37話 竈の火
佐伯家の台所は杳が朝の務めに出たあと、竈に火を入れることから一日が始まる。
及己は釜の前にかがみ込み、熾き火の揺らぎと、釜の奥から微かに漏れてくる米の炊ける音だけを頼りに黙って火加減を読んでいた。
一度、火力を落とし米の芯までじっくりと熱を通す『蒸らし』の工程へ入る。釜の奥で変わっていく音の質を聞き分けながら、これだという一瞬を見極めると、迷いなく薪を戻した。
上がった火力で釜底に残った水分を一気に飛ばす『追い焚き』の工程へ。
やがて、パチパチとした乾いた音が鳴り始めたのを確かめ、及己は釜を持ち上げて藁座へと下ろした。あとは手早く御櫃に移し、飯ふごの中に仕舞う。
一連の作業を滞りなく終えたあとで、彼女はようやく口を開いた。
「一の釜は、このあと何かする? 釜輪を出そうか」
「もういいよ。薪の一部を七輪に移してくれるかい、椎茸を焼こうと思ってね」
「わかった」
言われるまま火箸で手頃な薪を掴み、七輪へと移していく。その無駄のない所作を、亘はどこか感慨深げに眺めていた。
「本当に、竈の使い方が上手いね」
「十六年ほど前に一年くらいやったからね。亘や薊の教えがよかったんだ」
火消し壺に余った薪を入れながら、及己は感情の読み取りにくい声でそう答えた。
その口調は落ち着いているが、どこか上の空にも聞こえる。
亘は、その微妙な声色の奥にあるものを言葉にせず察していた。
「……杳に話したのかい?」
七輪に網を仕掛けていた及己の手が、そこでぴたり、と止まる。
「……うん」
それだけを短く返し、再び手を動かし始める。
「そうか」
亘は一拍置き、ほっと息を含むように相槌を打った。
「話せてよかったな」
「……うん」
及己は静かに頷いた。その横顔に浮かんでいる安堵の色を亘は見逃さなかった。
亘はその様子を眺めながら、自分がこの地に来た日のことを思い返していた。
十七年近く前――弟の杲が、見知らぬ女性と添い遂げるために故郷を出ると、そう手紙で告げてきた時のことだ。
驚きはしたが、本人が幸せならそれでいい。当時は素直にそう思っていた。
それから半年後、次に届いた手紙を開いた時、そこにあったのは新婚の惚気話などではなく、弟の訃報と楸の地への行路の説明だった。
何かの間違いではないか。その一点だけを胸に、町で営んでいた薬舗を畳み、この地へと駆けつけた。
出迎えたのは当時の当主、佐伯槐、そしてその隣に座る及己だった。
およそ人のものとは思えない色彩を纏った、十四、五ほどの性別の曖昧な童のような佇まい。だが、その身から放たれる気配はあまりにも異質だった。
――弟はとんでもない場所に来てしまったのではないか。
それが及己に抱いた最初の印象だった。
思い返せば、あの時はずいぶんと酷い言葉を彼女に投げつけてしまった。弟の死の理由を問い詰め、その異質さを責め立てた。
それでも及己は一言も言い返さず、ただ深く、深く、頭を下げた。
――助けられなかった。
――合わせる顔がない。
当主が抱える事情と、及己の背景を知るにつれ、亘の世界観は否応なく塗り替えられていき、いつの間にかこの過酷な土地で生きる者たちへの静かな共感が、胸の裡に根を下ろすようになっていった。
後から振り返れば、自分にとっては初めて会ったあの日、深く頭を下げて詫びたあの姿こそが全てだったのかもしれない。
「杳は驚いたんじゃないかな」
桶で野菜を洗う及己を見ながら亘は言う。
「及己が元々薬を作れるってことに。多分あの子は、僕が教えたって思ってただろうからさ」
「亘から教えてもらったのは間違いない。私のやり方は全然ダメだ……レクスの傷の治りが遅かったのも当然だよ」
「でも薬草を扱う素地はできていた。飲み込みが早くて驚いたくらいだ」
「亘の道具はどれも無駄がなくて、効率がいい」
及己は野菜を洗う手を止め、台所全体を見渡した。
そして、ため息とも感嘆ともつかない息を、静かに吐き出す。
「ここにある道具一つ取っても、全てそうだ。人間の知恵はすごい」
金の瞳には、純粋な敬意の色が宿っていた。
やがて視線を手元へ戻し、彼女は吐き捨てるように呟く。
「――その傲慢故に、知ろうとしなかった魔族は愚かだね。本当に」
微かに滲む自己否定の言葉。
その横顔に浮かぶ深い悔恨の色を見つめながら、亘は心の底から静かに思った。
――及己。
――君は、本当に魔族なのか?
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