になるのだと思っていた。
――だが、そうはならなかった。
亘が日課として佐伯家の墓へ水と線香を供えるため母屋を発ち、及己が箒を手に庭を掃き始めて間もない頃だった。
「――気になることが起こった」
その念は、はっきりとした緊張を帯びて及己の意識へ流れ込んできた。
廉からの連絡だった。
彼が自ら連絡を送ってくることは滅多にない。及己はその一言だけで、ただならぬ事態であると感じた。
及己はすぐに亘のもとへ向かい、墓石を布で拭い清めていた彼に用件だけを短く伝える。
「廉のところに急用ができた。杳が戻っても普段通りにするように伝えてほしい」
亘はその言葉の裏に潜む緊迫を察したのだろう、理由を問うことなくただ深く頷いた。
及己はそれ以上何も言わずその場を離れると、土地の境界線へと転移した。
結界の境界近く、草むらの影に廉はすでに待っていた。
「来たな」
振り向いた廉の顔には、気味の悪いものを見たような、あるいは理解の及ばぬものを前にした時の戸惑いと警戒が入り混じった色が滲んでいる。
その表情を見ただけで、及己の胸の奥がひやりと冷えた。
「どうした」
「これを見ろ」
廉が指し示した先には、黒いモヤのような塊があった。輪郭は定まらず、微かに揺らめいている。
一見すれば、かつて鹿の仔がタタリと結びついた異形を思わせるが、決定的な違和感があった。あるはずの魂の核――生き物としての存在がどこにも感じられない。
あるのはまるで、土くれが固まったような無機質な塊だけだった。
及己は意識を集中させ、そのモヤの内部へと慎重に潜り込む。
すると、黒いもやに紛れて異質なものが見えた。『文字』のような形をした欠片が、ちらちらと不規則に瞬いている。
「……本から生まれたモノ……か? ……いや、それにしては……」
口にしながらも違和感は拭えなかった。文字量が絶対的に少なすぎる上に、それらが粘りつくように土へ絡みついている様子がどうにも不自然だった。
廉が説明する。
自身が張っている境界線に人ではないものが触れた気配を感じてその場へ行くと、小鬼のような姿をした黒いモノがいた。結界に触れるのは危険だと判断して仕留めたところ、その姿が崩れ今のモヤの塊になったのだと。
「本に封印された己が、仮に文字を読み上げても何の縛りも与えられないからな。それに本も持っていない」
廉の言葉が及己の思考を冷やし整理させる。
及己は文字の断片をじっと見つめ、慎重に口を開いた。
『平行線……歪み』
その二つの言葉を発した瞬間、黒いモヤがびくりと硬直した。
及己はその反応を逃さず手を伸ばして文字の欠片を摘み上げる。すると文字が抜けたモヤはどろりとした粘りのある黒い油のようなものへと変わり、やがてじわじわと土へ溶け込むように消えていった。
残されたのは、乾いた手のひら程度の大きさの土の塊だけだった。
及己の指先にあった文字も力を失ったように薄れ、ほどなく消え去る。
二人の間に、静かで重い沈黙が落ちる。
やがて、探るように廉が口を開いた。
「……及己」
及己は廉に向き直り、静かに言う。
「憶測は混乱を招く。一旦戻って少し考えたい。また同じようなことがあったり何か気づいたことがあれば知らせてくれ。すぐ来る」
「ああ、そうする」
短く確認を交わし、及己は佐伯の家へと急いだ。
家に戻った時、杳はまだ帰っておらず及己は無意識のうちに胸を撫で下ろした。
亘に事情を聞かれ簡潔に説明した。杳には状況が読めない以上、無用な不安を招くと考え伏せておこうとしたが、亘は静かな声で隠さない方がいい、と言った。
その言葉に従い杳が戻って休息した後、及己は一連の出来事を伝えた。
話を聞いた杳は顎に手をやり、思案するように視線を落としてから、まず一言、
「……気味が悪いな」
と呟いた。
「おれの休みなんか気にせず、教えてくれたらよかったのに」
少し不満を滲ませたその言葉に、及己は淡々と答える。
「火急ならそうする。今回はそうではないと思った」
じろりと向けられた杳の視線には、まだ納得しきれない感情が滲んでいたが、及己はそれを正面から受け止めることなく静かに流した。
「……なんかの見立てはついてるんだろ?」
逃げ道を塞ぐような問いだった。
「憶測は混乱を招く。思いつきで言うことじゃない」
「今後同じような奴に出くわした時、何の見立てもないんじゃおれの判断が鈍る」
その言葉はそれは単なる好奇心ではない。この土地を預かる者としての、切実な責務から出た言葉だった。
「…………う」
思わず唸り及己はしばらく沈黙したが、やがて観念したようにゆっくりと口を開いた。
「……自分の精神の一部を魔力で土くれに埋めて、駒を作る……そういった術を聞いたことがある……見たことはないが」
都合のいい駒を作るための支配の術。名で縛る方法や、自身の意思と魔力を埋め込み内側から侵食する方法などがあり、今回は後者の応用ではないか、と及己は考えていると告げる。
「自身を構成する文字列の一部を使って駒を作ったのではないか……と」
「駒? 何のために……?」
「単純に考えると、バアルベリトとエリダナを封じたこちらの動きを探るためだ」
「やりそうな奴に、心当たりはあるか?」
「ヴォルフィスか、アイドラン」
ヴォルフィスは周到で、駒を使って様子を見る可能性が高い。アイドランは支配欲が強く、支配できる存在を探すために駒を作った可能性がある――そう根拠を添えて説明した。
「……なるほど……な」
その後、双方の可能性を考慮しつつ、しばらく様子を見ることでその場を終えた。
――その予想は、その通りとなった。
その日の夜、また出た、と廉から及己を呼ぶ念が届いた。
及己は杳を残しすぐに向かう。朝と同じように処理していた及己の前に、もう一匹、今度はやや大型のものが現れた。
威嚇するような唸り声を上げ、口と思しき部分がぐぱりと開いたかと思うと、破壊の力を込めた光の玉を高速で吐き出してくる。
及己はそれをいなし、小鬼を処理した。
抜き取った文字は、『虚飾』と『賞賛』だった。
翌日の昼過ぎに再び廉から報せが入り、今回は杳も同行した。来るなと止めた及己に対し、杳は頑として首を縦に振らなかったのだ。
結果的に杳も小鬼の相手をすることになったが、小鬼程度であればすでに十分に対処できるだけの術を身につけていた。
「存外、動けるじゃないか」
思わず漏れた廉の感嘆に、杳は苦笑する。
「まぁ……毎朝土地を一周して足腰鍛えてるし、鬼鎮め中に武者の動きを見てるからかな。見よう見まねで」
飛びかかってきた小鬼を『橋』で叩き落とし、見えた文字を読み上げて動きを止めると及己に言われた通り橋に文字を引っかけて抜き取る。
「今度は『渇望』か…」
「手慣れたものだな」
廉の言葉に、杳は再び苦笑する。
「タタリを抜く時の要領と似てるから」
そうして処理を重ねるうち、唸り声を上げる大型の小鬼が現れた。
「オ…オ……オノレ……!!」
ぎこちなくも怨嗟を帯びた声に、杳も廉も息を呑む。
「しゃべった!?」
同時に、口のある部分がうねるのに気づいた。
嫌な予感がしたその瞬間には、廉は杳を抱えて横へ跳んでいた。直後、小鬼が吐き出した光の玉が二人のいた地面を焼く。
「なんだあいつ!? 鬼火みたいなの吐いた!」
「鬼火て……じゃない……!」
一瞬、杳にはそう見えるのかと思った廉が判断をわずかに遅らせてしまう。小鬼は再び口を開け、今度は明らかに力を溜めた強力な光の玉を放とうとしている。
杳も回避しようとするが、背後に結界があることがつい動きを鈍くさせた。この攻撃がもしも結界を破壊したら――同じ考えに至ったのだろう、廉は刀を振るって線を引き、咄嗟に境界を張る。




